梯儁(テイシュン)の女王国 旅日記

梯儁(テイシュン)の女王国 旅日記

2024年4月20日

暇な年寄りTomy K

 

突然の辞令

 

グレゴリオ歴240年

魏の朝鮮における出先機関に勤める帯方郡建中校尉である 私(梯儁)は、いつもの二日酔いの朝を迎えていた。仕事先の役場に出勤すると妙に騒がしい。何やらひそひそ話が聞こえてくる。隣机の同僚に尋ねても話を逸らす始末だ。そこへ上官の高尉から呼び出しがあった。何事かと思いながら上官のドアをノック。上官は「直ぐに太守弓遵呼様の処へ出頭するように」と、理由を聞いても何も教えてくれない。私は、ドキドキし歩きながら考えていた。仕事中に隠れてエロ本を見ていた事がばれて叱責されるのかな。でもイキナリ 太守からの懲罰を受けるほどの 重大な失態をした心当たりはないのだが。もしかすると、受付嬢の凛々ちゃんへのセクハラや部下へのパワハラが訴えられたかな?下手すると また左遷を言い渡されるのかな。朝鮮半島帯方郡でさえ 魏の洛陽に務めていた時の些細な事で7年前に左遷されて それから真面目に(たまに、新人女子のお尻を チョットだけ触っただけ)働いてきたのに。

私は、7年前までは、洛陽ではエリート将校で、家族円満で将来を約束された青年だった。妻が出産で実家に帰っていた時 ちょっとした気まぐれで、色目を使ってきた若いだけのブス女に手を出してしまったのが、転落の始まりだった。あの女は下げマンに違いない。1回乳を触った(こねくり回した)だけのブス女からセクハラで訴えられた。懲罰委員会に呼び出されたけど、凄腕弁護士を雇い穏便に終わらせる予定だったが、何もなかった事には出来ず、左遷を言い渡された。女房は子を連れて実家に帰ってしまった。今の仕事を辞めたい気持ちはあったが、今までの奨学金の返済もあったし、田舎の両親も 私の入官に大いに喜び、邑中に自慢して回った姿を思い出す と簡単には辞められなかった。上官からは、「しばらく田舎へ行ってくると良い。ほとぼりが冷めたら帰って来させてやる」と言われたが、7年たっても何の音さたもない。今は気楽な一人暮らしだが、子供の養育費と年老いた両親への仕送り等で、結構 金回りに苦労している。

憂鬱な気持ちで 太守の官邸に足を運んだ。

ドアをノックし入室し頭を上げると 妙に にこやかな太守の顔が目に飛び込んできた。「梯儁君 だいぶ頑張っているようだね。その頑張りに報いる為 長期の旅行をプレゼントしたいと考えているのだが」。「えぇ・・ありがとうございます。」「喜んで貰えると思っていたよ。それでは、これを」と1枚の辞令書を貰った。

辞令書;帯方太守弓遵発、建中校尉梯儁に 邪馬壱国に帯方郡からの使者として出張を命じる。

やった。長期出張だ。ただ 出張の期間も何も書かれていない。詳しくは副官より聞くようにと言われサクサクと退出を促された。副官からの話では、出張手当も出るようだし、経費も使い放題だ。目的は、昨年 倭国の邪馬壱国から魏の洛陽に朝貢が行われ それへの返礼だそうだ。楽な仕事のようだ。

表向きは、邪馬壱国からの朝貢の礼と 皇帝よりの詔書印綬 それに多くの土産を届ける事だが、本当の目的は、倭国の国力の調査との事。「調査と云うと何か きな臭い戦況でもあるのですか?」「いやいや、邪馬壱国から魏王曹叡(そう えい)様に 男の生口4人と女の生口6人、それに草木染の班布2疋2丈(4反2丈)を献じた」そうな。「では、魏王様は『たったこれだけ?この田舎者!』と怒っておられるのですか。」いやいや、「『遠路はるばる、大儀であった』と喜ばれ  邪馬壱国の女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚(卑弥呼に)を含む莫大な下賜品を与えられた」とのこと。たった これだけの品で喜ばれるはずが無いと疑い、親官からの話によると、「30年前の赤壁の戦いの際 魏は、呉の5万の水軍に敗北しており、魏の良き協力国を探していたとの事で、倭国の邪馬壱国が、どの程度の国家なのか調べてくるように」 とのお達しだ。 「但し、軍務に関わることで いい加減な報告をすると、お前ひとりの首だけでは済まないからな」と 脅された。 

なんてことはないと ニコニコ顔で役場に帰ると 同僚から心配そうな顔を向けられた。辞令の話をすると「ご愁傷様」との慰めの声。ウム?・・「タダの楽な出張ではないか。何がご愁傷さまだ。」と不満を云うと、「倭国のが どんな所か知らないのですか」 エ・ちょっと待って、「なにか危うい気がしてきた。ちょっと調べてくる。」 と 役場を飛びだした。

図書館に行って調べても 75年~88年に書かれた「漢書」地理志だけで、あまり資料がない。 そこで、度々倭国から朝貢の使者が来ていたので接客係に聞いてみた。又、倭国への渡航歴がある商人に話を聞いて回った。

倭人は、顔に入れ墨をしている。倭国帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢(後漢25年 - 220年)の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせていた。〕

「顔に入れ墨 きしょくわる 野蛮人や。生口文化が残っている そうな。食われるかも エスカ 処や」

これが、ご愁傷様の意味か。行きたくない。誰代わってくれないかな。誰に相談しても「辞令は君に出されたものだから、行かなければ、斬首刑だな」と言われた。

くそ、どうせ死刑か食われるかなら 凛々ちゃんと やってから死にたい。

凛々ちゃんに土下座をして頼んだが、断られた。なんと薄情な女だ。この女も下げマンに違いない。

私は、わりとポジティブな性格なのだ。

 

旅立

まず、渡海の為 船の調達や剛腕の漁師を集めるため 漁業管轄所の理事長のところを尋ねた。理事長は、難しい顔をしたが、「公務である」と脅し、2隻の船と12人の漁師を紹介してくれた。「港に着いたらこの書類を見せたら 指示に従ってくれる」と封筒を渡された。腕利きの護衛も必要だが、これに関しては、自分の部下から独身者を選んだ。もし食われても悲しむのが少ない方が良い。最初の生贄用に 1人俺より少し学歴の高いだけで、何時も俺を小ばかにした目で見ている いけ好かない奴がいるので、アイツも連れて行こう。

季節は波の荒い冬を避け 日中が一番長い夏至時に渡海した方が良いのだが、行きだけではなく帰りも考え 5月上旬で日和の良い日を選んだ。

出発の前日は、ソープに行って思いっきり腰を振った。渡海には 少しでも軽い方が良い。

護衛の部下たちには長期出張で観光旅行と伝えていただけなので、うきうき顔であったし、留守番の者たちから羨ましがれたり 土産を依頼されたり と浮かれた顔だった。帯方郡を出発したが、最初の1週間は港まで歩きだった。事情を知っている私と副官は憂鬱な顔で歩いた。

港に到着し、漁協の組合長に書類を見せたが、顔色がミルミル青ざめた。ここでも「公務である」と 高飛車にでて すぐに船と漁師を集めさせた。漁師たちは「家族と水杯だけでもさせて欲しい」と嘆願するので、この港で1泊することにした。

翌朝早く 港を出港する。帯方郡から狗邪韓國まで あるいは南へ、あるいは東へ進み 7千里(630km)海岸沿いに進んだ。途中の港でも 帯方郡からの使者で「公務である」と言うだけで、夜の街でも 良くもてたし 美味いただ飯も食えた。

15日後に狗奴韓国に着いた。明日から いよいよ対馬に向かう渡海である。ここでも護衛や漁師たちから「少しでも船を軽くしたい」と申し出があり、私も快諾し、2晩 腰を振った。

漁師たちは、1晩は腰を振ったが、翌日は体力の回復に努めた。私と副官は念入りに2晩 腰を振り続け 朝日が黄色く見えた。

 

渡海

市で、乾物などの非常食を調達(お金は当然払わない)して、水を積み込む。海賊に襲われた時の為、女の生口も乗船させようと思ったが、それよりスピード重視との副官からの提言でそれを採用した。

読者の方は、私がまだスケベ心が残っていると思われるかもしれませんが、生口と奴婢は違います。宿泊地で抱いた奴婢は色白でかわいい声で鳴いたが、生口は若いだけのブスで、鳴かずに泣いているだけ。文化人は、誰も抱く気もしない 海賊に献上するだけの品です。

夜が白み始めた朝早くに出航。ともかく、懸命に南へ向かって船を進ませていると、やっと夜が明け切り遠くに島が見え始めた。対馬のようだ。漁師だけではなく護衛の者たちも懸命に櫓を漕ぐ。「俺は護衛だ」と偉ぶるわけにはいかない。海流に流されたら、海の端から落ちて この世に二度と戻れない。

千里漕ぎ、日が暮れ始めたころ やっと対馬に着いた。みんなへとへとだ。漁師などは昼飯も食べていない。海の怖さを知っているからだ。

対馬に上陸し 休んでいると、島の役人が押っ取り刀でやって来た。顔を見た瞬間ギョッとした。顔に入れ墨があるとは知っていたが、実際に見ると異様だ。役人の話によると、その島は、對馬國と言い 大官を卑狗(ヒコ)と言い、副官を卑奴母離(ヒナモリ)と言う。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。との事。

この島は絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。2日休んで、再び渡海する。次は南の壱岐島へ向かう。

又、千里漕ぎ、日が暮れ始めたころ 壱岐に着いた。ここでも島の役人からこの島は、一大国と言い 官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。との事で、対馬と同じ管轄のようだ。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。など話を聞く。

2日休んで、再び渡海する。次は南に見える陸地へ向かう。

百里で松浦半島に着いた。半島に上陸する前に 小舟が近づいて来て、着いて来いと言う。海賊かと思い一瞬緊張したが、渡航歴のある漁師が「安心しなされ、ただの案内人です」と言う。 どうも舩を停泊させ易い港まで先導してくれるようだ。ここから又5百里ほど東へ移動して、唐津に停泊した。

一大国から合計千余里で、末廬国(まつろ)に至る。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。

やっと、倭国へ着いた。顔の入れ墨には、だいぶ慣れたが、あまり気持ちの良いものではない。唐津には、伊都国から検閲官が使いに来ていて 船荷を調べられた。覚せい剤などの違法物の取り締まりを強化しているし、積荷が無くならない様に調べていると云う。ここでも2日間休むが、漁師たちに船を漕がせ、伊都国へ向かわせた。残りの私・副官・測量士・護衛たちは、歩いて伊都国へ向かうことにした。検閲官は、「船の方が楽ですよ。」と言ったが、私が「船酔いで辛く 歩く」と言ったので、承諾してくれた。本当は、魏から倭国討伐の支持が有っても大丈夫なように、倭国の樹木や動物などの食料調査。小国間の距離を歩測したかった。でも、何て雨が多い国 なんだろう。

ジャングル

歩き始めると、すぐに後悔した。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。また、先頭に歩く者の顔に蜘蛛の巣が張り付き 気持ち悪そうだ。足元は、蛇やムカデが怖く棒で地面を叩いて 進むのが遅い。「ヒィヤー」突拍子もない声が響き渡る。足に蛭が吸い付いているのだ。その様子を見ていた他の者も 慌てて体中を調べ 全員が吸い付いている蛭を取ろうとしている。ヌルヌルして なかなか取れないし、血を吸い真っ赤に親指大に膨れている。汗のにおいに誘われて、蚊の大群にずっと襲われ続けた。午後になり寝床を探すが、民家はなく大木に寄り添い休むだけだった。薪になる木も湿っている為 火の付きが悪い。狼の遠吠えも聞こえるし、何かから見つめられているような野獣の目の光が怖い。伊都国に着くまでの15日間生きた心地がしなかった。「こんなところへ二度と来ない。」これは、私の心の叫びでもあるし、隊員の実際の叫びでもあった。

 

面会

東南東に歩いて五百里で、伊都国(いとこく)に到着した。この国には、邪馬壱国から一大卒と云う監察官が居て めちゃくちゃ偉いらしい。帯方郡の使者が往来し、常駐する場所でもあると聞いて、少しほっとした。そこにいる帯方郡の者たちに話を聞くと。一大卒は、この伊都国を含め30ヶ国の監察官で取り締まりを行っているそうだ。この国には、長官(爾支〔にき〕)や副官(泄謨觚〔せもこ〕・柄渠觚〔へくこ〕)が居たが、全く権限が無く一大卒のパシリらしい。昔、一大卒が来る前はそれなりに権限があったらしい。千余戸ある。どの国も王がいたが、みなは女王国に統属している。ようは、一大卒は女王様直属の監察官のようだ。女王国の卑弥呼は、老婆だが奇術・鬼道を使い 人を呪い殺すそうだ。旅の疲れを癒すためと言われ1日待たされて、一大卒に面会が叶う。邪馬壱国への訪問の目的を伝えると、「遠いところからようこそ来ていただきました。お礼申し上げます。」と私を上座に導き 慇懃に礼を告げられた。「女王国は凄く遠いので、ここで 女王に在ったことにしませんか?と酒宴の場で告げられたが、「魏王より、女王卑弥呼様を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚(卑弥呼に)を含む莫大な下賜品を預かって来ています。女王様に直接お渡しし、魏王のお心をお伝えしなければなりません。どうぞこのまま、邪馬壱国へ案内して頂けないでしょうか」「そのお気持ち感謝致します。なにぶん遠ございますので、駕籠と船はこちらで準備致します。また、荷運びや護衛もこちらで手配いたしますので、お連れの方は、ここにお泊りください。」「はい、ご配慮ありがとうございます。では、副官と数名の護衛だけを連れて行くようにさせて頂きます。」と話が進んだ。私も通訳者も、美女のベリーダンスで超ご機嫌になり、飲み過ぎて 一大卒が案内係にアレコレ支持をしているのは分かったが、話の内容までは、理解出来なかった。

長雨

翌朝 港で、渡海用の船はこのまま置いて行き、別の小舟で出航した。この倭国に着いて しとしと雨が降っている。この国は雨の国なのか?太陽は3日に1回くらいしか見られないのか?不思議な国だ。

東南の方へ船を向かわせの百里奴国(なこく)に着いた。官を兕馬觚(しまこ)と言い、副官を卑奴母離と言う。らしい。官の名前なのか役職なのか分からないが、記録しておこう。二万余戸の貿易港らしい。ヒスイなどの土産はここで買えばよいと教えられる。帯方郡の太守や上官の土産をここで買った。下げマンの凛々への土産は買わない事にした。次に百里東行して不弥国に(ふみこく)に着いた。官を多模(たま)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。そうな。案内人の話によると、どうも ここから葦船に乗り換え 横の割と大きな川を南に上る予定だそうだ。ただ 長雨で川が増水し、崖崩れや氾濫が有っているらしい。「一大卒様から くれぐれも 安産第一と念を押されています。川嵩が治まるまでしばらくここに逗留いたしましょう」と言われ納得した。その夜には、副官・護衛を連れて夜の街へ繰り出した。なにぶん田舎町で数件のスナックしかなかったが、そのうちの1件に私の好みの若い美女が居た。まだ16歳と言う。まだ酒は飲めないが、踊りは色っぽいし、歌がうまい、一緒にカラオケを歌ったり ショーを見たりして、毎晩この店に入り浸った。

断念

10日ぐらいして これからの行程を案内係に聞くと「投馬国へ行くのは、船で南へ20日間くらいかかりそうです。そして邪馬台国へ行くには、船で南へ10日間と、歩いて30日くらいかかる」と言われた。帯方郡を出てから2か月以上経っている。これから2ヵ月掛かって女王国に着いて、帰るころには11月になってしまう。心が折れた。伊都国へ帰ろう。

一大卒に 親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を預け、くれぐれも女王卑弥呼様に宜しくと依頼し、渡海した船に乗り、松浦半島に向かった。

帰りは、割と楽な気がした。邪馬壱国の一大卒が、帰りも上表文を奉り、詔恩(天子からの恩典)を答謝する為、人を付けてくれた。

報告

帰りの船旅で、付いて来てくれた倭人に色々な話を聞いて、報告書に事欠かないような内容になった。投馬国や邪馬壱国の官の名前や戸数も聞いて、行っていないのが ばれない様にして貰った。

帯方郡の太守に報告に行くとご苦労だった。「女王国は遠かったであろう。ここから何里あるのかな」など、質問攻めにあったが、何里と聞かれて焦った。「報告書をまとめますので、しばらくお時間をください。」と言って、辞退した。ここから名距離は、副官と話し合い12,000里と計算した。当然、投馬国や邪馬壱国の日数距離も計算している。

役所に帰ると、みんなから歓迎された。「よく生きて帰って来た」その夜は、慰労会になり、しこたま飲まされた。隣に凛凛が座っている。しきりに俺に色目を使ってくる。冷静に考えれば凛々は、そこまで美女でもなかった。溜まっていた俺が近場の色気のある女に 手を出そうとした過ぎない。8年近く前の失敗を来る返すところだった。多くの遊びの経験を積み 私も、一回り大きく成長したようだと 我ながら思った。

ただ、不弥国のスナックの美女に未練はあった。

機会が有れば、伊都国常駐の役人になりたい。

おわり