邪馬壹国の不思議さ
2025年月3月6日時点での考察
ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。
邪馬壹国論争が、何故 数百年も続いているのでしょうか?
私は、魏志倭人伝に興味を抱いたのが1年前でした。定年後 暇を持ち余していたところ 近所の翁が 福岡県小郡市力武の竈門神社 が、卑弥呼の墓だと言われたのが 興味を持つきっかけでした。確かにその神社は 丸い古墳の上に建ってい居ますし【徑百餘歩】直径100歩(100股=70m)以上で、80mくらいあります。
それだけで良かったのですが、魏志倭人伝での記載で 生口と奴婢を使い分けている点に疑問を抱き 生口とは奴隷のことか?と思っていましたが、奴婢との違いが分からず 調べていたら 生口=食用奴隷 との記述を発見しました。確かに今の文献には書き難いことで、少し誤魔化す記載です。そういえば、昔のテレビ番組で、パプアニューギニアやアマゾンに人食い人種が居ると言う内容でした。肌が黒く・顔や体に入墨を入れ・シャーマンの占いで村を統治する民です。そう 邪馬壹国の倭人そのものです。東北の縄文人の埴輪の顔に入れ墨が彫られています。そして、wikipediaで 倭人を広域で見ると 黄海のかなり広い範囲での海洋民族=当然 南方系民族も含む その上 日本列島に渡って来た先祖の中に黒潮に乗って来た南方系民族が含まれていた。
人食い人種が自分の先祖と思いたくない一心で 本当の邪馬壹国の場所を探し始めました。
多くの先人や先生方が 無数に意見を述べられていますが、大きく引っかかる点があります。
①何故近畿説の方は 東を南に書き間違えた。とするのでしょうか?最初は記載通りに探して どうしても 説明がつかないので 書き間違えているのでは?と考える方が自然なのに、結論(邪馬壹国は近畿でなければならない)ありきで 探すのでしょうか?
昔の偉い学者が唱えられ その弟子たちが継承していった。若しくは、近畿の方が本が売れたり講演が多かったりする利益の為でしょうか?
箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がありますが、明らかに大きさや形が違います。宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に
②1里を〔古代中国では300歩が1里とされたと云われます。漢の時代には約400mくらいでした。〕事から邪馬壹国の場所を400m✕12000=4,800,000m=4800kmと計算した。と云われますが、どうして〔100里=7㎞前後の根拠;狗邪韓國~對馬國1千余里、狗邪韓國から対馬の最北端まで60㎞くらいですし船を停泊できる所までで70㎞としました。對馬國~一大國1千余里、対馬で停泊した処から対馬を回り込み壱岐に向かえば70㎞弱となります。一大國~末廬國1千余里、壱岐を出発し松浦半島ま50㎞㎞くらいですが海岸沿いに東へ向かい検閲を受ける為唐津で停泊。この距離が合70㎞くらい。〕と書かれている箇所を蔑ろにするのでしょうか?
③陸行を1日20㎞とするのでしょうか?中国の漢時代の文献に陸行1日20㎞と書かれていても ここは日本です。中国の漢時代は中央集権が確立していて 税は漢の首都(長安)まで運ぶ必要がある為 幹線道路は整備されています。当時の倭国の小国家間の道路は整備されておらず【草木茂盛、行不見前人】となっています。それも帯方郡からの使者が通る道でこの有様です。【收租賦、有邸閣】との記載から卑弥呼に年貢を運んでいたと勘違いされたのでは?小国間内だけの年貢貯蔵庫です。卑弥呼と弟は伊都国の検閲権を欲したと思われます。僅かしか生産されない年貢より交易の膨大な利権を欲した方が得です。卑弥呼は女王国(邪馬壹国)を密かに逃れ伊都国に住み弟に指示を出していた。と考えれば 他人にあまり会わないなどの理由が分かります。でなければ 遠くから一大卒に指示が出来ません。もし、他人に一大卒を任せたら 膨大な利権を盗まれたり 反乱を起こされるでしょう。一大卒が弟しかありえません。
領土争いが絶えない小国家間の国境なら 崖崩れや倒木など敢えて整備しない筈です。現在の自衛隊でも軍行スピードは 1日20㎞程です。ましてや熊・狼・毒蛇・毒虫・棘など多く 策食料現地調達・宿舎探しなど 陸行では大変でしょう。現代の私でも 裸足で山道を歩く事など想像もできません。雨の日には滑るので行動しません。陸行1日4㎞と考えるのが妥当な線でしょう。帯方郡からの使者が通るなら村々の接待で中々進めないと主張される方も居られますが、タダ飯だけ飲み食いして土産も渡さないのでしょうか?大陸の珍しい玉などお礼に置いて行く筈です。何処の遺跡にもそれらしき遺物は見られません。女王に渡す玉が減ってしまいますので、寧ろなるべく村に寄らない行程を選んだのではないでしょうか。
④季節を考慮していない。渡海するのですから 日が一番長い夏至前後と考えるべきでしょう。6月下旬は日本では梅雨時です。川の水嵩は増し 道路は寸断しているはずです。夏至の太陽は真東ではなく23度北寄りから上がります。当時の人は太陽が昇る方角が東です。
⑤水行1日1千里と どうして言えるのでしょうか。朝から日が暮れるまで懸命に漕いで1千里。これは分かります。しかし、先の見えない方角に誰が漕ぎだすのでしょうか?
先生の中には、出雲から朝鮮半島に向かうルートをさもありなんかのように唱えられますが、地球の果てがあると信じていた民が 先の陸地(島)が見えない方角など向かう筈がありません。海岸が見える距離でしか航海はしない筈です。
死ぬ気で漕ぐから1日1千里漕げるのです。連続で幾日も漕げません。
⑥【以婢千人自侍】下女千人を自ら侍らせる必要があるのでしょうか?老婆1人を1千人で世話をするなど考えられません。10人で充分です。では何をする人でしょうか?ハッキリ言って女王の権威付けです。伊都国が徴収した通行料=生口を売り買いしていたのでは?「通行料の代わりに 渡海する船の奴婢や生口の半分を置いて行け」や「帯方郡への土産に連れて行きませんか?」など人の売買をしていた可能性はありますが、食べさせるだけで大変です。
結論
陸行は、危険なので 30日も陸行しなければ辿り着かない所に邪馬壹国は在ります。
奈良・纏向に行くのに大和川を使えば、30日も陸行する必要はありません。船を使えない場所でしかありえません。川を上り下り出来ない場所。で探すと日本で1箇所だけ探し当てました。
赤村・宇佐 です。
最初は、宇佐や日向に向かうのに 関門海峡を通るか西回りで長崎~鹿児島ルートを取ろうと考えましたが、敵対する勢力下にあった。
なぜ 関門海峡を通れなかったのか?出雲勢力&近畿勢力&瀬戸内海勢力が、朝鮮半島に渡るには、宗像~大島~沖ノ島~朝鮮半島のコースが最短です。しかし、安全を考えると松浦半島~壱岐~対馬~朝鮮半島ルートが潮の流れからして安全でしょう。要は 宗像ルートを取る勢力下に関門海峡は在った。と推測できます。
では、長崎ルートは 狗奴國傘下に属します。菊池平野から天草・本渡・島原と非常に近く 狗奴國が朝鮮半島に渡るルートは長崎五島列島~済州島(180㎞)あり渡れません。鹿児島~琉球列島~台湾 ルートになり 朝鮮半島に渡らず 直接中国本土に向かったと思われます。狗奴國も松浦半島ルートを欲したと思われます。
これが、素直に倭人伝を読んで出した 私なりの結論です。
卑弥呼たちの邪馬台国の倭人は、大和朝廷から滅ぼされた。と思いたい。
邪馬壹国 まとめ
2025年月3月4日時点での考察
ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。
邪馬壹国の場所は、どうしても陸行でしか行けない場所です。何故なら、狼・熊・マムシ・ムカデなどの危険な動物が居る陸地での宿泊が困難を要するからです。重たい鏡などを30日もかけて陸行するしか方法がない場所に邪馬壹国は在ります。川を上ったり下ったり出来ない場所に在る。近畿説を取る方に質問です。どうして難波から萱船に乗り換えて大和川を上らなかったのでしょうか?大和川を上れば3日も歩けば着くところに纏向はあります。それとも難波から陸行して松坂まで行ったなら距離は合いますが・・ このルートなら伊勢半島を回った方が早いですね。
近畿説の弱点は、中国大陸との距離です。【郡使往來常所駐】を近くに置かず遠い九州に置くことは考え辛いし、大陸から離れた地に 郡の使者が往来できるはずも有りません。群の使者は、倭国に観光に来ているわけではなく、スパイ活動を含めた大使館員の役目を負っていた筈です。直ぐに報告できる所に居なければなりません。倭国の情勢が分かり、事があれば直ぐに逃げ出し帯方郡へ報告できる場所。やはり伊都国=糸島になります。それとも宗像でしょうか。
記紀に出て来る神武東征や神功皇后伝説を邪馬壹国と結びつけようと苦心した記紀に影響したと思われます。
私は、伊都国から放射説を取りました。何故なら、①途中から里から日にちに変わっている。②季節は渡海に都合がよい夏至頃=梅雨時。帯方郡の使者は 不弥国から伊都国に引き返したと判断しました。伊都国から奴国~不弥国 御笠川を上り大宰府付近で宝満川に移り 有明海に入り 妻郡から吉野ケ里あたりまでが 投馬国と考えました。長崎・天草方面は狗奴國勢力下の為 西回りは出来なかった。そして同じく 伊都国から奴国~不弥国 御笠川を上り大宰府付近で船を降り東へ歩く(西方面は伊都国から向かう方が早い。南方面の朝倉・日田方面なら船を使ったが安全だし早い。)東しかありません。裸足で1日に歩ける距離を3~4㎞と考えます。当時は中央集権国家はまだ出来ておらず、租賦(ねんぐ)は、小国家内であったと推測できます。小国家間の道路は寧ろ侵略防止で整備されていなかった。崖崩れも放置されたままであったと推測できます。直方~赤村~宇佐あたりまでが 邪馬壹国と思われます。
不弥国を宗像と云われる先生も居られますが、宗像の重要性を海の神 辺津宮 (へつぐう)市杵島姫神を祀る神社とは有名ですし、宗像から大島や沖ノ島を渡るルートは後記述しますが、近畿・瀬戸内地方・出雲地方など宗像からは東の倭人国が使うルートです。伊都国の支配下を通りたくない勢力のルートなのです。大島から沖ノ島を経て朝鮮半島に向かうには 海の神の助けが必要なほど困難な航海だったでしょう。時速4㎞の斜め前からの海流と戦いながら向かわねばならない。当然 安全を考えれば 松浦半島から壱岐~対馬のルートを取りたいはずです。そのルートを取れなかった原因を探るべきです。それは、違う勢力圏にあったと見るべきでしょう。松浦半島~壱岐~対馬~朝鮮半島ルートは、魏志倭人伝でも記載がある邪馬壹国の女王の勢力下であったことが、分かります。
卑弥呼が共立された時 伊都国の検閲権を貰って弟を一大卒とした。卑弥呼は密かに伊都国に移り住みそこで弟に指示を出していた。その為 他人とは殆ど会わず弟1人が会っていた。でなければ水行10日+歩いて30日もかかる遠方から大陸との交易の采配は出来ない筈です。
帯方郡からの使者が、邪馬壹国に向かうなら 本来なら多々良川を上るか関門海峡を水行した方が楽で速いのだが、糟屋郡以北東に安曇族や遠賀川流域族が居たため迂回できなかった。出雲・近畿・安芸・吉備などの多くが、安曇族などの宗像~沖ノ島を経由し 朝鮮半島に渡っていたと思われる。何故なら、天動説を信じ海の果てがあると信じていた当時の民が 目的地も見えない海に漕ぎだすとは考えられず、日が明るいうちに 陸地(島)の見える方角に懸命に漕ぐ方が理に会っている。その為 西に日本列島沿って宗像まで行く方が安全だ。その為 宗像から関門海峡の勢力と出雲や近畿勢力は同盟を望んでいたかもしれない。
例えば、近畿から朝鮮半島に向かうには、宗像の勢力と遠賀川流域の勢力に(1つかもしれない)に通行料を払わねばならない。海流を考えるなら松浦半島まで行く方が安全なのだが、そこでも伊都国に通行料を払い必要があるので、伊都国を配下にしたい。卑弥呼が死んだので揉めた原因はここに在った。
先ほどの 直方~赤村~宇佐あたりを豊の国(豊前・豊後)=トヨ=壹与の国なので、卑弥呼の後継者が納めた国家と考えている。卑弥呼の亡骸は糸島に埋葬されたが、後継者の手により赤村か宇佐に移された。宇佐神宮は、卑弥呼と壹与を祀っている。
ある先生から 不弥国を宗像だと思っている。と前述しましたが、奴国~不弥国までが100里(7㎞前後)との説明はどうするのでしょうか?宗像を不弥国とすると奴国の位置は福津市から古賀市になってしまいます。それから古賀市を奴国とすれば伊都国は100里で新宮あたりでしょうか? 500里先の末廬國まで考えると 不弥国が宗像の説はかなり無理があります。〔100里=7㎞前後の根拠;狗邪韓國~對馬國1千余里、狗邪韓國から対馬の最北端まで60㎞くらいですし船を停泊できる所までで70㎞としました。對馬國~一大國1千余里、対馬で停泊した処から対馬を回り込み壱岐に向かえば70㎞弱となります。一大國~末廬國1千余里、壱岐を出発し松浦半島ま50㎞㎞くらいですが海岸沿いに東へ向かい検閲を受ける為唐津で停泊。この距離が合70㎞くらい。〕【郡使往來常所駐】とは、糸島しかありえません。
素直に 魏志倭人伝に書いてある通りに考えるべきではないでしょうか。南を東と書き間違えたなどと解釈をするからおかしくなるのです。南は南です。7万戸は7万戸です。100里は100里なのです。昔の人の目なら10㎞先くらい先までなら見えたでしょう。
7万戸を35万人と考えるからその人数を食べさせる場所を探さねばならなくなります。倭人伝を読めば、【有屋室、父母兄弟臥息異處】と書いてあります。当時の庶民が家に幾つもの部屋がある建物で生活していたはずはありません。歴史資料館に行って見てください。竪穴式住居で1坪半くらいの円錐形の茅葺住居です。その住居に1人若しくは子供と母親が住んでいたと考えれば7万戸の人口は多くて10万人だったのではないでしょうか。
多くの先生方は先入観で考察されていますが、魏志倭人伝に書いてあることを忠実に考察しその上で、魏が置かれていた国際情勢を加味し 所々に誇張がある事を推測されたら 自ずと倭国の実情が分かってくると思います。
誇張ヶ所と推測できる所。對馬國(有千餘戸)、一大國(有三千許家)どう考えても対馬に1千人以上住んでいるわけもなく、【差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴】と記載する貧しい壱岐に3千人以上もいるわけは無い。刀伊の入寇時の記録を見ても 壱岐の実人口(島民148名が虐殺され、女性239人が拉致された。残されたのはわずか35名であった)=422人より7倍多い。他の箇所は、国の範囲が不明なため断定できない。その上 島に点在する住居を 帯方郡からの使者が数えた訳でもなく 島民か役所の人に聞いただけ。(住民台帳など存在しない。)
私は、生活燃料である薪の消費量でも 邪馬台国を探しました。薪の消費量は1日で、1戸あたり節約して2㎏。1年間に2×365日=730㎏ 寒い日本海岸沿いや内陸地方ではこの3倍以上の薪を必要とします。この量を7万人以上が必要とすれば、暖かい地方でも、1日に140トン必要になります。近くの山は1年で禿山になるでしょう。人々は食料を求める前に 生活燃料を求めて離散して行くと思います。食料が容易く手に入る為に水稲を始めたのに 人口密度が増して逆に生活し難くなってしまう。薪を買うには通貨が流通するまで時代を待つ必要があります。1集落での生活者は、100人前後ではないでしょうか。その集落が点在し国家を形成している。と考えれば納得できます。ただし、暖流が流れている海岸線では、流木などで多くの生活燃料を得る事が出来ます。しかし、南九州はアカホヤ火山や桜島・霧島などの火山灰の影響で 当時の水稲は出来ません。行って見たら分かりますが、真っ黒い畑が有り 灰を被った野菜が採れる所です。後の時代に出て来る隼人族は海洋民族です。
もう一つが、鉄の製錬です。鉄を製錬できる高温炉の遺跡があるのは、糸島・熊本の菊池・北九州の遠賀川流域です。僅かに出雲地方には在りますが、温度が低く鏃を打ち直した程度の物です。鉄の普及無くして 大々的な【居處宮室、樓觀、城柵嚴設】は出来ません。近畿の宮殿や古墳が多く作られたのは、第10代天皇 崇神天皇 4道将軍派遣以降の事で、吉備や北九州で高度な鍛冶技術を獲得したのではないでしょうか。それからは日本統一が早くなります。
私の家の近くに神功皇后所縁の神社があり 建立1800年と掲示されています。これは、記紀にによる記載と思われますが、大陸の広開土太王碑を鑑み150年引いた1650年頃と思われます。それだけ 記紀の時代背景はいい加減だと思われます。
最後にもう一度言います。女王卑弥呼が居た当時の九州には3~4の勢力があった。
1.女王卑弥呼の共立国
領土;博多湾から佐賀一帯。糸島市・筑紫(福岡市・那珂川市・春日市・大宰府)・直方・宇佐・阿蘇周辺 ・有明海北部から日田・玖珠を通る日田街道。
投馬国;妻郡~吉野ケ里あたりの有明海沿岸。
邪馬壹国;直方~赤村~宇佐方面
2.男子を王とする狗奴國
領土;菊池平野・熊本平野。長崎・雲仙・天草地方。(天草から雲仙までは近いので、有明海の制海権を持っていた。
3.出雲から発祥した(若しくは同盟族)安曇族(+もし、他の部族なら遠賀川流域一族)
領土;福岡県粕屋郡から篠栗・新宮・古賀・宗像(+関門海峡から遠賀川流域)
役目;出雲一族の朝鮮半島渡海航路の確保(宗像・大島・沖ノ島ルートを守る)
*不弥国と安曇族国との国境は、多々良川。不弥国と奴国との国境は御笠川。不弥国は、博多区・須恵町・宇美町などかなり狭い。
明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹嶋 南望聃羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又経十余国達於海岸— 隋書 列傳第四十六 東夷 俀國[3]
「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を使者として倭国へ派遣した。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望む。
はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東の?イキ国へ至り、またチクシ国へ至る。また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」
百済=朝鮮半島南西地域、 竹嶋=チンド、 耽羅國=済州島、 都斯麻国=対馬国、 一支国=壱岐国、 竹斯国=筑紫国、 秦王国=安曇族or遠賀川流域国 若しくは、同族か?
女王国時代の倭人は入れ墨をしていたのか?
2025年月2月19日時点での考察
ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。
魏志倭人伝では、倭人は【男子無大小、皆黥面文身。】と記載されていますが、前文の女王国までの道筋の文面から急に話が変わっています。まるで昔の物語を記載しているかのようです。【自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。】【夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。】【諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。】ここまでの文章は、漢の時代からこのように伝え聞いている。くらいのことでしょう。倭人全員の特徴ではなく 一部の種族を表しているようです。縄文人は入れ墨をしていた事が証明されていますし、弥生人は入れ墨文化は有りません。記紀などを見て見ましても 黥面文身 の記載は見当たりません。縄文人と弥生人の混血が進む過程で 徐々に入れ墨文化は廃れて行ったと思われます。中華思想で 入れ墨をしている者達は 蛮人と思われていて、卑弥呼の時代に中国に使者としていく者は入れ墨をしていなかったと思われます。ただ、生口を壹与が中国に送った記載から まだ食人の習慣は残っていたと思われます。記載に生口と奴婢を使い分けしている。褒美に生口を与える事から 生口の内臓に薬のような効用感じていたのではないだろうか?江戸時代でも首切り役の山田浅右衛門も 死体から取り出した内蔵で膨大な財を成していたと知られている。隋王がたった数人の生口と粗末な草木染の反物を貰って喜んだのは、隋の時代は少なくなった生口文化を余命短い王に差し出した点が大きく評価されたのではなかろうか。その後の倭人からの朝貢では 生口を多く差し出している。長生きの倭人の血が滴る肝臓は貴重なものだったかもしてない。
【倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣】この記載は、倭国が九州を含めた温暖な地方だと分かる。
【計其道里、當在會稽東治之東】この記載が、不思議である。緯度的には、鹿児島あたりとなるが、当時の情勢を考えると 少しでも呉の東の海と云いたかったのであろう。
魏志倭人伝の記載は、バラバラな時代を繋ぎ合わせて記し、本当の倭国を記載したとも思われないが、断片的には 調査した形跡があるので 迷わせる所以となっている。
卑弥呼の墓の謎
2025年月2月16日時点での考察
ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。
何故 卑弥呼の墓が見つからないのか?
考えられる理由として、①まだ発掘されていない場所にある。②既に発見されているが、盗掘などで 分からなくなっている。
①の場合は、発掘を待つ必要があるが、②の場合を検証してみます。
【卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定】
との記載から 卑弥呼の墓は誰が造ったのか?の疑問が湧く。
【大作冢】から、卑弥呼が死んで造った。と書かれているので、生前から墳墓を築いていたとは考えられず、卑弥呼の弟か壹与と思う。国が乱れている最中に 弟が作っていたとは考え辛い。 又、その時の男王は、力関係から 卑弥呼の弟か奴国の王 若しくは投馬国の王の可能性が強い。一番可能性が強いのが、卑弥呼の弟である。卑弥呼が残した 地盤と交易の利権を持っていたが 他の王(特に奴国)が、伊都国の利権を奪還したかった。(卑弥呼を共立する前は 奴国の領土だった可能性がある)千人余りの死者との記載から、伊都国と奴国だけの争いだけでは無かった。卑弥呼の死により 糟屋郡の安曇族や遠賀郡の勢力(同じ一族の可能性あり)も伊都国の利権を争った可能性がある。その為 旧女王国連合は、壹与を立てたと推測できる。
安曇族や遠賀川の勢力は、朝鮮半島に向かうのに宗像から沖ノ島経由で対馬の横を通り朝鮮半島に渡るにルートを取っていた。その為女王国同盟の対馬には上陸できず無理な航海になっていた。伊都国~松浦半島~壱岐~対馬 ルートが安全な事は 地形を見れば一目瞭然である。沖ノ島を通るルートは、出雲族も使っていたので、卑弥呼の死後 多くの部族が参戦したと考えられる。
ちなみに 卑弥呼の死を 日食がおこり卑弥呼の太陽神が疑われたと言われる方も居られますが、当時の九州では皆既日食ではなく 一部がかけた程度だったことが証明されている。卑弥呼の死はただの老衰と考えるのが妥当である。(狗奴國との戦いでの死亡説は、争いの地が遠く直接の殺害はありえない)
卑弥呼が、何処に住んでいたかと云うと 伊都国と考えている。何故ならば、伊都国から水行10日+陸行30日の地に住んでいては、帯方郡までの使者はどんなに早くても片道2ヵ月掛かる。巨大勢力が存在する北部九州からそんなに離れるだろうか? 寧ろ 近くに身を潜め一大卒の弟に指示を出していたと思うのだが。その為 殆ど人に会わず 伊都国の宮殿深くに潜み 弟のみに会っていた。と考える方が 自然である。
女王国まで、水行10日+陸行30日の地に住んでいたと思っていると 場所が分からなくなる。卑弥呼の居住区を弟の一大卒が分からない様に隠していたと推測できる。倭人伝通り女王国を探すと 大宰府から陸路で嘉麻~赤村~築上町~宇佐 までで92㎞くらいで、歩けば30日くらいで着く。(中央集権が未完成な倭国では、小国家間の道路は整備されておらず 寧ろ 通り難いように 崖崩れなど放置されていた。川などの水路が安全なのだが、大宰府から宇佐までは陸路を使う必要があった。宗像や関門海峡は、他の勢力下)倭国内での陸路は1日4㎞以下だと思われる。今の世でも密林などを裸足で早く歩けないし、食料や宿泊地の確保に時間が掛かり 野獣を避けるためにも夕暮れ前に宿泊地を決めるはずだ。中国本土のように1日20㎞歩けると考える方がおかしい。
卑弥呼の墓の大きさは、【卑弥呼の死によって大いに塚が作られた。径は百余歩、殉死した奴婢は百余人】の記載から 径は百余歩 とあるから 1股(70㎝弱)×100=70mくらい。中には2股を1歩(140㎝)と云われる方も居られますが、今の日本でも1歩前進と言えば、2股進むバカは居ないでしょう。
そして、その記載から 帯方郡の使者はその墓を実際に見ているわけでは無かった。伝え聞いただけなのだ。数を数えるのが苦手な倭人が、100歩や百人と言っても 多いとの意味では無いのか。大きな墳墓を作るのに多くの工夫(奴婢)が携わり その者達を一緒に埋めた。と考える方が自然である。卑弥呼の世話をしていた女官を埋めるより 男王の側女にした方が 自然である。そして、その女官は後の壹与の女官となる。
卑弥呼の死により 直ぐに内乱が起こったのに 大きな墳墓を作れるだろうか?箸墓古墳のような 巨大古墳は20年以上は工期が掛かるだろうし、その後の管理で皇位の継承が必要な事は想像できる。(箸墓古墳などの天皇家に関わる古墳は盗掘されていない。ましてや箸墓古墳は、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に
卑弥呼の死の時には、墓の管理まで気が回るはずが無い。
卑弥呼が死んだ近くに仮墓が作られ 壹与が後から造ったと考えられる。その為 13歳の壹与の足で100歩(40m)くらいの墳墓かもしれない。どうしても女王国に墓を作りたければ、遺骨を運んだと考えても構わないが、多くの埋葬品を宇佐まで運ぶのは大変であろう。壹与以降の継承者が、卑弥呼の功績を考え 赤村や宇佐に墓を作り直した可能性はある。
では何故 朝鮮から離れた土地の女王が、倭国の盟主になれたのだろうか?
卑弥呼は、熊本の狗奴國に対して戦っていたのではなく 北部九州の安曇族や遠賀川流域の勢力その他の瀬戸内の勢力に対して 奇術を使い戦っていた。と推測できる。当時の瀬戸内海は現代より幅が広く交通の便が良かった。近畿や吉備・安芸などの勢力も朝鮮との交易を望み 常に九州を狙っていた。卑弥呼の奇術で波が起こり嵐が来たりして侵攻を食い止めていた事を知った 奴国や投馬国などが、卑弥呼を共立した。と考えられる。しかし、北九州の安曇一族などの 宗像・沖ノ島ルートを持つ者達は、女王国連盟に参加をしなかった。これが、女王国連盟の始まりで、その後 狗奴國が力を付け始めた。狗奴國は、熊本・天草・長崎方面まで勢力を有し、中国からの難民受け入れに積極的だった為 製鉄技術が発達していた。一方、伊都国も朝鮮半島経由で輸入した鉄鉱石で製鉄技術を磨いた。ただし、この技術は同じ女王国内でも伊都国に厳重に管理された。北部九州の安曇族や遠賀川流域の勢力に関しては、中国の秦の民が既に製鉄技術を持っていた。故に九州内で3か所の製鉄技術を有していた。
結論
卑弥呼の墓は、伊都国にある。赤村の墳墓や宇佐神宮などは、壹与かその後継者の墓 若しくは卑弥呼の墓の移転先ではなかろうか。
安曇一族との関係
2025年月1月14日時点での考察
ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。
【邪馬壹国は 陸行でしか行けない所】で述べた
本来なら、篠栗町~飯塚を通るルートや宗像を通り遠賀川を上った方が良さそうだが、遠賀川流域は女王国同盟には属しておらず、迂回したと考えられる。
遠賀川流域(私は、勝手に岡田国と名付けている) 特に関門海峡の利権は大きく 他国の交易船から通行税を取っていたと思われる。(隋書倭人伝の秦王国の事では無いのか?秦の徐福たちの子孫の国)遠賀流域の民は、宗像→沖ノ島→対馬→朝鮮半島 ルートを取っていたと思われる。このルートが、伊都国から通行税も取られないし、目的の島(陸地)が見えるので、航海の目的地が見える。
の所の岡田国とは、安曇一族の国と考えられる。安曇一族と出雲国は同盟関係を結ばなければ、出雲国は朝鮮や中国との交易は出来ない。
粕屋郡を拠点としていた時に 中国(漢王朝)から【漢の奴の国王】をBC57年に貰ったのは、当時 奴国を支配していた安曇国だったのではないだろうか。そして、志賀島の宮殿にしまっていたが、安曇国の本拠地を遠賀川に移動する(追われる)際に 紛失したと考えるのが自然だ。
出雲と大和朝廷軍が、九州に侵攻した時の 道案内兼先方隊となったのが、安曇族で記紀にも似たような記述がある。
広開土太王碑によれば、
- 399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
- 400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した[10]。
- 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた[11]。
仲哀天皇と神功皇后が、活躍した年代が記紀では210年頃からとなっているので120年から150年間のずれが分かる。
210年と云えば卑弥呼の時代と絡み 卑弥呼を神功皇后としたのであろうが、やはり何の利害関係もない広開土太王碑を信じたほうが良さそうだ。ただし、内容は偏った記述となっている。
神功皇后の大敗404年から663年間の260年が、日本の本当の統一期間となる。
孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派 又は、逆の説あるが、中大兄皇子が、新羅討伐を651年に進言したが、採用されなかった記録がある。
中大兄皇子(天智天皇)が、中臣(藤原)鎌足らと共に蘇我氏を倒し、天皇による中央集権国家を樹立したが、先の天皇(斉明天皇)が崩御してから7年(667年)も即位しなかった。
斉明天皇655~661(朝倉宮)
天智天皇668~672(飛鳥)
それまでは、近畿と九州を交代で都としていたが、この7年で、九州王朝から完全に近畿に王朝を移した。この事で、白村江の戦いで主戦となっていたのが九州王朝勢であった。天智天皇(中大兄皇子)は、敗北により朝鮮に近い九州から離れた近畿に移ったと思われる。この期間の7年で情勢が大きく変わっている。
専横著しい蘇我氏を排除したとされる大化の改新についても、近年事実関係が異なるのではないかという説が提唱されており、馬子の子と孫である蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子は後に実現する律令体制への移行を推し進め、外交面では朝鮮半島への派兵計画に反対していたが、天皇即位を目論んでいた軽皇子は乙巳の変で入鹿を殺害し、蝦夷を自殺に追い込み、直後に孝徳天皇として即位した。その後、百済支援を名目とした朝鮮半島への武力介入を強行したものの白村江の戦いに大敗し、唐、新羅との対立が深まる結果となった(乙巳の変#反動クーデター説)。
記紀とは大きく異なる歴史が行われていたのだろうが、当時の力関係で 日本書記が書かれている事が分かる。
個人的には、福岡県小郡市大保駅にほど近い 【大保の仮の宮】御勢大霊(みせたいれいせき)神社が、何故 西向きなのかが不思議だ。何故ならば、2キロ弱北の隼鷹神社も神功皇后を祀った神社で、東(宝満川)を向いて建てられている(宝満川の鎮守と思われる)。その真ん中に有る 力武の竈門神社は、南向き(これは、建内宿禰を祀る久留米高良山を向いている)
*力武の竈門神社は、影媛(やましたかげひめ・建内宿禰の生母)と玉姫(初代天皇・神武天皇の母) 合祀(御祭神 玉依姫命(主祭神)山下影姫命(副祭神) 創建 承平元年9月勧請(931年)
明らかに古墳の上に建立されています。卑弥呼の墓と云う人も居られますが、神社が建っている為 発掘作業は出来ないでしょう。とは言え、境内は何か霊を感じ怖いです。
我が家の可愛い猫たち
2024年12月7日
我が家の猫たちを紹介します。
おねいちゃん猫は、キジトラで、もうすぐ4歳になります。名前を「こまめ」と云います。下の娘が貰って来た猫で、産まれて2・3ヶ月くらいで物凄く可愛く 数人の手を渡り 我が家にやってきました。来た頃は、まだ小さく猫ゲージの柵の間から出入りが出来たほどです。嫌い目がくりくりとして甘えん坊です。そして、食いしん坊です。欠点は病院嫌いで、先生からは狂暴とカルテに書かれました。特技は、おやつをおねだりする時 私の目を見つめてあげるまで目を離しません。後はこちらが根負けしてしまいます。今では6kgを越えるグラマーになりました。夜は私が寝ているベットに上がり込み股の間で寝るので、重くて寝返りが出来ず 大変です。
妹猫は、シャムMIXで、「アンズ」と名付けました。「こまめ」を貰った2か月後に 私が河川敷で拾った猫です。朝の散歩をしていると 何時もの道にダンプが停まり通れませんでしたので、少しだけ回り道したら 猫の鳴き声が聞こえます。「こまめを貰ったばかりなので 聞かなかった振りをして通り過ぎようとしましたが、近くでカラスの鳴き声が気になり 拾って帰りました。産まれて間もない様で 目もあまり見えないようでした。病院に連れて行くとお腹が空いているので体を温めて食事をさせるように言われました。ペットボトルを湯たんぽ代わりにし 哺乳瓶で猫用ミルクを与え 自分で糞を未だ出来ない小さすぎる子猫です。幸い2匹とも猫エイズには掛かっておらず 一安心です。
実を云うと この2匹が我が家に来る前に黒猫を飼っていました。長女が我が家の駐車場で猫を轢いたと 黒猫を病院に連れて行くと 医者から余命3日と云われた猫です。腰骨が折れていました。 しかし、この子が6年も生き続けました。歯槽膿漏で歯が殆ど無く 口臭も凄い。体中は蚤ばかり しかしこの子の長所は甘え上手なところです。娘の懸命な看病で一命を執り止め 歩けるようになりました。しかし、娘の前では 後ろ足が立たないような素振りで 前足で動き 後ろ足は引きずります。そんな日が続いたある日 娘が偶然 「タン」が歩いているのを見たのです。「タンちゃん歩けるじゃない」それからは、娘の前でも普通に歩くようになりました。凄く頭が良い子で 当たり屋猫です。名前をタンと名付けたのは、何時も舌を出しているからです。猫エイズで歯が1本しかな残っておらず、鼻を垂れています。このような猫が野良で生きながらえたのは、人を見たら付いて周り 食べ物を貰うしか生きる方法は無かったと思われます。一度 脱走をしたとき近所の子供が直ぐに連れて来てくれました。子供たちには有名な「チビ」と名付けられた子猫のようです。このタンが腎臓病で亡くなり遺骨を1年間仏壇に置いていたのですが、家内が何時までもお骨をこのままにしておくのは良くないと話を聞き埋めた矢先に猫を貰ったり拾ったり 不思議な事があるものだなと思います。猫を拾うのもこの60年無かった事です。
アンズの事を少し追加します。この子は病院をあまり怖がりません。じっとお利口さんに診察を待ちます。シャムミックスですので、スタイルは良く痩せて今でも3㎏しかありません。ただ、2匹は仲が悪いのです。アンズは孤独が好きで、窓から外を眺めるのが一番落ち着くようです。一方コマメは、寂しがり屋でアンズにすり寄り アンズから嫌がられて「シャー」と云われ それを期に喧嘩になります。今は私の足元で仲良く炬燵に入っています。アンズの食が細くて心配です。物凄く偏食で 魚を嫌いなようです。チュールも食べません。小さい時から食べるのは、チキンです。誰に聞いてもチュールが嫌いな猫を始めてみた。と云われます。普通にしている時は 美人ですが、寝起きなどは、目が▼で目付きが悪く見えます。しかし、人見知りが激しく お客さんが来たら隠れていますので、お客様のお相手は 可愛いコマメ担当です。
大和朝廷の本当の姿
2024年月12月2日時点での考察
ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。
魏志倭人だけではなく 日本書紀や隋書倭人伝などを比べ考えると卑弥呼の活躍する時代までの日本の状況が分かってきました。700年の遣隋使の記載が日本書紀に無いことから、隋書倭人伝の方が真実味があります。嘘を書く必要がない為 隋書倭人伝の方を取ります。
この隋書倭人伝は、後漢書や魏志倭人伝を採用している所も多いので、再掲載と思われる。607年の【日出處天子致書日没處天子無恙云云】から 「お変わりありませか?」の表現で、600年の遣隋使は事実だと思われる。
【上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也】
竹島を過ぎてから南に済州島(耽羅)が見えるのだから、竹島は現在の珍島と思える。都斯麻國(対馬)東へ一支國(壱岐)次に竹斯國(筑紫)また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。
華夏とは、漢中を意味する中国古代人。
思へらくは夷洲とは、おそらく台湾人だろうが、疑いは明らかにすること能はず。
私は、筑紫から東に秦王国がると記載されたので、秦人=徐福の子孫の国が遠賀川流域にあったと推察した。秦人と分かったのに台湾人とは不思議であるが、台湾から渡って来た中国人と思ったのではないだろうか。
この頃には、入れ墨文化は薄れて来ていて 入れ墨文化がある南方系民族の縄文人と渡来系弥生人の混血が進み 教養ある文化人には入れ墨が見られない。
朝貢した倭人の様子から 600年の遣使は、隋の始祖、楊堅(文帝)の時代だった。この大業三年(607)は二代目、煬帝の三年目である。最低でも2か国からの遣隋使が行ったと思われる。阿蘇山の大噴火の記載から九州王朝と近畿の大和朝廷が個別に朝貢したと推測される。
白村江の戦いの敗戦から九州王朝は衰退し始めたのが分かる。日本書紀からも非常に動乱した時代だと推察できる。
継体天皇の時に 本流の九州王朝から傍系の近畿ヤマト朝廷に権力が移行したと思われる。継体天皇は本当に天武天皇の系統か怪しくなるが、その家系図は発見されていない。
卑弥呼が 日の巫女なのかは分からないし、天照大御神と同一人物なのかわ分からないが、記紀を編集する時 同一人物にした方が 都合よく 天照大御神は、天の神で結して中国からの渡来人ではない。としたかった。
邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)が、近畿に先に着いた神である事やその母が、萬幡豊秋津師比売である事から 壹与(豊)の子孫と位置付けたのが分かる。