2024年10月9日時点での考察
ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。
(宗書)478年中国に使いを出した 倭王武が、21代雄略天皇だとすると 神武天皇の間には20代居るので278年が、神武天皇の時代となる。それから5代遡ると天照大神の時代は まさに 卑弥呼の時代となる。
第10代 崇神天皇の時代に 第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそ ひめのみこと =箸墓古墳)が出て来るので、卑弥呼とは80年~100年ほど違う。〔日本書紀に崇神天皇が占わせたと書かれているので、巫女は桃の種を使った〕
この事を前提として 話を進めます。
日本列島は、縄文時代から稲作(水稲)を行っていた事が証明されています。それまでは 中国→朝鮮半島→九州へ伝来した。そこから弥生時代は、水稲の伝来から始まったと 教えられてきました。ところが、発掘調査(プラント・オパールの研究)のおかげで 水稲農業は、日本が早かったこと(BCE 30世紀~40世紀)(朝鮮南部でBCE 5世紀~10世紀)が証明されて歴史書が 大きく変わってきました。九州から中国に伝来されたのです。ただし、それを認めたくない研究者により調査段階で混入を疑う人たちがいる。その人たちは、朝鮮半島を経由して伝わったと頑なに唱えているが、朝鮮半島の田=畑の意味を説明しない。
ルートは、朝鮮海岸沖を通って揚子江。沖縄→台湾→揚子江。の2ルートが考えられます。ちなみに、中国⇆九州の直接ルートを取る 図が出てきますが、天動説を採用し、海の端は切れて海水が流れ落ちていると考えられていたからです。当時に 目標も見えない航海をするとは思えません。中国から倭国に向かうにしても 陸地が見える範囲でしか漕がない筈です。又、帆掛け船もエジプトは紀元前20世紀頃から使われていたそうですが、中国・日本ともその痕跡の遺跡は見つかっていません。後の時代の遣唐使船や渡仏船にしても帆は使っていません。目標の陸地に向かって懸命にオールを漕ぐしかありません。そして、中国北部・朝鮮半島には当時稲作をしていた遺跡が見つからない事や 当時の水稲が寒さに弱い事が分かってきます。日本から朝鮮半島全体や中国北部に水稲が伝わったのは、寒冷対策の品種改良が行われた日本からの移民(20世紀初頭)からです。故に、①②③④⑤ルートとも却下となります。
多くの先生方が、簡単に渡海をするイメージを持たれますが、④のコースなど遭難覚悟のルートです。
出雲から朝鮮半島への交易も 出雲→松浦半島→壱岐→対馬→朝鮮 となります。海流が早い日本海を西に進もうとしても何日掛かるでしょうか?日の出から日の入りまで懸命に漕いで1日1,000里と云われています。狗邪韓国(くやかんこく)から対馬国までが、1,000里です。最短距離で49.5㎞です。釜山から出雲までの距離が563㎞ですので、10倍の距離=10日間昼間休まずに漕ぎ続け 日本海の海流の速さは時速4㎞と云われています。10日間漕ぎ続けても夜休んでいたら戻されて10日後には能登半島に到着するでしょう。
故に、必ず松浦半島経由でなければ、陸に上がっての休憩が取れません。又、食料や水の確保も出来ません。
後で、記載しますが伊都国の重要性が認識されます。通行税を払わなければ拿捕されて略奪されます。
話しが逸れましたが、中国からの難民は朝鮮半島沖合ルートか台湾経由の沖縄ルートしか考えられません。(一部の生き残った遭難者が、出雲・越に上陸した)
日本本土には、BCE 20世紀頃から 中国の乱を逃れて渡って来た民が多くいた事でしょう。その中には殷王朝・周王朝の末裔なども居たかも知れません。【弥生時代の始まり】
BCE 220年頃 徐福が、始皇帝の命を受け3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したと伝えられています。この多くの技術者たちが後の物部氏となります。私は、徐福渡来を 弥生時代の始まりとしました。今までパラパラと避難してきた民と全く違った征服を目的とした民です。5千人規模の移民で農耕技術や機織技術など多くの技術者を連れていますが、武器も持っています。只 兵士の数は多く無かったと思われます。渡来して来た時は、先住民=縄文人との争いが起こった事でしょう。日本人のDNA染色体が日本は侵略されていないと結論付けていますので、土地の争いはあっても政略結婚で結びついたと思われます。
徐福達は、伊都国・有明海沿い・遠賀川流域に幅広く移り住んだ。
本題に戻ります。
天照大神=卑弥呼なら 高千穂から出発した神武東征の適合性が取れません。宇宙人しか考えられなくなります。熊本から高千穂まで車で2時間以上かかりますし、高千穂から延岡に下るのにも2時間以上かかります。
高千穂に行って見れば分かりますが、凄く山奥で川沿いの小さな町です。ここで 日本を征服できる兵士や武器食料などの物資が揃う筈も有りません。凄い田舎なのです。最先端の技術・武器・物資などは全て海岸線沿いに在ります。そこで、可能性が高いのが、糸島・有明海沿いとなります。鉄の高温溶鉱炉の遺跡は、糸島・菊池などの北部九州の海岸沿いにあります。これを見ても 糸島に卑弥呼。菊池平野に狗奴国と見るのが自然でしょう。
では何故 卑弥呼が伊都国かと云うと、中国・朝鮮半島の交易は全て糸島が検閲権を握り 通行税を取っていたからです。卑弥呼は他国から共立されて女王になっています。年貢を納める習慣があると魏志倭人伝には記載してありますが、これは小国内の話です。国と国を結ぶ道路が整備されていない事から 中央集権国家(日本で始まったのが飛鳥時代)では無かった。と考えられます。卑弥呼は租税の代わりに伊都国の検閲権を掌握したのです。弟が一大卒となり同盟国に睨みを効かせます。帯方郡の出先機関を伊都国に置き、他国の抜け駆けを見張ります。魏志倭人伝では 今も30ヶ国が 中国に朝貢していると有りますが、日本本土から朝貢が可能なのは 出雲・吉備・安芸・遠賀・狗奴国くらいでしょう。それも全て 一大卒に情報が入っており 通行税も取っています。逃れようとした船は拿捕しそして沈めました。倭寇の原型が始まったのです。
何故、中国からの移民が卑弥呼の祖先と云うのかは、生口文化です。魏志倭人伝は、生口と奴婢を使い分けています。刀伊の入寇(といのにゅうこう)1019年の時ですら 生口として島民が捉えられ食べられています。中国の文化なのです。
疑問
邪馬壹国は、入れ墨文化や生口(食人)文化がある。又、縄文人も入れ墨文化圏(入れ墨埴輪が東北にある)
一方 大和朝廷は入れ墨文化が無くなっている。
この事から、時代と共に少しずつ変わって行ったと思われる。
卑弥呼=太陽神 天照大神たちは、秦族を主体とした移民族 (先住の民と婚姻関係を結びながら子孫を増やす。)その内の一部の者たちが、自分たちの先祖は周王朝の末裔だと云い 正当性を主張する者が現れる。この者たちの首領が、神武大王になった。その後の10代(100年間)は、誰が本当の周王朝の末裔 姫氏なのかの争いになり 真偽が分からない状態になった。しかし、直系を示す為に名前だけでも記載した。
神武大王が熊襲出身説は、ここではその説を問題としない。
【『宋書』倭国伝に讃・珍・済・興・武と記されている倭の五王が、あいついで中国の南朝に朝貢していた。】この讃・珍・済・興・武は、日本名らしくなく 朝鮮に暮らしていた天皇と思われる。この時代は、まだ天皇と云う概念は無く 大王で当時は、朝鮮・筑紫・大和にバラバラの大王が乱立し、遣唐使を送るようになってから 朝廷の権威を増すため 無理やり家系図を書き換え 繋ぎ合わせたもので 欠史八代など無理な系図となっている。そして第一代天皇 神武大王から第10代天皇崇神天皇までの間は一部の豪族であったと思われる。中国に対抗するため(日本も40代以上の皇位継承が行われている 立派な歴史がある国家である)43代元明天皇は、太安万侶に命じ 記紀を712年に作成した。
天皇家の家系を多くの学者が研究しているが、当時の書物(記紀・宮下文書・ウエツフミ・ホツマツタヱ・出雲口伝・先代旧事本紀・東日流外三郡誌など)がバラバラなので、真実は不明だが、卑弥呼=天照大御神は、伊都国(糸島)に住み 倭寇の先祖だと断定できる。