邪馬台国ここに在りをぶっ飛ばす 四国説の矛盾

四国説の矛盾

距離も方向もバラバラで水行20日&水行10日陸行1か月 のみを根拠にしている

大陸からの情報を一番早く受け取りやすく 鉄の鏃・鉾を使用する北部九州を通り越してわざわざ四国の端に大文化圏を作れるはずがない。

伊都国で検閲を受けるでしょうから、一大卒の権力が凄まじいものになります。遠い四国から支持するには遠すぎます。私が一大卒なら貿易船・朝貢船・渡来船 すべてから通行税を取り、鉄の武器で邪馬壱国から独立していたでしょう。倭王印も私が持ちます。多分皆さんも同じくするでしょう⤴。

四国を南とは書かない。奴国から北へ・東へ・南へ・東へ+500里北へ

正確には 300里北へ・300里東へ・3千里南へ・4千里東へ+500里北へ(1里=100Mとして)

弥生時代の製鉄技術は、北部九州と菊鹿平野しかなく、重要軍事機密である。=ヤマト朝廷でさえ鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。

【倭の地について問いて集めるに、海中洲島の上に遠く離れて存在し、あるいは絶え、あるいは連なり、一周は五千余里ばかりか。】の文章を取って四国はちょうど5千里。と言われますが、対馬から壱岐・松浦半島などは、倭国ではないのでしょうか。

帯方郡から徳島まで12,000里(グーグルアプリで調べた?)。衛星写真や地図がない弥生時代にどうやって分かるのでしょう。

渾天儀(コンテンギ)をわざわざ船で邪馬壱国持ってきて観測し、後漢書に記載してある会稽東治(かいけいとうち)の東 と 測るはずはない。

普通に考えれば 高価な渾天儀 を遭難の危険がある船で海を渡しません。

当時の技術でできる(可能な事)と実際にした事 では、まったく違いますし、渾天儀 を担いで奴国(福岡市)から築上郡 まで山道を50km歩くのは不可能です。グーグルマップの直線距離で見られていると思いますが、凄い山道ですよ。10日やそこらで行ける距離ではありませんし、築上郡からの船も手配も大変です。歩けると強く主張されるのであれば、是非試してみてください。裸足で、食料無しで、無一文で、ヒッチハイクも無し ですよ。橋を渡るのもダメです。私なら、裸足と聞いただけでギブアップします。

何をしに倭国に来たのか、

240年梯儁が、詔書と金印紫綬印綬銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を持って来た。

247年に、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣さる。

天体観測や地理を調べに来たわけではなく、表向きは金印授受等の形式儀礼で来ていますが、実は国力を調べに来たのです。

普通に考えてほしい。莫大な下賜品 若しくは激励の黄色い旗と一緒に 渾天儀まで持ってきますか?もし持って行ったなら「ありがとう」と云われて 取られます。普通 他人の家に土産物と一緒に高価そうな 訳が分からない品を持って上がったら、どうなるか と考えてください。〔伴天連の神父が信長との接見に地球儀の他に羅針盤を持って行き、「いや、これは違います」と 言えますか?〕

一番の問題点は、何処から見た南かです。一大卒が居る伊都国からは四国は南とは言いません。      從伊都国至女王国、循海岸水行、奴国、不彌國、乍北乍東乍南乍東、到其東岸投馬国、二十日 くらい書かないと。

四国山岳説も同じです。寧ろ、突拍子もない説と言えます。焼山・溜池・四国の大きさ・30の国の名前に似た地名がある。などを根拠に上げられますが、たったのこれだけです。

陸稲は水稲と比べて干ばつに弱く、収穫量は降水量に左右される上に水稲の半分以下です。陸稲は畑で栽培され、連作障害に弱く、他の作物と輪作される

 焼山は日本全国どこにでもあります。焼山は、縄文時代に」行われていた陸稲でしょう。溜池は、四国は大きな河川が無いので作った(堀・クリークは雨が少ない地方では多く存在します)。大きさでは、九州の北部地域のみで表現できます。30の国名に似た地名は全国にあります。