【邪馬台国】 倭国に7万戸の都市は存在しない

邪馬台国】 倭国に7万戸の都市は存在しない

2024年04月17日

暇な年寄りTomy K

この3ヶ月間 暇に任せて邪馬壱国の謎を考えてきました。

誰でも まず疑問に思うのは、魏志倭人伝の信憑性です。話の辻褄が合わないのです。

①何故、【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できる】と書きながら日数で書いたか。

②何故、5千家の小国家 不彌國(フウビ・フヤ)に連れていかれたのか。

③【その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。】地理で言うなら種子島あたり なのに植物の変化は書かれていない。

 

③は、呉への対抗の為 倭国が呉の東にあると思わせたかった。ので、倭国を南に伸ばし 大きく表現した。と分かります。

私は、①は、邪馬壱国と投馬国は女王国より南に在るのか?女王国=邪馬壱国のはず。変な文章です。帯方郡の使者が、行っていないから言われた通り書いたと 考えました。

②は、奴国からたったの100里(約10㎞)しか離れていないのに寄らなければならない理由がある。と推測しました。伊都国から不彌國までは、大きな川がいくつも あります。渡川には船が必要ですので、伊都国からは、船を利用したと思われます。近畿や日本海沿岸、南九州、四国へ行きたいのなら、不彌國へ寄る必要はありません。不彌國から南へ水行20日と書いてあるのだから、ここから御笠川を上る。と解釈するのが自然だと思います。

そうすると、邪馬壱国は、筑紫平野となりますが、私の考えでは、7万戸の邪馬壱国は存在しえない。と結論づけました。稲作用の農地の広さではなく 煮炊き用の燃料に着目したからです。川の氾濫跡の沼地や湖跡の沼地に水稲を植えていたと推測できます。田を耕すと言う概念が無かったと思いますし、肥料を撒くや害虫駆除などしなかった。故に収穫高は非常に少なかったと予測できます。農業未経験の方は、アイドルが稲作のしているTV番組や 小学生時代の田植えなどを考え割と簡単と 思われるかもしれませんが、撮影されていない処で、どれだけの追肥、草取り、害虫駆除を必要とするか 分かっていないようです。

人糞による堆肥は、苦労の割には化学肥料の足元にも及びません。当時の収穫高は、現代の5分の1以下あるいは、10分の1くらいかもしれません。人糞堆肥を撒く江戸時代の半分以下だと予測できます。当然 連作すると土地が痩せ収穫量が減っていきます。大雨や大風で稲はなぎ倒されますし、日照り続きだと稲は枯れます。農業は自然に影響される産業です。

やってみたら分かります。私が中学生の時、親が入院中なので、家族で食べる分だけでも稲を植えようと田を耕し(最初は鍬で耕していましたが、見かねた近所のおじさんが耕運機で耕してくれました)、肥溜めから人糞を運び(1反に大型の天秤バケツで3往復6杯)を 柄杓で撒いていたら、通りがかりのおじさんから「肥料が全然足りない。化学肥料を少し撒きなさい」と教えられたのを覚えています。化学肥料が如何に凄いか 分かって頂けますでしょうか。

水張りや水引きもありますが、細かいことは割愛します。

米の重要な点は、保存が利くところです。海が時化ている時、長雨・台風・地震災害の時に役にたちます。要は漁ができない時 動けない時の為の非常食なのです。弥生時代になり水稲の普及で餓死者が減り 人口爆発を起こしました。

当然、米は生では食べられません。煮炊き用の薪が必要です。人口が多くなるにつれ、薪の入手が困難になっていきます。薪を得る為 遠くへ探しに行き 薪が多く得られる地+農地に適した地に人口移動があったと思われます。そして倭国中で見れば、弥生時代初期に気候変動の影響で急激に減った人口が、増え始め 人口爆発が起こる。

1か所に一定以上の多くの民が定住できないのです。古代の3大文明が繫栄したのは1に水 2に農地 3に燃料(薪)です。薪を得る為、木を伐採し続けやがて砂漠へ。全ての古代文明が砂漠化しています。木の伐採には鉄器が有れば生産性が上がります。

広大な農地が広がっていても、穀物を煮炊きできる術がなければ 人は集まりません。

また、外敵から守る術も必要です。収穫時期に武器を持った野盗が来るのは予想できます。どの時代も自分で苦労せず、他人から奪う輩はいるものです。集落は、吉野ヶ里遺跡の様な 環壕集落。壕の内外には木柵・土塁逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施すと同時に 武器も必要となります。コメの収穫時期には、雀・ネズミ・バッタなどを追い払う必要もあります。

農地だけ見れば 関東平野の方が立地条件は良いはずです。

藁は煮炊きに使えそうですが、火着きや火力は強いのですが、燃え尽きるのが早い。私の生家でも藁を利用して調理をしていた 記憶がありますが、山積み藁の束と紐で括った薪の束の記憶があります。

 

邪馬壱国が越前には 在りえないわけ。 その説に 支持者が少ない訳。

7万戸の人口が越冬できない。今の様な断熱効果がある住宅ではない。燃料(薪)不足。

越前には、稲作遺跡が発見されてい無い。

35万人も住んでいたら、魚貝類も食べていたでしょうが、特に大きな貝塚も見当たらない。

越前に稲作が発展したのは、住宅の改善と通貨の普及で、薪・炭の流通が行われ始めてからと思われる。

当時の弥生人倭国での人口は60万人と言われています。

〔米穀機構米ネット 弥生時代の人口〕

水田稲作が本格的に開始された弥生時代における人口を、遺跡の数から調べてみることにしましょう。弥生時代の人口は日本全体で約60万人、この数字は縄文時代の最大人口27万人の約3倍弱です。地域別にみると、東北や関東地方では縄文時代における推定値とそれほど差がないのに、近畿、中国地方では 20倍以上、四国、九州でも10倍以上と著しい人口増加がみられます。縄文時代には東日本に人口が集中していたのに、弥生時代になって西日本の人口が急激に増加し、東日本ではそれほどの増加がみられないというのはなぜでしょうか。                                    
 このことを考えるため、登呂遺跡を例としてとりあげてみましょう。登呂には12の住居跡がありました。1軒あたり5人が住居していたと仮定すると、人口は60人になります。登呂遺跡における水田面積(75.010m2、 約7町5反)から米の収量を計算し、毎日全員が3合(約0.4キログラム)の米を食べたとすると、とても60人分の食料をまかなうことができなかったという結果になります。しかも、休耕地や自然災害による減収、12軒以外に別の集落の人も利用した可能性なども考えあわせると、米が毎日のように食べられていたとはとても考えられません。つまり、弥生時代に米が食べられたとしても、その量はかなり少なかったとみなすのが自然です。また、水田耕作がもともと熱帯産のイネを栽培するものであり、イネの栽培には、冷涼な東日本よりも温暖な西日本のほうが、より適していました。これらの点からも、早くから米への依存度が高かった近畿地方を中心とした西日本と、イネ以外の畑作物や堅果類の比率が高かった東日本とでは、生産量の違いによる人口支持力も当然異なってきます。                  
 古墳時代には、日本全体の人口が約540万と、弥生時代の9倍にも達します。さらに律令時代では、国家的規模での集約的労働力の投下、進歩した土木・灌漑技術、国司の派遣による農業指導、農業奨励政策などを通じて、水稲耕作中心の農業基盤が確立しました。これにより、耕地が拡大し米の生産量が増えるにしたがって、扶養できる人口数も大幅に増加したのです。ちなみに、奈良時代(8世紀中頃)の人口は600~700万人で、当時の米の生産量は707万石といわれていますから、1人あたり1年間に1石、約150キログラムの米を消費していたことになります。                    
 水田稲作における耕地拡大や収量の増加は、中世・近世を通じて伸び、江戸時代の人口資料をみると、なんと人口は縄文時代のそれと比較して、約100倍にも達しているのです。縄文時代からの稲作を中心とする歴史をひもといてみると、米を主とする食料生産が、いかに多くの人々を扶養するかを左右する重要なポイントであったかがわかります。                                     

魏志倭人伝に記載されている戸数だけでも15万戸。1戸5人として75万人 既にオーバーしています。

 

農地だけで邪馬壱国の場所考えるから理論が行き詰る。それを誤魔化すため、江戸時代の資料などを持ち出し、読者を混乱させようとしています。それを見透かされているから支持者が増えない。

折角、研究しているなら、もっと本やネットで稼げる地域 例えば、関東にしたら講演も増えたでしょう。どうせ場所の特定は「親魏倭王印綬」が他の地域から出土しても 侵略者に奪われた と主張すれば、良い訳ですから。

 

では何故、魏志倭人伝で、邪馬台国7万戸と掲載されているのでしょうか。

簡単です。陳寿は、呉への牽制の為【會稽の東治の東】に在ると 大国邪馬台国を強調したかった。

倭人伝に出てくる国邑や同盟国を合わせると100万近くの人口を要する=兵力が5万人以上の海洋民族の倭国人が、魏と通じている。と 思わせたかった。

人口が多い=豊かな領土が広く 強大な軍事力を有する。

 

私説では、倭人は、数を数えるのが苦手だったので、倭人から聞いた戸数や日数は、いい加減だと思います。むしろ 数えたことが無かった。のが 正直の話ではないでしょうか。聞かれたから有耶無耶な数を答えた。だけです。

私は、投馬国5万戸ではなく2万戸くらい。邪馬壱国5千戸くらいの小国で女王直轄領と考えました。

では、7万戸の邪馬台国と書かずに 5千戸の邪馬台国と書いたら、「問題にもならない小国」と思われ、呉の脅威にもならず、魏王も喜ばなかった。故に、上司から ココを書き直せと指示があったはずです。

陳寿が多めに書いたか どうかは分かりませんが、

見栄っ張りの倭人の案内人が、投馬国の時に5万戸と言ったので、邪馬壱国は7万戸と言った。 と想像も できます。

 

邪馬壱国5千戸の女王直轄領と書きましたが、山門が女王国で、すぐ南の強大な狗奴国に小国山門が善戦していたため、他の国邑からおだて上げられ(共立され)邪馬壱国連合の女王となり、狗奴国から離れた 伊都国に移り住んだ。同時に弟は、一大卒になった。のでは?

 

多くの研究者の方々は、人生と生活をかけて邪馬台国の謎を解かれています。ポット出の私ごときに 長年の研究を疑問視されるのは、屈辱でしょうが、私は、邪馬壱国の場所に 特には 興味はありません。

おかしい所をおかしい と言っているだけです。

 

出来れば わが街に 生口(食人)文化や入れ墨文化がある邪馬壱国が在って欲しくない。