卑弥呼と迹迹(toto)姫の戦い

弥呼と迹迹(toto)姫の戦

2024年4月19日

暇な年寄りTomy K

 

これは、フィクションです。

箸墓古墳に葬られている姫 YAMATO TOTOHIMOMOSO HIMENOMIKOTO=第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命を 次から迹迹(toto)姫と略させて頂きます。

 

鬼道を使う卑弥呼と 未来が分かる巫女迹迹(toto)姫の戦いの記録

 

北部九州に大乱が起こり それを収めた魔導師【卑弥呼】と云う老婆がいた。卑弥呼は、小国の山門国の女王に過ぎなかったが、南の強大な狗奴国と鬼道・奇術で 対等に戦い続けていた。それとは別に北部九州では、各国が交易の利権争いをしていた。

地理的に松浦半島は、壱岐対馬を経由して朝鮮半島への交易ルートが確立していた為、どの国家も松浦半島の末盧国を我が領土にしようと争っていた。各国の力が拮抗していた為、調停に入ったのが、山門国の卑弥呼であった。各国の王は、卑弥呼の鬼道を目のあたりにして、恐れおののいた。そして、私たち連合の女王にと嘆願したのであった。卑弥呼が出した条件は、末盧国と奴国の間にある 小国の伊都国の支配と一大卒と云う検閲権であった。また、従来の山門国は、女王卑弥呼の直轄領とした。これにより、北部九州の争いは収まり、邪馬壱国連合は大いに繁栄していく。伊都国を手中に収めたことで倭国中の交易は、卑弥呼の意のままになった。当然 争っていた狗奴国や近畿の大和朝廷も朝鮮に渡るには、伊都国の管理下に置かれ、税も徴収された。朝鮮を通して魏の出先機関である帯方郡朝貢を行ない、倭国の窓口として帯方郡の役人も伊都国に常駐するようになる。そして、魏の洛陽へも直接朝貢をした。邪馬壱国の最盛期であった。

一方、大和朝廷は、元は同じ九州の伊都国から始まっていた。クシフル山の民(日向の民)が、先住民(伊都国)に追われ、一部は南へ逃れ朝倉→浮羽→菊池→高千穂へそして定住。一部は東へ逃れ飯塚盆地→朝鮮半島からの漂着者が暮らす 遠賀川流域文化と合流しの田川の地で勢力を伸ばし、英彦山(日の巫女の山)から日が昇る東の宇佐へ侵攻を初め神武東征が始まる。(宮崎の日向説は記紀の創作です)瀬戸内海沿いに東進し、紀伊半島を回り、奈良へ。青銅製の武器しかなく、婚姻などの政略結婚にて勢力を伸ばして、近畿地方を勢力下にする。これ以上に勢力を伸ばすには、鉄製武器が必要になり吉備と同盟結ぶが、吉備国でも高温フイコが手に入らなかった。朝鮮には、鉄製品の材料や技術もあるのだが、伊都国を卑弥呼に抑えられ交易が思うように出来ない。伊都国を通らず直接朝鮮半島に渡海させるのだが、遭難したようで、誰一人帰っては来なかった。やはり九州を攻めるしかない。

 

卑弥呼の鬼道・奇術に対抗するには、厄払いの巫女が必要と捜したら、孝霊天皇皇女の迹迹(toto)姫の名が上がってきた。恐れ多くも、皇女の迹迹(toto)姫にお願いするしか方法が無く、一同そろって懇願した。

 

卑弥呼の鬼道・奇術は,凄まじく 大和朝廷の貴人が幾人も病に倒れた。迹迹姫も 桃の種を使い厄払いをして対抗する。この攻防が数ヵ月続き か弱い迹迹姫は、衰弱していく。一方 卑弥呼も如何に鬼道が優れているとしても高齢である為 弱っていき 死んでしまった。迹迹姫も卑弥呼が放った死ぬ前の最後の呪いで死んでしまう。迹迹姫の死因が意味不明なのが奇術の恐ろしい所である。姫が、大和朝廷の為に 命をかけて戦ったことの感謝の気持ちと、孝霊天皇の深い悲しみを与し、孝霊天皇の為に造っていた、当時とするなら最大の古墳(箸墓古墳)を彼女に贈った。皇女なのに古墳の大きさが異常なのは、そのためである。

 

大和朝廷は、卑弥呼が死んだ後に 鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣や 第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

 

一方、邪馬壱国でも変化がある。卑弥呼が死んだ後、弟が邪馬壱国の王になろうとしたが、卑弥呼の奇術に抑圧されていた各国の王が、またもや利権を争い始めた。そこで若い壹與を女王にし、帯方郡の使者に後見人になってもらう事で 争いが収まっていた。

 

邪馬壱国に伊都国を占有さられ、朝鮮との交易が出来なかったので、大和朝廷と狗奴国は協力し、大和朝廷は 九州の東北海岸から、狗奴国は 有明海から 攻めた。

邪馬壱国 滅亡。