梯儁(テイシュン)の女王国 旅日記

梯儁(テイシュン)の女王国 旅日記

2024年4月20日

暇な年寄りTomy K

 

突然の辞令

 

グレゴリオ歴240年

魏の朝鮮における出先機関に勤める帯方郡建中校尉である 私(梯儁)は、いつもの二日酔いの朝を迎えていた。仕事先の役場に出勤すると妙に騒がしい。何やらひそひそ話が聞こえてくる。隣机の同僚に尋ねても話を逸らす始末だ。そこへ上官の高尉から呼び出しがあった。何事かと思いながら上官のドアをノック。上官は「直ぐに太守弓遵呼様の処へ出頭するように」と、理由を聞いても何も教えてくれない。私は、ドキドキし歩きながら考えていた。仕事中に隠れてエロ本を見ていた事がばれて叱責されるのかな。でもイキナリ 太守からの懲罰を受けるほどの 重大な失態をした心当たりはないのだが。もしかすると、受付嬢の凛々ちゃんへのセクハラや部下へのパワハラが訴えられたかな?下手すると また左遷を言い渡されるのかな。朝鮮半島帯方郡でさえ 魏の洛陽に務めていた時の些細な事で7年前に左遷されて それから真面目に(たまに、新人女子のお尻を チョットだけ触っただけ)働いてきたのに。

私は、7年前までは、洛陽ではエリート将校で、家族円満で将来を約束された青年だった。妻が出産で実家に帰っていた時 ちょっとした気まぐれで、色目を使ってきた若いだけのブス女に手を出してしまったのが、転落の始まりだった。あの女は下げマンに違いない。1回乳を触った(こねくり回した)だけのブス女からセクハラで訴えられた。懲罰委員会に呼び出されたけど、凄腕弁護士を雇い穏便に終わらせる予定だったが、何もなかった事には出来ず、左遷を言い渡された。女房は子を連れて実家に帰ってしまった。今の仕事を辞めたい気持ちはあったが、今までの奨学金の返済もあったし、田舎の両親も 私の入官に大いに喜び、邑中に自慢して回った姿を思い出す と簡単には辞められなかった。上官からは、「しばらく田舎へ行ってくると良い。ほとぼりが冷めたら帰って来させてやる」と言われたが、7年たっても何の音さたもない。今は気楽な一人暮らしだが、子供の養育費と年老いた両親への仕送り等で、結構 金回りに苦労している。

憂鬱な気持ちで 太守の官邸に足を運んだ。

ドアをノックし入室し頭を上げると 妙に にこやかな太守の顔が目に飛び込んできた。「梯儁君 だいぶ頑張っているようだね。その頑張りに報いる為 長期の旅行をプレゼントしたいと考えているのだが」。「えぇ・・ありがとうございます。」「喜んで貰えると思っていたよ。それでは、これを」と1枚の辞令書を貰った。

辞令書;帯方太守弓遵発、建中校尉梯儁に 邪馬壱国に帯方郡からの使者として出張を命じる。

やった。長期出張だ。ただ 出張の期間も何も書かれていない。詳しくは副官より聞くようにと言われサクサクと退出を促された。副官からの話では、出張手当も出るようだし、経費も使い放題だ。目的は、昨年 倭国の邪馬壱国から魏の洛陽に朝貢が行われ それへの返礼だそうだ。楽な仕事のようだ。

表向きは、邪馬壱国からの朝貢の礼と 皇帝よりの詔書印綬 それに多くの土産を届ける事だが、本当の目的は、倭国の国力の調査との事。「調査と云うと何か きな臭い戦況でもあるのですか?」「いやいや、邪馬壱国から魏王曹叡(そう えい)様に 男の生口4人と女の生口6人、それに草木染の班布2疋2丈(4反2丈)を献じた」そうな。「では、魏王様は『たったこれだけ?この田舎者!』と怒っておられるのですか。」いやいや、「『遠路はるばる、大儀であった』と喜ばれ  邪馬壱国の女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚(卑弥呼に)を含む莫大な下賜品を与えられた」とのこと。たった これだけの品で喜ばれるはずが無いと疑い、親官からの話によると、「30年前の赤壁の戦いの際 魏は、呉の5万の水軍に敗北しており、魏の良き協力国を探していたとの事で、倭国の邪馬壱国が、どの程度の国家なのか調べてくるように」 とのお達しだ。 「但し、軍務に関わることで いい加減な報告をすると、お前ひとりの首だけでは済まないからな」と 脅された。 

なんてことはないと ニコニコ顔で役場に帰ると 同僚から心配そうな顔を向けられた。辞令の話をすると「ご愁傷様」との慰めの声。ウム?・・「タダの楽な出張ではないか。何がご愁傷さまだ。」と不満を云うと、「倭国のが どんな所か知らないのですか」 エ・ちょっと待って、「なにか危うい気がしてきた。ちょっと調べてくる。」 と 役場を飛びだした。

図書館に行って調べても 75年~88年に書かれた「漢書」地理志だけで、あまり資料がない。 そこで、度々倭国から朝貢の使者が来ていたので接客係に聞いてみた。又、倭国への渡航歴がある商人に話を聞いて回った。

倭人は、顔に入れ墨をしている。倭国帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢(後漢25年 - 220年)の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせていた。〕

「顔に入れ墨 きしょくわる 野蛮人や。生口文化が残っている そうな。食われるかも エスカ 処や」

これが、ご愁傷様の意味か。行きたくない。誰代わってくれないかな。誰に相談しても「辞令は君に出されたものだから、行かなければ、斬首刑だな」と言われた。

くそ、どうせ死刑か食われるかなら 凛々ちゃんと やってから死にたい。

凛々ちゃんに土下座をして頼んだが、断られた。なんと薄情な女だ。この女も下げマンに違いない。

私は、わりとポジティブな性格なのだ。

 

旅立

まず、渡海の為 船の調達や剛腕の漁師を集めるため 漁業管轄所の理事長のところを尋ねた。理事長は、難しい顔をしたが、「公務である」と脅し、2隻の船と12人の漁師を紹介してくれた。「港に着いたらこの書類を見せたら 指示に従ってくれる」と封筒を渡された。腕利きの護衛も必要だが、これに関しては、自分の部下から独身者を選んだ。もし食われても悲しむのが少ない方が良い。最初の生贄用に 1人俺より少し学歴の高いだけで、何時も俺を小ばかにした目で見ている いけ好かない奴がいるので、アイツも連れて行こう。

季節は波の荒い冬を避け 日中が一番長い夏至時に渡海した方が良いのだが、行きだけではなく帰りも考え 5月上旬で日和の良い日を選んだ。

出発の前日は、ソープに行って思いっきり腰を振った。渡海には 少しでも軽い方が良い。

護衛の部下たちには長期出張で観光旅行と伝えていただけなので、うきうき顔であったし、留守番の者たちから羨ましがれたり 土産を依頼されたり と浮かれた顔だった。帯方郡を出発したが、最初の1週間は港まで歩きだった。事情を知っている私と副官は憂鬱な顔で歩いた。

港に到着し、漁協の組合長に書類を見せたが、顔色がミルミル青ざめた。ここでも「公務である」と 高飛車にでて すぐに船と漁師を集めさせた。漁師たちは「家族と水杯だけでもさせて欲しい」と嘆願するので、この港で1泊することにした。

翌朝早く 港を出港する。帯方郡から狗邪韓國まで あるいは南へ、あるいは東へ進み 7千里(630km)海岸沿いに進んだ。途中の港でも 帯方郡からの使者で「公務である」と言うだけで、夜の街でも 良くもてたし 美味いただ飯も食えた。

15日後に狗奴韓国に着いた。明日から いよいよ対馬に向かう渡海である。ここでも護衛や漁師たちから「少しでも船を軽くしたい」と申し出があり、私も快諾し、2晩 腰を振った。

漁師たちは、1晩は腰を振ったが、翌日は体力の回復に努めた。私と副官は念入りに2晩 腰を振り続け 朝日が黄色く見えた。

 

渡海

市で、乾物などの非常食を調達(お金は当然払わない)して、水を積み込む。海賊に襲われた時の為、女の生口も乗船させようと思ったが、それよりスピード重視との副官からの提言でそれを採用した。

読者の方は、私がまだスケベ心が残っていると思われるかもしれませんが、生口と奴婢は違います。宿泊地で抱いた奴婢は色白でかわいい声で鳴いたが、生口は若いだけのブスで、鳴かずに泣いているだけ。文化人は、誰も抱く気もしない 海賊に献上するだけの品です。

夜が白み始めた朝早くに出航。ともかく、懸命に南へ向かって船を進ませていると、やっと夜が明け切り遠くに島が見え始めた。対馬のようだ。漁師だけではなく護衛の者たちも懸命に櫓を漕ぐ。「俺は護衛だ」と偉ぶるわけにはいかない。海流に流されたら、海の端から落ちて この世に二度と戻れない。

千里漕ぎ、日が暮れ始めたころ やっと対馬に着いた。みんなへとへとだ。漁師などは昼飯も食べていない。海の怖さを知っているからだ。

対馬に上陸し 休んでいると、島の役人が押っ取り刀でやって来た。顔を見た瞬間ギョッとした。顔に入れ墨があるとは知っていたが、実際に見ると異様だ。役人の話によると、その島は、對馬國と言い 大官を卑狗(ヒコ)と言い、副官を卑奴母離(ヒナモリ)と言う。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。との事。

この島は絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。2日休んで、再び渡海する。次は南の壱岐島へ向かう。

又、千里漕ぎ、日が暮れ始めたころ 壱岐に着いた。ここでも島の役人からこの島は、一大国と言い 官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。との事で、対馬と同じ管轄のようだ。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。など話を聞く。

2日休んで、再び渡海する。次は南に見える陸地へ向かう。

百里で松浦半島に着いた。半島に上陸する前に 小舟が近づいて来て、着いて来いと言う。海賊かと思い一瞬緊張したが、渡航歴のある漁師が「安心しなされ、ただの案内人です」と言う。 どうも舩を停泊させ易い港まで先導してくれるようだ。ここから又5百里ほど東へ移動して、唐津に停泊した。

一大国から合計千余里で、末廬国(まつろ)に至る。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。

やっと、倭国へ着いた。顔の入れ墨には、だいぶ慣れたが、あまり気持ちの良いものではない。唐津には、伊都国から検閲官が使いに来ていて 船荷を調べられた。覚せい剤などの違法物の取り締まりを強化しているし、積荷が無くならない様に調べていると云う。ここでも2日間休むが、漁師たちに船を漕がせ、伊都国へ向かわせた。残りの私・副官・測量士・護衛たちは、歩いて伊都国へ向かうことにした。検閲官は、「船の方が楽ですよ。」と言ったが、私が「船酔いで辛く 歩く」と言ったので、承諾してくれた。本当は、魏から倭国討伐の支持が有っても大丈夫なように、倭国の樹木や動物などの食料調査。小国間の距離を歩測したかった。でも、何て雨が多い国 なんだろう。

ジャングル

歩き始めると、すぐに後悔した。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。また、先頭に歩く者の顔に蜘蛛の巣が張り付き 気持ち悪そうだ。足元は、蛇やムカデが怖く棒で地面を叩いて 進むのが遅い。「ヒィヤー」突拍子もない声が響き渡る。足に蛭が吸い付いているのだ。その様子を見ていた他の者も 慌てて体中を調べ 全員が吸い付いている蛭を取ろうとしている。ヌルヌルして なかなか取れないし、血を吸い真っ赤に親指大に膨れている。汗のにおいに誘われて、蚊の大群にずっと襲われ続けた。午後になり寝床を探すが、民家はなく大木に寄り添い休むだけだった。薪になる木も湿っている為 火の付きが悪い。狼の遠吠えも聞こえるし、何かから見つめられているような野獣の目の光が怖い。伊都国に着くまでの15日間生きた心地がしなかった。「こんなところへ二度と来ない。」これは、私の心の叫びでもあるし、隊員の実際の叫びでもあった。

 

面会

東南東に歩いて五百里で、伊都国(いとこく)に到着した。この国には、邪馬壱国から一大卒と云う監察官が居て めちゃくちゃ偉いらしい。帯方郡の使者が往来し、常駐する場所でもあると聞いて、少しほっとした。そこにいる帯方郡の者たちに話を聞くと。一大卒は、この伊都国を含め30ヶ国の監察官で取り締まりを行っているそうだ。この国には、長官(爾支〔にき〕)や副官(泄謨觚〔せもこ〕・柄渠觚〔へくこ〕)が居たが、全く権限が無く一大卒のパシリらしい。昔、一大卒が来る前はそれなりに権限があったらしい。千余戸ある。どの国も王がいたが、みなは女王国に統属している。ようは、一大卒は女王様直属の監察官のようだ。女王国の卑弥呼は、老婆だが奇術・鬼道を使い 人を呪い殺すそうだ。旅の疲れを癒すためと言われ1日待たされて、一大卒に面会が叶う。邪馬壱国への訪問の目的を伝えると、「遠いところからようこそ来ていただきました。お礼申し上げます。」と私を上座に導き 慇懃に礼を告げられた。「女王国は凄く遠いので、ここで 女王に在ったことにしませんか?と酒宴の場で告げられたが、「魏王より、女王卑弥呼様を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚(卑弥呼に)を含む莫大な下賜品を預かって来ています。女王様に直接お渡しし、魏王のお心をお伝えしなければなりません。どうぞこのまま、邪馬壱国へ案内して頂けないでしょうか」「そのお気持ち感謝致します。なにぶん遠ございますので、駕籠と船はこちらで準備致します。また、荷運びや護衛もこちらで手配いたしますので、お連れの方は、ここにお泊りください。」「はい、ご配慮ありがとうございます。では、副官と数名の護衛だけを連れて行くようにさせて頂きます。」と話が進んだ。私も通訳者も、美女のベリーダンスで超ご機嫌になり、飲み過ぎて 一大卒が案内係にアレコレ支持をしているのは分かったが、話の内容までは、理解出来なかった。

長雨

翌朝 港で、渡海用の船はこのまま置いて行き、別の小舟で出航した。この倭国に着いて しとしと雨が降っている。この国は雨の国なのか?太陽は3日に1回くらいしか見られないのか?不思議な国だ。

東南の方へ船を向かわせの百里奴国(なこく)に着いた。官を兕馬觚(しまこ)と言い、副官を卑奴母離と言う。らしい。官の名前なのか役職なのか分からないが、記録しておこう。二万余戸の貿易港らしい。ヒスイなどの土産はここで買えばよいと教えられる。帯方郡の太守や上官の土産をここで買った。下げマンの凛々への土産は買わない事にした。次に百里東行して不弥国に(ふみこく)に着いた。官を多模(たま)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。そうな。案内人の話によると、どうも ここから葦船に乗り換え 横の割と大きな川を南に上る予定だそうだ。ただ 長雨で川が増水し、崖崩れや氾濫が有っているらしい。「一大卒様から くれぐれも 安産第一と念を押されています。川嵩が治まるまでしばらくここに逗留いたしましょう」と言われ納得した。その夜には、副官・護衛を連れて夜の街へ繰り出した。なにぶん田舎町で数件のスナックしかなかったが、そのうちの1件に私の好みの若い美女が居た。まだ16歳と言う。まだ酒は飲めないが、踊りは色っぽいし、歌がうまい、一緒にカラオケを歌ったり ショーを見たりして、毎晩この店に入り浸った。

断念

10日ぐらいして これからの行程を案内係に聞くと「投馬国へ行くのは、船で南へ20日間くらいかかりそうです。そして邪馬台国へ行くには、船で南へ10日間と、歩いて30日くらいかかる」と言われた。帯方郡を出てから2か月以上経っている。これから2ヵ月掛かって女王国に着いて、帰るころには11月になってしまう。心が折れた。伊都国へ帰ろう。

一大卒に 親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を預け、くれぐれも女王卑弥呼様に宜しくと依頼し、渡海した船に乗り、松浦半島に向かった。

帰りは、割と楽な気がした。邪馬壱国の一大卒が、帰りも上表文を奉り、詔恩(天子からの恩典)を答謝する為、人を付けてくれた。

報告

帰りの船旅で、付いて来てくれた倭人に色々な話を聞いて、報告書に事欠かないような内容になった。投馬国や邪馬壱国の官の名前や戸数も聞いて、行っていないのが ばれない様にして貰った。

帯方郡の太守に報告に行くとご苦労だった。「女王国は遠かったであろう。ここから何里あるのかな」など、質問攻めにあったが、何里と聞かれて焦った。「報告書をまとめますので、しばらくお時間をください。」と言って、辞退した。ここから名距離は、副官と話し合い12,000里と計算した。当然、投馬国や邪馬壱国の日数距離も計算している。

役所に帰ると、みんなから歓迎された。「よく生きて帰って来た」その夜は、慰労会になり、しこたま飲まされた。隣に凛凛が座っている。しきりに俺に色目を使ってくる。冷静に考えれば凛々は、そこまで美女でもなかった。溜まっていた俺が近場の色気のある女に 手を出そうとした過ぎない。8年近く前の失敗を来る返すところだった。多くの遊びの経験を積み 私も、一回り大きく成長したようだと 我ながら思った。

ただ、不弥国のスナックの美女に未練はあった。

機会が有れば、伊都国常駐の役人になりたい。

おわり

卑弥呼と迹迹(toto)姫の戦い

弥呼と迹迹(toto)姫の戦

2024年4月19日

暇な年寄りTomy K

 

これは、フィクションです。

箸墓古墳に葬られている姫 YAMATO TOTOHIMOMOSO HIMENOMIKOTO=第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命を 次から迹迹(toto)姫と略させて頂きます。

 

鬼道を使う卑弥呼と 未来が分かる巫女迹迹(toto)姫の戦いの記録

 

北部九州に大乱が起こり それを収めた魔導師【卑弥呼】と云う老婆がいた。卑弥呼は、小国の山門国の女王に過ぎなかったが、南の強大な狗奴国と鬼道・奇術で 対等に戦い続けていた。それとは別に北部九州では、各国が交易の利権争いをしていた。

地理的に松浦半島は、壱岐対馬を経由して朝鮮半島への交易ルートが確立していた為、どの国家も松浦半島の末盧国を我が領土にしようと争っていた。各国の力が拮抗していた為、調停に入ったのが、山門国の卑弥呼であった。各国の王は、卑弥呼の鬼道を目のあたりにして、恐れおののいた。そして、私たち連合の女王にと嘆願したのであった。卑弥呼が出した条件は、末盧国と奴国の間にある 小国の伊都国の支配と一大卒と云う検閲権であった。また、従来の山門国は、女王卑弥呼の直轄領とした。これにより、北部九州の争いは収まり、邪馬壱国連合は大いに繁栄していく。伊都国を手中に収めたことで倭国中の交易は、卑弥呼の意のままになった。当然 争っていた狗奴国や近畿の大和朝廷も朝鮮に渡るには、伊都国の管理下に置かれ、税も徴収された。朝鮮を通して魏の出先機関である帯方郡朝貢を行ない、倭国の窓口として帯方郡の役人も伊都国に常駐するようになる。そして、魏の洛陽へも直接朝貢をした。邪馬壱国の最盛期であった。

一方、大和朝廷は、元は同じ九州の伊都国から始まっていた。クシフル山の民(日向の民)が、先住民(伊都国)に追われ、一部は南へ逃れ朝倉→浮羽→菊池→高千穂へそして定住。一部は東へ逃れ飯塚盆地→朝鮮半島からの漂着者が暮らす 遠賀川流域文化と合流しの田川の地で勢力を伸ばし、英彦山(日の巫女の山)から日が昇る東の宇佐へ侵攻を初め神武東征が始まる。(宮崎の日向説は記紀の創作です)瀬戸内海沿いに東進し、紀伊半島を回り、奈良へ。青銅製の武器しかなく、婚姻などの政略結婚にて勢力を伸ばして、近畿地方を勢力下にする。これ以上に勢力を伸ばすには、鉄製武器が必要になり吉備と同盟結ぶが、吉備国でも高温フイコが手に入らなかった。朝鮮には、鉄製品の材料や技術もあるのだが、伊都国を卑弥呼に抑えられ交易が思うように出来ない。伊都国を通らず直接朝鮮半島に渡海させるのだが、遭難したようで、誰一人帰っては来なかった。やはり九州を攻めるしかない。

 

卑弥呼の鬼道・奇術に対抗するには、厄払いの巫女が必要と捜したら、孝霊天皇皇女の迹迹(toto)姫の名が上がってきた。恐れ多くも、皇女の迹迹(toto)姫にお願いするしか方法が無く、一同そろって懇願した。

 

卑弥呼の鬼道・奇術は,凄まじく 大和朝廷の貴人が幾人も病に倒れた。迹迹姫も 桃の種を使い厄払いをして対抗する。この攻防が数ヵ月続き か弱い迹迹姫は、衰弱していく。一方 卑弥呼も如何に鬼道が優れているとしても高齢である為 弱っていき 死んでしまった。迹迹姫も卑弥呼が放った死ぬ前の最後の呪いで死んでしまう。迹迹姫の死因が意味不明なのが奇術の恐ろしい所である。姫が、大和朝廷の為に 命をかけて戦ったことの感謝の気持ちと、孝霊天皇の深い悲しみを与し、孝霊天皇の為に造っていた、当時とするなら最大の古墳(箸墓古墳)を彼女に贈った。皇女なのに古墳の大きさが異常なのは、そのためである。

 

大和朝廷は、卑弥呼が死んだ後に 鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣や 第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

 

一方、邪馬壱国でも変化がある。卑弥呼が死んだ後、弟が邪馬壱国の王になろうとしたが、卑弥呼の奇術に抑圧されていた各国の王が、またもや利権を争い始めた。そこで若い壹與を女王にし、帯方郡の使者に後見人になってもらう事で 争いが収まっていた。

 

邪馬壱国に伊都国を占有さられ、朝鮮との交易が出来なかったので、大和朝廷と狗奴国は協力し、大和朝廷は 九州の東北海岸から、狗奴国は 有明海から 攻めた。

邪馬壱国 滅亡。

 

【邪馬台国】 倭国に7万戸の都市は存在しない

邪馬台国】 倭国に7万戸の都市は存在しない

2024年04月17日

暇な年寄りTomy K

この3ヶ月間 暇に任せて邪馬壱国の謎を考えてきました。

誰でも まず疑問に思うのは、魏志倭人伝の信憑性です。話の辻褄が合わないのです。

①何故、【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できる】と書きながら日数で書いたか。

②何故、5千家の小国家 不彌國(フウビ・フヤ)に連れていかれたのか。

③【その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。】地理で言うなら種子島あたり なのに植物の変化は書かれていない。

 

③は、呉への対抗の為 倭国が呉の東にあると思わせたかった。ので、倭国を南に伸ばし 大きく表現した。と分かります。

私は、①は、邪馬壱国と投馬国は女王国より南に在るのか?女王国=邪馬壱国のはず。変な文章です。帯方郡の使者が、行っていないから言われた通り書いたと 考えました。

②は、奴国からたったの100里(約10㎞)しか離れていないのに寄らなければならない理由がある。と推測しました。伊都国から不彌國までは、大きな川がいくつも あります。渡川には船が必要ですので、伊都国からは、船を利用したと思われます。近畿や日本海沿岸、南九州、四国へ行きたいのなら、不彌國へ寄る必要はありません。不彌國から南へ水行20日と書いてあるのだから、ここから御笠川を上る。と解釈するのが自然だと思います。

そうすると、邪馬壱国は、筑紫平野となりますが、私の考えでは、7万戸の邪馬壱国は存在しえない。と結論づけました。稲作用の農地の広さではなく 煮炊き用の燃料に着目したからです。川の氾濫跡の沼地や湖跡の沼地に水稲を植えていたと推測できます。田を耕すと言う概念が無かったと思いますし、肥料を撒くや害虫駆除などしなかった。故に収穫高は非常に少なかったと予測できます。農業未経験の方は、アイドルが稲作のしているTV番組や 小学生時代の田植えなどを考え割と簡単と 思われるかもしれませんが、撮影されていない処で、どれだけの追肥、草取り、害虫駆除を必要とするか 分かっていないようです。

人糞による堆肥は、苦労の割には化学肥料の足元にも及びません。当時の収穫高は、現代の5分の1以下あるいは、10分の1くらいかもしれません。人糞堆肥を撒く江戸時代の半分以下だと予測できます。当然 連作すると土地が痩せ収穫量が減っていきます。大雨や大風で稲はなぎ倒されますし、日照り続きだと稲は枯れます。農業は自然に影響される産業です。

やってみたら分かります。私が中学生の時、親が入院中なので、家族で食べる分だけでも稲を植えようと田を耕し(最初は鍬で耕していましたが、見かねた近所のおじさんが耕運機で耕してくれました)、肥溜めから人糞を運び(1反に大型の天秤バケツで3往復6杯)を 柄杓で撒いていたら、通りがかりのおじさんから「肥料が全然足りない。化学肥料を少し撒きなさい」と教えられたのを覚えています。化学肥料が如何に凄いか 分かって頂けますでしょうか。

水張りや水引きもありますが、細かいことは割愛します。

米の重要な点は、保存が利くところです。海が時化ている時、長雨・台風・地震災害の時に役にたちます。要は漁ができない時 動けない時の為の非常食なのです。弥生時代になり水稲の普及で餓死者が減り 人口爆発を起こしました。

当然、米は生では食べられません。煮炊き用の薪が必要です。人口が多くなるにつれ、薪の入手が困難になっていきます。薪を得る為 遠くへ探しに行き 薪が多く得られる地+農地に適した地に人口移動があったと思われます。そして倭国中で見れば、弥生時代初期に気候変動の影響で急激に減った人口が、増え始め 人口爆発が起こる。

1か所に一定以上の多くの民が定住できないのです。古代の3大文明が繫栄したのは1に水 2に農地 3に燃料(薪)です。薪を得る為、木を伐採し続けやがて砂漠へ。全ての古代文明が砂漠化しています。木の伐採には鉄器が有れば生産性が上がります。

広大な農地が広がっていても、穀物を煮炊きできる術がなければ 人は集まりません。

また、外敵から守る術も必要です。収穫時期に武器を持った野盗が来るのは予想できます。どの時代も自分で苦労せず、他人から奪う輩はいるものです。集落は、吉野ヶ里遺跡の様な 環壕集落。壕の内外には木柵・土塁逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施すと同時に 武器も必要となります。コメの収穫時期には、雀・ネズミ・バッタなどを追い払う必要もあります。

農地だけ見れば 関東平野の方が立地条件は良いはずです。

藁は煮炊きに使えそうですが、火着きや火力は強いのですが、燃え尽きるのが早い。私の生家でも藁を利用して調理をしていた 記憶がありますが、山積み藁の束と紐で括った薪の束の記憶があります。

 

邪馬壱国が越前には 在りえないわけ。 その説に 支持者が少ない訳。

7万戸の人口が越冬できない。今の様な断熱効果がある住宅ではない。燃料(薪)不足。

越前には、稲作遺跡が発見されてい無い。

35万人も住んでいたら、魚貝類も食べていたでしょうが、特に大きな貝塚も見当たらない。

越前に稲作が発展したのは、住宅の改善と通貨の普及で、薪・炭の流通が行われ始めてからと思われる。

当時の弥生人倭国での人口は60万人と言われています。

〔米穀機構米ネット 弥生時代の人口〕

水田稲作が本格的に開始された弥生時代における人口を、遺跡の数から調べてみることにしましょう。弥生時代の人口は日本全体で約60万人、この数字は縄文時代の最大人口27万人の約3倍弱です。地域別にみると、東北や関東地方では縄文時代における推定値とそれほど差がないのに、近畿、中国地方では 20倍以上、四国、九州でも10倍以上と著しい人口増加がみられます。縄文時代には東日本に人口が集中していたのに、弥生時代になって西日本の人口が急激に増加し、東日本ではそれほどの増加がみられないというのはなぜでしょうか。                                    
 このことを考えるため、登呂遺跡を例としてとりあげてみましょう。登呂には12の住居跡がありました。1軒あたり5人が住居していたと仮定すると、人口は60人になります。登呂遺跡における水田面積(75.010m2、 約7町5反)から米の収量を計算し、毎日全員が3合(約0.4キログラム)の米を食べたとすると、とても60人分の食料をまかなうことができなかったという結果になります。しかも、休耕地や自然災害による減収、12軒以外に別の集落の人も利用した可能性なども考えあわせると、米が毎日のように食べられていたとはとても考えられません。つまり、弥生時代に米が食べられたとしても、その量はかなり少なかったとみなすのが自然です。また、水田耕作がもともと熱帯産のイネを栽培するものであり、イネの栽培には、冷涼な東日本よりも温暖な西日本のほうが、より適していました。これらの点からも、早くから米への依存度が高かった近畿地方を中心とした西日本と、イネ以外の畑作物や堅果類の比率が高かった東日本とでは、生産量の違いによる人口支持力も当然異なってきます。                  
 古墳時代には、日本全体の人口が約540万と、弥生時代の9倍にも達します。さらに律令時代では、国家的規模での集約的労働力の投下、進歩した土木・灌漑技術、国司の派遣による農業指導、農業奨励政策などを通じて、水稲耕作中心の農業基盤が確立しました。これにより、耕地が拡大し米の生産量が増えるにしたがって、扶養できる人口数も大幅に増加したのです。ちなみに、奈良時代(8世紀中頃)の人口は600~700万人で、当時の米の生産量は707万石といわれていますから、1人あたり1年間に1石、約150キログラムの米を消費していたことになります。                    
 水田稲作における耕地拡大や収量の増加は、中世・近世を通じて伸び、江戸時代の人口資料をみると、なんと人口は縄文時代のそれと比較して、約100倍にも達しているのです。縄文時代からの稲作を中心とする歴史をひもといてみると、米を主とする食料生産が、いかに多くの人々を扶養するかを左右する重要なポイントであったかがわかります。                                     

魏志倭人伝に記載されている戸数だけでも15万戸。1戸5人として75万人 既にオーバーしています。

 

農地だけで邪馬壱国の場所考えるから理論が行き詰る。それを誤魔化すため、江戸時代の資料などを持ち出し、読者を混乱させようとしています。それを見透かされているから支持者が増えない。

折角、研究しているなら、もっと本やネットで稼げる地域 例えば、関東にしたら講演も増えたでしょう。どうせ場所の特定は「親魏倭王印綬」が他の地域から出土しても 侵略者に奪われた と主張すれば、良い訳ですから。

 

では何故、魏志倭人伝で、邪馬台国7万戸と掲載されているのでしょうか。

簡単です。陳寿は、呉への牽制の為【會稽の東治の東】に在ると 大国邪馬台国を強調したかった。

倭人伝に出てくる国邑や同盟国を合わせると100万近くの人口を要する=兵力が5万人以上の海洋民族の倭国人が、魏と通じている。と 思わせたかった。

人口が多い=豊かな領土が広く 強大な軍事力を有する。

 

私説では、倭人は、数を数えるのが苦手だったので、倭人から聞いた戸数や日数は、いい加減だと思います。むしろ 数えたことが無かった。のが 正直の話ではないでしょうか。聞かれたから有耶無耶な数を答えた。だけです。

私は、投馬国5万戸ではなく2万戸くらい。邪馬壱国5千戸くらいの小国で女王直轄領と考えました。

では、7万戸の邪馬台国と書かずに 5千戸の邪馬台国と書いたら、「問題にもならない小国」と思われ、呉の脅威にもならず、魏王も喜ばなかった。故に、上司から ココを書き直せと指示があったはずです。

陳寿が多めに書いたか どうかは分かりませんが、

見栄っ張りの倭人の案内人が、投馬国の時に5万戸と言ったので、邪馬壱国は7万戸と言った。 と想像も できます。

 

邪馬壱国5千戸の女王直轄領と書きましたが、山門が女王国で、すぐ南の強大な狗奴国に小国山門が善戦していたため、他の国邑からおだて上げられ(共立され)邪馬壱国連合の女王となり、狗奴国から離れた 伊都国に移り住んだ。同時に弟は、一大卒になった。のでは?

 

多くの研究者の方々は、人生と生活をかけて邪馬台国の謎を解かれています。ポット出の私ごときに 長年の研究を疑問視されるのは、屈辱でしょうが、私は、邪馬壱国の場所に 特には 興味はありません。

おかしい所をおかしい と言っているだけです。

 

出来れば わが街に 生口(食人)文化や入れ墨文化がある邪馬壱国が在って欲しくない。

邪馬台国ここに在りをぶっ飛ばす その他の説

茨木説の矛盾

出雲を末盧国とし、越を伊都国とし、長里ばかりを考え長野を通り 日本を横断し、東京から千葉を渡り茨城まで。

歩かずに、船を利用する方を考えなかったの?水行で松浦半島から関門海峡経由を渡り 瀬戸内海経由で海岸沿いを行った方が楽。

発想が長里に固執しすぎ。象徴の富士山の記述がないし、1年や2年では行けないし 帰れない。 これも 理屈に合わない。帯方郡からの使者をそこまで陸行させるの?着くころには隊員の半分は狼や熊の餌食になっていて、多くの財宝も捨て置かれただろう。

長里を基本に考えているため「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」

 帯方郡から狗邪韓国と書いているのに、わざわざ洛陽からと考える。

短里(67㎝~100㎝)なら帯方郡―狗邪国まで(630㎞)を7,000里なら割と正確。

九州説以外の方は、秦の始皇帝が決めた長里約400~435mを取られます。その為、【從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里】を倭に至るには、郡を通って

と洛陽からの距離をグーグルマップで調べたがります。洛陽からも朝鮮半島対馬も長里に合うように図ったのでしょう?壱岐までの距離が合わなくなると、一大国は壱岐ではない。や海流に流され緯度が5度ほど変わってくる。東が45度ずれている。無茶苦茶です。夏至の頃は地位軸の傾きで23.4度ちがうだけです。対馬でも壱岐でも帯方郡の使者は 毎日太陽の方角を確認しますので、海流で流されても緯度は傾きません。末盧国~伊都国までが500里なのです。皆さんは、自分が描いた邪馬壱国の場所に誘導したいだけです。

 

その他 各説に対する反対意見

魏志倭人伝の方角は90度傾いているとして、南をすべて東に読み替える説。

太陽は何時も東から上ります。夏至では、23.4度 東北東から上り、23.4度 西北西に沈みます。倭国内で使者が南を東と間違えるはずがない。左下の地図のようになっていると思ったのなら、南水行20日の段階ですぐわかるはず。

この地図を書いた人は、魏志倭人伝を読んで【水行10日陸行30日】ならと想像し 又、当時の情勢から魏は呉に対して倭国はこうあるべきと思い書いた。

 

この地図を見て考えた90度回転説ですが、1402年に朝鮮で作成された地図です。

魏の時代とはかなり時代が違います。これこそ呉を意識した地図です。

では、【加文·孟席斯《1421,中国发现世界》】では、どうです?90度 回転説を完全に否定しています。90度回転説は、パソコンで5分後に崩壊しました。

 

陳寿が、呉の背後に倭国があると、思わせたいなら【計其道里、當在會稽東治之東】だけで充分で、【自郡至女王國、萬二千餘里】を書く必要は無い。

呉が魏を襲うための中継基地を倭に求めることは無い。済州島で十分。

呉が倭国に鏡を送ったのではなく、呉の年号が入った鏡が 朝鮮半島を通じて 流通していた。

但し、倭国を 呉の監視下に置く為、スパイ等で情報収集はしたはず。

 

東北地方 女王国説

238年倭使、240年魏使、243年倭使、247年倭使・魏使・倭使 交流は頻繁に行われている。どうやって朝鮮半島まで行くのだろうか。松浦半島経由しかないはずですが。もしかすると、対馬海流に乗り北上し、北海道沖でリマン海流に乗り換える。ウラジオストックに着いたら拿捕されます。運よく朝鮮半島に着いたらラッキー。では、帰りは?狗邪韓國から(対馬壱岐は九州北部勢力圏内)運よく対馬海流に乗れて出雲・越の勢力に拿捕されなければ東北に着く。ほとんど運任せの旅となります。対馬と朝鮮の交易は頻繁にありますので、狗邪韓國で出航準備をしているだけで、送り狼や待ち伏せをするでしょう。

それだけ、遠方からの使者や朝貢は危険を伴います。

 

まとめ

もし、一大卒が、お飾りの官僚なら倭国は植民地となっていたであろう。

当時の北部九州の倭国は、鉄鏃・鉄鉾などを使う軍事国家で、いつも戦争をしているから 他国から来る使者を警戒した。そして、ライバル国(大和朝廷帯方郡朝貢していた事〈神功皇后は魏に朝貢している〉を知っていた)や朝鮮半島経由のスパイを警戒した。

【郡使往來常所駐】伊都国の一大卒は、無駄に帯方郡の使いを泊めて接待している(ハニートラップ含む)のではない。朝鮮半島・中国大陸・大和朝廷の情報収集をしている。当時も他国の情報は必要不可欠。

 

帯方郡からの使者を(偶然の要素が強いが)欺く(錯覚させる)行動が奏し 間違った距離を魏に報告させた(邪馬壱国は広くて大きな支配地を有していたと思わせた)

倭国の位置も重要ですが、それより人口の多い事=兵力 が重要。

魏志倭人伝の記載で人口が書かれている国だけで、15万戸。その他の同盟国を合わせると倍近くになりそう。故に10万人くらいの招集兵力が見込まれる。

赤壁の戦いで、孫権軍3万+劉備1万+劉琦軍1万=5万

この呉連合軍の後ろに 兵力10万近くの海洋民族 倭国が存在していることが、脅威なのです。

 

邪馬台国ここに在りをぶっ飛ばす 四国説の矛盾

四国説の矛盾

距離も方向もバラバラで水行20日&水行10日陸行1か月 のみを根拠にしている

大陸からの情報を一番早く受け取りやすく 鉄の鏃・鉾を使用する北部九州を通り越してわざわざ四国の端に大文化圏を作れるはずがない。

伊都国で検閲を受けるでしょうから、一大卒の権力が凄まじいものになります。遠い四国から支持するには遠すぎます。私が一大卒なら貿易船・朝貢船・渡来船 すべてから通行税を取り、鉄の武器で邪馬壱国から独立していたでしょう。倭王印も私が持ちます。多分皆さんも同じくするでしょう⤴。

四国を南とは書かない。奴国から北へ・東へ・南へ・東へ+500里北へ

正確には 300里北へ・300里東へ・3千里南へ・4千里東へ+500里北へ(1里=100Mとして)

弥生時代の製鉄技術は、北部九州と菊鹿平野しかなく、重要軍事機密である。=ヤマト朝廷でさえ鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。

【倭の地について問いて集めるに、海中洲島の上に遠く離れて存在し、あるいは絶え、あるいは連なり、一周は五千余里ばかりか。】の文章を取って四国はちょうど5千里。と言われますが、対馬から壱岐・松浦半島などは、倭国ではないのでしょうか。

帯方郡から徳島まで12,000里(グーグルアプリで調べた?)。衛星写真や地図がない弥生時代にどうやって分かるのでしょう。

渾天儀(コンテンギ)をわざわざ船で邪馬壱国持ってきて観測し、後漢書に記載してある会稽東治(かいけいとうち)の東 と 測るはずはない。

普通に考えれば 高価な渾天儀 を遭難の危険がある船で海を渡しません。

当時の技術でできる(可能な事)と実際にした事 では、まったく違いますし、渾天儀 を担いで奴国(福岡市)から築上郡 まで山道を50km歩くのは不可能です。グーグルマップの直線距離で見られていると思いますが、凄い山道ですよ。10日やそこらで行ける距離ではありませんし、築上郡からの船も手配も大変です。歩けると強く主張されるのであれば、是非試してみてください。裸足で、食料無しで、無一文で、ヒッチハイクも無し ですよ。橋を渡るのもダメです。私なら、裸足と聞いただけでギブアップします。

何をしに倭国に来たのか、

240年梯儁が、詔書と金印紫綬印綬銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を持って来た。

247年に、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣さる。

天体観測や地理を調べに来たわけではなく、表向きは金印授受等の形式儀礼で来ていますが、実は国力を調べに来たのです。

普通に考えてほしい。莫大な下賜品 若しくは激励の黄色い旗と一緒に 渾天儀まで持ってきますか?もし持って行ったなら「ありがとう」と云われて 取られます。普通 他人の家に土産物と一緒に高価そうな 訳が分からない品を持って上がったら、どうなるか と考えてください。〔伴天連の神父が信長との接見に地球儀の他に羅針盤を持って行き、「いや、これは違います」と 言えますか?〕

一番の問題点は、何処から見た南かです。一大卒が居る伊都国からは四国は南とは言いません。      從伊都国至女王国、循海岸水行、奴国、不彌國、乍北乍東乍南乍東、到其東岸投馬国、二十日 くらい書かないと。

四国山岳説も同じです。寧ろ、突拍子もない説と言えます。焼山・溜池・四国の大きさ・30の国の名前に似た地名がある。などを根拠に上げられますが、たったのこれだけです。

陸稲は水稲と比べて干ばつに弱く、収穫量は降水量に左右される上に水稲の半分以下です。陸稲は畑で栽培され、連作障害に弱く、他の作物と輪作される

 焼山は日本全国どこにでもあります。焼山は、縄文時代に」行われていた陸稲でしょう。溜池は、四国は大きな河川が無いので作った(堀・クリークは雨が少ない地方では多く存在します)。大きさでは、九州の北部地域のみで表現できます。30の国名に似た地名は全国にあります。   

邪馬台国ここに在りをぶっ飛ばす 出雲上陸説&越前説の矛盾

出雲上陸説&越前説の矛盾

伊都国に一大卒を置くなら出雲を管理できないし、細かな連絡が取れない。もし、出雲にも同等の管理者を置いていたら書くはず。卑弥呼の信頼できる者は、弟しかいない。(壹與は幼すぎる)

又、使者が帯方郡へ帰るのに わざわざ山陰を超えて陸行し日本海岸を海流に逆らい松浦半島まで行くことになる。瀬戸内海ルートで帰ると高価な船を置いていくことになる。

近畿に行くのに出雲を経由する必然性が無い。瀬戸内海を行き来した方が楽。銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を 手運びするのに 何故、山越えをする必要があるのか。

水行が速いか遅いかではなく、どちらが安全なのかが重要。

遭難した人々が住む地域が出雲・越(前・中・後)である。どうしても出雲に上陸する方が安易と考えるなら、元寇も出雲に攻め込んでいるはず。帰るにはどうしても九州に向かう必要がある。

白村江の戦も、渡海は九州から。秀吉の朝鮮出兵も九州から。

負け戦で 命からがら出雲や越に帰り着いたと 聞いたことがない。

一番の問題点は、山越え。 人が歩いた道とわかる程度で 大きな石がゴロゴロし、木の根が張り出し歩くのが大変な上に毒蛇や猛獣もいる。こんな険しい山道を進もうと考える方が摩訶不思議。軍隊のような大人数(人数が多いと食料調達が難しい)でなければ、野宿したらオオカミに襲われる危険が大きい。

裸足の民が山越えルートを選んだとは思えない。

鉄製の武器の出土が少ない。帯方郡からの使者が出雲に上陸したと したら、倭国は銅武器(少しは舶来の鉄武器はある)ばかりで鉄の武器が少なく銅鉾などを使っている後進国 と報告するはず。

鉄鏃・鉄鉾などの記述をどう説明されるのでしょうか。

戦争に使うだけの量が有ったのか。どこで造ったのか。高温フイコ窯が有ったのか。

朝鮮半島の慶州を出発し 見えない東郷池は、どちらの方向へ向かうのでしょうか。海流に流されて確実に東郷池に着くのでしょうか。

海を渡る時、夜明けから日暮れまで死ぬ気で船を漕いで1,000里です。暗くなり海流に流されて 海の尽きる崖から落ちたら生きて帰れないからです。ともかく、目標の陸に向かって漕がなければなりません。

反対に 朝鮮半島に向かうには、西へ死ぬ気で漕ぎ続けて 海流の速さと人が漕ぐスピードの相関係数は、1日間75㎞(1,000里漕ぐ)―96㎞(海流4㎞×24時間)=▲21㎞。 目的地に向かって懸命に漕いでも前進しません。数日後には 良くて越前若しくは佐渡島です。

漕ぐスピードを1日1,000里としていますが、長里(秦の始皇帝が定めた1里)で表すと1里434Mで 1,000里とは434㎞になり、時速43㎞で10時間漕ぎ続ける事になります。人間が漕ぐスピードではありません。

狗邪韓國から尊馬國(対馬)まで1,000里=実際一番近い所で75㎞  

尊馬國(対馬)から南南東へ1,000里で一大国(壱岐)=実際一番近い所で72km

どう考えても 東郷池~慶州間の300㎞直行は無理です。間に島もありません。

倭国へ向かって渡海したのが、夏ですから南風ですので、帆を使かえません。冬の日本海は波が荒く航海できません。

幸運に恵まれて追い風が吹けば到着するでしょう。しかし、途中で風向きが変われば助かりません。

帰りも同じです。倭国に半年近く居た((移動日+片道2ヵ月+滞在日)×往復)帰りは翌年です。

安全な航海を考えるなら 流れが緩やかな 海岸線に沿って九州に行き、所々の陸地で十分の補給・休憩・食事をしながら、壱岐対馬が見えたら漕ぐと思います。

出雲や越に大文化圏が在ったことは認めますが、頻繁に朝鮮と交流があったとは 思えません。朝鮮からの漂流者がもたらした文化・技術が蓄積されていった。とみるべきでしょう。

どの説も 松浦半島経由を取ると思います。=末盧国の領地=一大卒の権限内=通行税を払わなければ拿捕される。たとえ同じ邪馬壱国同盟であっても積荷の3割は貰うし、生口1人は欲しい。と交渉が始まると思います。「えー女の生口を積んでいないの?男なら固いので煮るのに時間が掛かるから要らない。その代わり 積荷の5割置いて行け」「嫌なら船が来なかった事にして沈めるぞ」。

入れ墨があり生口文化がある民族(多分 南方系民族)である事を忘れずに。

あくどい一大卒には誰も反抗できなかった。船の難破が多かったので、疑いようがない。高い通行税を払って通過し、上司にチクっても相手してくれない。〔戦争になって困るのはどちらか分かっているから〕

現代の王国でも外交を担当するのは、皇太子か直近の親族です。よっぽど信用していないと他人に外交をさせません。

 

海を渡る時 疲れ果て 暗くなり目標が見えない夜になる。海流は、時速4kmと云われています。

暗くなって夜が明け始めるまで8時間=不安な夜を32㎞流される。見えた陸地に懸命に必死に漕ぐ。=出雲に着く では。 夜漕ぐと岩礁があった場合 避けられず 沈没=魚の餌

 

出雲が邪馬壱国説も同じです。何故、出雲に南方系民族ですか?寧ろ、朝鮮系民族のはず。

越前説を唱える方の根拠として 稲作可能面積を挙げられます。

私も7万戸の平野を最初に探し始めました。筑紫平野ではと思い調べたら、すぐに昔は海だと分かりました。そういえば昔 祖母が、「先祖は承久の乱に敗れ後 逃れ この干拓地に来て農民になった」と 云っていたのを思い出した。大牟田も瀬高・柳川・三潴・久留米も海でした。良くて干潟でした。今でも 牟田や潟の地名が多く残っています。

7万戸以上の人民を養える土地と考えるのは自然の事ですが、現在のウクライナと同じく、武力で米・財・人を奪おうと野盗国家が毎年襲ってきます。平和主義国家は、存続できないのです。又、越前に 顔に入れ墨をしている南方系民族が住む巨大国家が在ったとは思えません。そして、煮炊きや暖房用の薪はどうするのでしょうか。7万戸を養う食料はあっても、燃料がありません。1戸で3㎏の薪を使うとして7万戸では 毎日210トン。 冬になれば倍以上必要です。薪の争奪が激しく 諍いが絶えず 弱者は凍死するでしょう。夏の一時期は人口が多くても 冬には人口を減らし2万戸が精一杯と思われます。要するに定住者は少なかった。

縄文人は、入れ墨文化があったと云われています(土偶が有る)縄文人は狩人です。農耕弥生人との転換時期(混血時期)の可能性はありますが、倭人は、未だ縄文人系が多いのです。

【草木茂盛、行不見前人】【倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。】など、夏を思わせる記述はあります。越前は温暖ですか?冬でも生野菜を食べますか?越前に冬に居たなら豪雪地帯なのに雪の話が無いのは不思議です。中国や朝鮮でも越前のような豪雪は未経験のはず。又、越前まで行って帰るのに海流に逆らい、山陰を過ぎて九州松浦半島(末盧国)まで戻るしか方法はなく、一夏で済む訳がない。(水行20日+10日&陸行30日往復で4か月間+滞在期間=短くなる放射説を取ってもギリギリ 台風が来たらOUT)出雲・越説の最大の難問は、九州まで帰らなければ、朝鮮半島へはたどり着かない。トンデモ説で対馬海流に乗り北海道沖でリマン海流に乗って朝鮮半島に着く。との説を唱える方もおられますが、海流をよっぽど知っていないと発想ができないし、ほとんど遭難覚悟の説。当時の船で長期の航海では無理。水・食料とも足りないし、怖くてその説を唱える船で帰ろうとは思わないので 「あなただけでどうぞ」。そして私は「来年まで待って九州周りで帰ります」と言います。

偏西風を利用して租税の徴収が楽だとか。(卑弥呼は共立の為 租税収益はありません。租税があるのは国邑内だけです。この頃の倭国は、中央集権も封建国家の概念はありません。)帰りは海流が弱い海岸線沿いに逆走していくとしても、少し長旅になりそうですね。わざわざ越の邪馬壱国に租税を送る?必要ありますか。九州北部なら最新鋭の飛び道具 鉄鏃を大量に製造しているのですよ。私が一大卒なら「欲しければ取りに来い」と言って戦争します。勝つ自信があるし、帯方郡の使者を通じて 邪馬壱国で謀反が起きたと報告する。伊都国には、帯方郡よりの常駐役人が居ます。【郡使往來常所駐】一大卒の言葉を信じない理由が無い。

伊都国には、帯方郡の役人が常駐しています。邪馬壱国が伊都国に攻めてきても、朝鮮からの援軍が速いでしょう。又、援軍が来なくても、伊都国は通行税を沢山貯めていますので、大勢を雇うことも可能です。

(越からの出兵は無いはず。兵を積んで海流に逆らい進軍は膨大な戦費が掛かる)

外交や交易の窓口を押さえておかないと、国家の安泰は無い。故に、一大卒は、女王の親族かそれに近い者で押さえておく必要がある。(よほどの権限と報酬を与えておかないと 親族でも心配かも)

故に、私説では、一大卒は卑弥呼の弟の可能性が強い としています。

 

戦争には沢山の強力な武器を持っている方が絶対に有利です。信長は、鉄砲の数の多さで天下を取りました。数が多いから3段構えができました。ほとんどの戦闘は、弓です。時代劇にあるような刀で切り合いなどは 滅多にありません。50年くらい昔TVで南方系民族の戦いの放送を見ましたが、弓や投槍でした。

(その時は、小さな諍いでしたので、一人怪我をしたことで戦闘は終わりました。)

鉄鏃は遠くまで飛ぶし、皮の鎧や盾も突き通します。すごく強力な武器です。白兵戦での剣と剣での戦いは誰でも怖いし、相打ちなども多く、互いに死傷者も多く出ます。出来るなら遠くから大量の弓を射かけて制圧戦法を選ぶと思います。

又、多くの人口を抱える国は農耕・伐採・開拓を必要とし、鉄製斧・鍬などの鉄製品が多くなければ作業の生産性は上がりません。


鉄器は弥生時代を通じて圧倒的に北部九州に集中する。

3世紀はじめにヤマト王権が誕生してもいぜんこの傾向は変わらないが、東日本にも普及しはじめる。

この直後、3世紀後半以降の定型化した前方後円墳からの大量の鉄器副葬によって九州と近畿の鉄器量は逆転する。

 

故に、出雲・越前に邪馬台壱国が存続できる可能性は無い。

邪馬台国ここに在りをぶっ飛ばす 近畿説の矛盾

近畿説の矛盾

①九州北部上陸から細かく国名距離戸数を記載していながら瀬戸内海では記紀に出ているような大都市安芸(広島)吉備(岡山)の記載がない。目的がただの観光や金印授受等の形式儀礼ではなく 国力をさぐる偵察なら 人口が多く軍事力が強い国を書かないはずがない。国力を図るのに途中の瀬戸内海(挟み撃ちされる)を略して書か無いとは、斬首刑くらいの罪。行っていないので書けない。もし、近畿に邪馬壱国があるなら重要項目が抜けすぎている。

北部九州に比べ 近畿までの航路に城が無さすぎる。無防備過ぎる。

帯方郡からの使者を接待する伊都国から近畿までは遠すぎる。

奈良と一大卒がいる伊都国とのやり取りの記録が少ない。むしろ疎遠だった。

近畿説をとるなら、検閲場所(伊都国)の位置が1か所だけでは理屈に合わない。せめてもう1ヶ所山口県より東に作り 判断ができる者(例えば皇太子) を置かなければ緊急事態に対処できない。どんなに急いでも往復に2週間以上掛かってしまう。襲来などの緊急事態でも全て一大卒任せとなる。逆に言うと 邪馬壱国は一大卒次第となる。

伊都国から途中補給と休憩をして近畿まで行くとしたら、瀬戸内海航路なら潮が速い危険な関門海峡を書かない方が不思議。

奴国と不彌國(フウビ・フヤ)に寄る必要はない。奴国は、貿易港なので寄って土産や保存食を買うことは考えられるが、わざわざ奴国より東100里の小国 不彌國に寄る必要はない。

九州説では、不彌國は重要となる。次の投馬国に行くためには、不彌國で木船より軽い萱船を造り 乗り換えて、御笠川を上る必要がある。大宰府で600M引きずり宝満川を下る。帯方郡の使者梯儁は、靴が汚れるから歩かない。(私は、投馬国は、大宰府だと考えています。不彌國から投馬国 間に水行二十日は 近すぎると思われますが、実距離10㎞でも 梅雨時の川を上るのに20日掛かると倭人の案内人が言った(行きたくなかったから)のです。崖崩れ箇所が多く 道が無いので水行のみの行程となります。)

当時の国を結ぶ幹線道路の整備はされていない【草木茂盛、行不見前人】 倭国内の隣国との交易は、基本は船を使う。内陸の場合だけ日田街道のように手入れされている(踏み固められている)

それに、梅雨時の為 土砂崩れがあっても そのままの状態。

当時は国邑の結びつきが弱い。統一国家が無く、卑弥呼を共立しただけで、国と国を結ぶ道を 整備しない。誰も困らないから修復しない。国同士の交易は馬がおらず、人手よりも多くを運べる船を利用する。

③水行20日や10日陸行1ヶ月 東を南と書き間違えた説;ここまで書いて2回(日本海に向かう説では1回)も続けて間違えるとは 思えない。【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できる】と書きながら、日数で書いた。この点を考えると、魏志倭人伝の一貫性・信憑性が崩れており、本当に行ったのかを疑うべき。行っていないので、言われたとおりに書いた。が素直に感じる。

倭国大乱跡が無いし、鉄器の出土が少ない。=ヤマト朝廷は戦をしたがらない。寧ろ、婚姻などの同盟で領土を広げていった。その為、纏向には、楼觀・城柵 などの防御跡が無い

10代崇神天皇(実在するなら3世紀後半から4世紀前半)は、吉備国の鉄製品と踏鞴(フイコ)製鉄の技術を獲得するために、吉備津彦を西海将軍として吉備国を攻めた。だから、この時までは、大和朝廷には、鉄の武器は無かった。それに やっと同盟国となった吉備国にも高温を出せる製鉄技術はなかった。

⑤近畿の古墳には 埴輪はあるが、狥葬がない。(第11代垂仁天皇の弟である倭日子(4世紀前半から中期に亡くなる)の陵墓は古事記によると、「始めて陵に人垣(狥葬)をたてた」 とある)

⑥九州北部から瀬戸内海・近畿地方を 支配している大国の邪馬壱国なのに、狗奴(クヌ)国の1国に攻められ それをわざわざ魏に報告して激励を貰う必要はない。

畿内説を唱える説では、狗奴(クヌ)国を紀伊半島内と唱える方も居られますが、卑弥呼が居る邪馬壱国は鉄の武器を持っているのに、銅の武器しか持たない紀伊半島の田舎部族など怖くない。筈なのに、卑弥呼の晩年は、狗奴国に苦戦をしている。当時 菊池・山鹿平野の部族が 狗奴国なら既に鉄の武器が造られていた証拠(高温製鉄炉跡出土)がある。鉄鏃発掘数から歴然。

卑弥呼の墓が、箸墓古墳などの纒向にあるとすれば、卑弥呼の弟や壹與の墓は何処になるのか。壹與の墓が有るなら卑弥呼と同じ規模のはず。

⑧陸行1ヶ月で下関~纏向まで いけるだろうか?橋も無い・崖崩れはしている。むしろ水行を続けるだろう。 大阪から船で川を上り 後を100里(10km)陸行が速い。

⑨近畿説の根拠は、大和朝廷がここにある、日本全国の陶器がここに集まる、農耕集落ではなく政治都市、副葬品が多い、当時とするなら最大の古墳がある、くらいでしょ。このような根拠で九州北部国家と近畿国家の両立が無いという方が、無理があります。朝鮮半島に渡る為に 松浦半島を通る必要がある。という事は、九州北部の海岸線は邪馬壱国の支配下でなければ理屈に合わない。

壹與は、晋に266年朝貢を行なった事 

280年 第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣 

第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

など 九州北部で戦ったことの辻褄が合わない。

記紀卑弥呼や女王国の記載が無いのはおかしい。当時の最大の箸墓古墳に祀られているのが卑弥呼しか考えられない とNHKで言うわりに 宮内庁は認めていない。宮内庁が認めていないという事は、天皇陛下も認めていないという事。

当時最大の古墳・豪華な副葬品を根拠に 主張を通すなら箸墓古墳は ツクヨミスサノオなどの神の墓の可能性がある。又、マグダラのマリアの墓やイエスの棺が納められている との主張も否定できない。壹與の墓の可能性も0ではない。だって、宮内庁が認めないのだから 発掘は出来ないから 否定もできないはず。

大和朝廷は、戦をしたがらないと書きましたが、周王朝 姫一族の建国伝説 周国始まりの王 古公亶父「争いを避けるため住み慣れた土地を離れ 周王朝をひらいた」そして、殷の王族と婚姻をしたと 記されています。〈まるで国譲り〉

大和朝廷には、姫一族の争いを避けるDNAが入っていると思います。

 

纏向遺跡より2千個以上の桃の種が出土して卑弥呼が祭祀に使った物では。と話になっていますが、当時の占い等には、割と桃の種は使っていたようですね。

桃は古代中国の神仙思想で邪気を払い、不老長寿を招くとされる。桃の種は弥生時代の遺跡でも広く出土するが、1カ所でこれほど大量に見つかった例はないという。古代祭祀の実像や纒向遺跡の中心とみられる大型建物の役割を探る重要な手掛かりになりそうだ。                                           

纏向に 今までにないような巨大な箸墓古墳があり、大和朝廷の神殿なら大量の桃の種が有ってもおかしくない。

【其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆】

卑弥呼は鬼術使いなので、呪い殺すなどの おどろおどろしい イメージがあります。

桃の種は神事の邪気払いの様で、卑弥呼や壹與の呪いに対抗したのでは と思います。

〔邪気使い=鬼〕卑弥呼・壹與 対 〔神の使い〕倭迹迹日百襲姫命 の戦い。これ、有りそうです。

まるで、鬼 対 陰陽師の戦いのようです。 映画化を期待します。           茶化してすみません。

 

故に、奈良地域のヤマト朝廷と九州北部の邪馬壱国は別の国家と思われる。

近畿説は、矛盾が多すぎるし、邪馬壱国が奈良にあって欲しいと思い過ぎ、理想の空論 卓上の理論。

ま 私も卓上ではあるが。