2024/09/03 検証 邪馬壱国と女王国
この半年間、暇に任せて 多くの資料やSNS上の説を読んで、少し訂正すべき点があると気づきました。
一大卒は卑弥呼の弟であり、糸島に住んでいた事に確信を持てました。では何故 伊都国なのか?の疑問も湧きます。そこで、矛盾点を洗い直すことにしました。
魏志倭人伝の矛盾点
- 何故 邪馬壱国へ行く必要があったのか
印綬を授けるに値する国家なのか。侵略して朝鮮のように支配下(植民地)に 置いた方が良いのではないのか。
倭国に倭王の位を仮授して下賜品を与える為との名目で、調査に来た。朝貢国となる倭国を助ける為の調査に来たのではない。ましてやミシュランガイドに載せる為ではない。兵糧・兵力・装備などの調査。
- 何故 途中から里ではなく日数になったのか
行かなかったor行けなかった から。途中からは倭人に話を聞いただけ。
- 1戸には 5人が住んでいたのか?
定説が1戸5人くらいと云われているが、身分の低い者でも2・3人の妻を持つとあるので、妻ごとに家を持つなら2・3人が住む戸となる。15万戸で、35万人か? 実際に数えた訳でもないので、戸数は割と多めに書いたと思われる。そして、中国の見方で1戸5人住んでいると呉が思えばよいのである。
- 邪馬壱国 7万戸などの巨大国家があるのか
弥生時代の人口が60万人しかいない(PCで調べた。ここでも1戸5人計算の為 12万戸)のに、倭人伝に掲載されている国だけでも15万戸ある。
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種との記載で、7万戸が怪しくなる。また、7万戸の人口を支える 食糧と薪などの燃料が無い。朝貢に来ているのが30国くらいあるという事は、最低でも30万戸あるのでは?
研究者の中には、食料だけを考え石川地方を邪馬壱国と云われる方も居られますが、石川地方には大集落の遺跡は無いし、豪雪地帯で生き延びる燃料(薪)が足りない。簡単に藁を燃料にしたと云う都会人的な発想をされる方は、火が付きやすく燃え尽きやすい藁だけで暖を取るには どれだけの藁が必要かを検証すべきです。
- 卑弥呼の所在地
共立されるまでは、菊池山鹿平野(大津も含む)に住み 熊本平野の狗奴国と争っていたが、北部九州の国家の王は、巨大勢力の狗奴国と 互角に戦う卑弥呼に 共立の女王になって欲しいと頼む。当時は中央集権の様に 国家間の道路は整備されておらず、税の徴収は 1国家内に留まっていた為、卑弥呼と弟は 中国・朝鮮朝貢の検閲権を要求。そして、卑弥呼たちは 伊都国に移り住み日本国から朝貢に行く30余りの国家の検閲と交易の検閲権を握り膨大な財を得る。壱岐対馬に渡り住むと 各王の動きが分かりにくいので、壱岐~松浦半島に向かうには 伊都国が、重要と認識した。初めは、奴国を要求したが、奴国王が拒絶した。
倭人伝に記載されている邪馬壱国は女王が都する(統治する)国のことで、昔 女王が住んでいた 女王の直轄国である。
投馬国が有明海沿いの妻郡だとすると南へ水行10日+陸行1ヶ月で、有明海を南下し菊池川を上り、歩けば確かに大津くらいに到達できる。国の大きさを考えれば 投馬国より広い。
- 到伊都國の意味
他の国へは、至と記載されているのに 伊都国だけは到と記載。 陳寿は、帯方郡からの使者が伊都国までしか行っていないのでは と考え、到と書いた。どうしても、伊都国以降の行動に腑に落ちない点があった為。奴国・不彌國・投馬國・邪馬壹國の記載が雑で、伊都国までのような細かな記載が無い。
- 不彌國の記載の必要性
単純に考えれば、不彌國に寄る必要は無い。奴国からたった東行百里千余家の弱小国に 何故 寄らねばならないのか? 私は、不彌國から御笠川を船で上り 梅雨の中 南の投馬國へ水行20曰かけて向かう。大宰府が不彌國と考えていたが、妻郡(夜須・朝倉・浮羽 )の可能性が高いと思い始めた。葦船を使えば御笠川から宝満川への移動は難しくない。ここでの 投馬國5万戸は、奴国の2万戸より大きな国であるくらいの意味(倭人は数を良く理解できていないようだ。対馬より壱岐の方が 戸数が3倍多いなど腑に落ちない。壱岐でも対馬でも帯方郡の使者は戸数を聞いただけ)
多くの学者が、奴国から東に100里の不彌國を宗像や飯塚など大変遠くに説明されるが、たったの10㎞である。末廬國から伊都国までが東南に500里なのだから その距離の5分の1の距離を間違えるだろうか?
- 放射式説
伊都国からの放射線型の考えでは、不彌國は今宿近くになるし、伊都国から南に20日行くと博多湾沿いに南下し(当時の博多湾は内陸まで入り込んでいる)これも同じく御笠川から宝満川経由で妻郡に至る。
では、何故 不彌國に寄ったのか。当時の伊都国は海岸沿いであったので、渡海用の船から葦船に乗り換える為 記載したのだろうか。大した距離では無いので 連続式と放射式でも そんなに変わりはない。
しかし、行っていないのなら、言われた通りに報告しただけなので深く考える必要は無い。
帯方郡から狗邪韓國までも陸行と云う学者も居られますが、船の方が楽だろう?偉い帯方郡の使者を歩かせる理由がない。そして、倭国上陸してからは、草木茂盛、行不見前人の様な 整備されていない道(獣道)を歩くだろうか。裸足では足が滑る梅雨時に輿には乗りたくない。
- 倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。 日本海側説・東北説を取る方は、この記述をどう説明するのか?
⑨ 1里は何キロ
何時も1里は何キロなのかを問題されますが、狗邪韓國から對馬國までが、水行1千里なので、(実際95㎞) 1里95mであろう。末廬國から伊都国までが、陸行500里なので、(実際52km) 1里100mとして考えれば 次からは簡単です。
陸行したのは、末廬國~伊都国は確実ですが、その他は 不明です。私は、水行と考えるのが自然と思います。理由は、足が痛いから。歩くと靴が汚れるから。兵庫県知事さえ20m歩くのに怒ったのである。帯方郡からの偉い使者が歩かせる わけがない。
重要ポイント
- 行く先が見えない方向には、船を向かわせない。(いつ海が途絶えるか分からないから)
- 戦時でもない限り、急ぐ必要は無い。
- 陸は、早くは歩けないし、橋が無いので、渡れない。日本国内では、川が多く水行する方が簡単。
- 中央集権国家は、まだ無いので 1国内だけの租税徴収が行われている。その為 他国が攻め易いような道路整備はしない。崖崩れなどは治さない。
陳寿が倭人伝を書いた理由は、呉に対する牽制の意味が強いなら、兵力を少し多めに書いてもおかしく無い。
赤壁の戦いに負けた魏にとっては、呉の後方から攻めて来る可能性がある倭人は驚異のはず。倭人は琉球列島から台湾経由して呉に攻める事が出来る。邪馬壱国は15万戸を要する 海洋民族である。
魏志倭人伝を記帳面に考えず、字も読めない・距離も分からない田舎者が 道案内したと 緩く考えれば、割と簡単に邪馬壱国の場所は分かるのではないのか。
ましや、帯方郡の偉い使者の公務員=やっつけ仕事 と考えれば、想像が出来る。