2024年月12月2日時点での考察
ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。
魏志倭人だけではなく 日本書紀や隋書倭人伝などを比べ考えると卑弥呼の活躍する時代までの日本の状況が分かってきました。700年の遣隋使の記載が日本書紀に無いことから、隋書倭人伝の方が真実味があります。嘘を書く必要がない為 隋書倭人伝の方を取ります。
この隋書倭人伝は、後漢書や魏志倭人伝を採用している所も多いので、再掲載と思われる。607年の【日出處天子致書日没處天子無恙云云】から 「お変わりありませか?」の表現で、600年の遣隋使は事実だと思われる。
【上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也】
竹島を過ぎてから南に済州島(耽羅)が見えるのだから、竹島は現在の珍島と思える。都斯麻國(対馬)東へ一支國(壱岐)次に竹斯國(筑紫)また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。
華夏とは、漢中を意味する中国古代人。
思へらくは夷洲とは、おそらく台湾人だろうが、疑いは明らかにすること能はず。
私は、筑紫から東に秦王国がると記載されたので、秦人=徐福の子孫の国が遠賀川流域にあったと推察した。秦人と分かったのに台湾人とは不思議であるが、台湾から渡って来た中国人と思ったのではないだろうか。
この頃には、入れ墨文化は薄れて来ていて 入れ墨文化がある南方系民族の縄文人と渡来系弥生人の混血が進み 教養ある文化人には入れ墨が見られない。
朝貢した倭人の様子から 600年の遣使は、隋の始祖、楊堅(文帝)の時代だった。この大業三年(607)は二代目、煬帝の三年目である。最低でも2か国からの遣隋使が行ったと思われる。阿蘇山の大噴火の記載から九州王朝と近畿の大和朝廷が個別に朝貢したと推測される。
白村江の戦いの敗戦から九州王朝は衰退し始めたのが分かる。日本書紀からも非常に動乱した時代だと推察できる。
継体天皇の時に 本流の九州王朝から傍系の近畿ヤマト朝廷に権力が移行したと思われる。継体天皇は本当に天武天皇の系統か怪しくなるが、その家系図は発見されていない。
卑弥呼が 日の巫女なのかは分からないし、天照大御神と同一人物なのかわ分からないが、記紀を編集する時 同一人物にした方が 都合よく 天照大御神は、天の神で結して中国からの渡来人ではない。としたかった。
邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)が、近畿に先に着いた神である事やその母が、萬幡豊秋津師比売である事から 壹与(豊)の子孫と位置付けたのが分かる。