邪馬台国ここに在りをぶっ飛ばす 近畿説の矛盾

近畿説の矛盾

①九州北部上陸から細かく国名距離戸数を記載していながら瀬戸内海では記紀に出ているような大都市安芸(広島)吉備(岡山)の記載がない。目的がただの観光や金印授受等の形式儀礼ではなく 国力をさぐる偵察なら 人口が多く軍事力が強い国を書かないはずがない。国力を図るのに途中の瀬戸内海(挟み撃ちされる)を略して書か無いとは、斬首刑くらいの罪。行っていないので書けない。もし、近畿に邪馬壱国があるなら重要項目が抜けすぎている。

北部九州に比べ 近畿までの航路に城が無さすぎる。無防備過ぎる。

帯方郡からの使者を接待する伊都国から近畿までは遠すぎる。

奈良と一大卒がいる伊都国とのやり取りの記録が少ない。むしろ疎遠だった。

近畿説をとるなら、検閲場所(伊都国)の位置が1か所だけでは理屈に合わない。せめてもう1ヶ所山口県より東に作り 判断ができる者(例えば皇太子) を置かなければ緊急事態に対処できない。どんなに急いでも往復に2週間以上掛かってしまう。襲来などの緊急事態でも全て一大卒任せとなる。逆に言うと 邪馬壱国は一大卒次第となる。

伊都国から途中補給と休憩をして近畿まで行くとしたら、瀬戸内海航路なら潮が速い危険な関門海峡を書かない方が不思議。

奴国と不彌國(フウビ・フヤ)に寄る必要はない。奴国は、貿易港なので寄って土産や保存食を買うことは考えられるが、わざわざ奴国より東100里の小国 不彌國に寄る必要はない。

九州説では、不彌國は重要となる。次の投馬国に行くためには、不彌國で木船より軽い萱船を造り 乗り換えて、御笠川を上る必要がある。大宰府で600M引きずり宝満川を下る。帯方郡の使者梯儁は、靴が汚れるから歩かない。(私は、投馬国は、大宰府だと考えています。不彌國から投馬国 間に水行二十日は 近すぎると思われますが、実距離10㎞でも 梅雨時の川を上るのに20日掛かると倭人の案内人が言った(行きたくなかったから)のです。崖崩れ箇所が多く 道が無いので水行のみの行程となります。)

当時の国を結ぶ幹線道路の整備はされていない【草木茂盛、行不見前人】 倭国内の隣国との交易は、基本は船を使う。内陸の場合だけ日田街道のように手入れされている(踏み固められている)

それに、梅雨時の為 土砂崩れがあっても そのままの状態。

当時は国邑の結びつきが弱い。統一国家が無く、卑弥呼を共立しただけで、国と国を結ぶ道を 整備しない。誰も困らないから修復しない。国同士の交易は馬がおらず、人手よりも多くを運べる船を利用する。

③水行20日や10日陸行1ヶ月 東を南と書き間違えた説;ここまで書いて2回(日本海に向かう説では1回)も続けて間違えるとは 思えない。【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できる】と書きながら、日数で書いた。この点を考えると、魏志倭人伝の一貫性・信憑性が崩れており、本当に行ったのかを疑うべき。行っていないので、言われたとおりに書いた。が素直に感じる。

倭国大乱跡が無いし、鉄器の出土が少ない。=ヤマト朝廷は戦をしたがらない。寧ろ、婚姻などの同盟で領土を広げていった。その為、纏向には、楼觀・城柵 などの防御跡が無い

10代崇神天皇(実在するなら3世紀後半から4世紀前半)は、吉備国の鉄製品と踏鞴(フイコ)製鉄の技術を獲得するために、吉備津彦を西海将軍として吉備国を攻めた。だから、この時までは、大和朝廷には、鉄の武器は無かった。それに やっと同盟国となった吉備国にも高温を出せる製鉄技術はなかった。

⑤近畿の古墳には 埴輪はあるが、狥葬がない。(第11代垂仁天皇の弟である倭日子(4世紀前半から中期に亡くなる)の陵墓は古事記によると、「始めて陵に人垣(狥葬)をたてた」 とある)

⑥九州北部から瀬戸内海・近畿地方を 支配している大国の邪馬壱国なのに、狗奴(クヌ)国の1国に攻められ それをわざわざ魏に報告して激励を貰う必要はない。

畿内説を唱える説では、狗奴(クヌ)国を紀伊半島内と唱える方も居られますが、卑弥呼が居る邪馬壱国は鉄の武器を持っているのに、銅の武器しか持たない紀伊半島の田舎部族など怖くない。筈なのに、卑弥呼の晩年は、狗奴国に苦戦をしている。当時 菊池・山鹿平野の部族が 狗奴国なら既に鉄の武器が造られていた証拠(高温製鉄炉跡出土)がある。鉄鏃発掘数から歴然。

卑弥呼の墓が、箸墓古墳などの纒向にあるとすれば、卑弥呼の弟や壹與の墓は何処になるのか。壹與の墓が有るなら卑弥呼と同じ規模のはず。

⑧陸行1ヶ月で下関~纏向まで いけるだろうか?橋も無い・崖崩れはしている。むしろ水行を続けるだろう。 大阪から船で川を上り 後を100里(10km)陸行が速い。

⑨近畿説の根拠は、大和朝廷がここにある、日本全国の陶器がここに集まる、農耕集落ではなく政治都市、副葬品が多い、当時とするなら最大の古墳がある、くらいでしょ。このような根拠で九州北部国家と近畿国家の両立が無いという方が、無理があります。朝鮮半島に渡る為に 松浦半島を通る必要がある。という事は、九州北部の海岸線は邪馬壱国の支配下でなければ理屈に合わない。

壹與は、晋に266年朝貢を行なった事 

280年 第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣 

第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

など 九州北部で戦ったことの辻褄が合わない。

記紀卑弥呼や女王国の記載が無いのはおかしい。当時の最大の箸墓古墳に祀られているのが卑弥呼しか考えられない とNHKで言うわりに 宮内庁は認めていない。宮内庁が認めていないという事は、天皇陛下も認めていないという事。

当時最大の古墳・豪華な副葬品を根拠に 主張を通すなら箸墓古墳は ツクヨミスサノオなどの神の墓の可能性がある。又、マグダラのマリアの墓やイエスの棺が納められている との主張も否定できない。壹與の墓の可能性も0ではない。だって、宮内庁が認めないのだから 発掘は出来ないから 否定もできないはず。

大和朝廷は、戦をしたがらないと書きましたが、周王朝 姫一族の建国伝説 周国始まりの王 古公亶父「争いを避けるため住み慣れた土地を離れ 周王朝をひらいた」そして、殷の王族と婚姻をしたと 記されています。〈まるで国譲り〉

大和朝廷には、姫一族の争いを避けるDNAが入っていると思います。

 

纏向遺跡より2千個以上の桃の種が出土して卑弥呼が祭祀に使った物では。と話になっていますが、当時の占い等には、割と桃の種は使っていたようですね。

桃は古代中国の神仙思想で邪気を払い、不老長寿を招くとされる。桃の種は弥生時代の遺跡でも広く出土するが、1カ所でこれほど大量に見つかった例はないという。古代祭祀の実像や纒向遺跡の中心とみられる大型建物の役割を探る重要な手掛かりになりそうだ。                                           

纏向に 今までにないような巨大な箸墓古墳があり、大和朝廷の神殿なら大量の桃の種が有ってもおかしくない。

【其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆】

卑弥呼は鬼術使いなので、呪い殺すなどの おどろおどろしい イメージがあります。

桃の種は神事の邪気払いの様で、卑弥呼や壹與の呪いに対抗したのでは と思います。

〔邪気使い=鬼〕卑弥呼・壹與 対 〔神の使い〕倭迹迹日百襲姫命 の戦い。これ、有りそうです。

まるで、鬼 対 陰陽師の戦いのようです。 映画化を期待します。           茶化してすみません。

 

故に、奈良地域のヤマト朝廷と九州北部の邪馬壱国は別の国家と思われる。

近畿説は、矛盾が多すぎるし、邪馬壱国が奈良にあって欲しいと思い過ぎ、理想の空論 卓上の理論。

ま 私も卓上ではあるが。