邪馬台国ここに在りをぶっ飛ばす 出雲上陸説&越前説の矛盾

出雲上陸説&越前説の矛盾

伊都国に一大卒を置くなら出雲を管理できないし、細かな連絡が取れない。もし、出雲にも同等の管理者を置いていたら書くはず。卑弥呼の信頼できる者は、弟しかいない。(壹與は幼すぎる)

又、使者が帯方郡へ帰るのに わざわざ山陰を超えて陸行し日本海岸を海流に逆らい松浦半島まで行くことになる。瀬戸内海ルートで帰ると高価な船を置いていくことになる。

近畿に行くのに出雲を経由する必然性が無い。瀬戸内海を行き来した方が楽。銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を 手運びするのに 何故、山越えをする必要があるのか。

水行が速いか遅いかではなく、どちらが安全なのかが重要。

遭難した人々が住む地域が出雲・越(前・中・後)である。どうしても出雲に上陸する方が安易と考えるなら、元寇も出雲に攻め込んでいるはず。帰るにはどうしても九州に向かう必要がある。

白村江の戦も、渡海は九州から。秀吉の朝鮮出兵も九州から。

負け戦で 命からがら出雲や越に帰り着いたと 聞いたことがない。

一番の問題点は、山越え。 人が歩いた道とわかる程度で 大きな石がゴロゴロし、木の根が張り出し歩くのが大変な上に毒蛇や猛獣もいる。こんな険しい山道を進もうと考える方が摩訶不思議。軍隊のような大人数(人数が多いと食料調達が難しい)でなければ、野宿したらオオカミに襲われる危険が大きい。

裸足の民が山越えルートを選んだとは思えない。

鉄製の武器の出土が少ない。帯方郡からの使者が出雲に上陸したと したら、倭国は銅武器(少しは舶来の鉄武器はある)ばかりで鉄の武器が少なく銅鉾などを使っている後進国 と報告するはず。

鉄鏃・鉄鉾などの記述をどう説明されるのでしょうか。

戦争に使うだけの量が有ったのか。どこで造ったのか。高温フイコ窯が有ったのか。

朝鮮半島の慶州を出発し 見えない東郷池は、どちらの方向へ向かうのでしょうか。海流に流されて確実に東郷池に着くのでしょうか。

海を渡る時、夜明けから日暮れまで死ぬ気で船を漕いで1,000里です。暗くなり海流に流されて 海の尽きる崖から落ちたら生きて帰れないからです。ともかく、目標の陸に向かって漕がなければなりません。

反対に 朝鮮半島に向かうには、西へ死ぬ気で漕ぎ続けて 海流の速さと人が漕ぐスピードの相関係数は、1日間75㎞(1,000里漕ぐ)―96㎞(海流4㎞×24時間)=▲21㎞。 目的地に向かって懸命に漕いでも前進しません。数日後には 良くて越前若しくは佐渡島です。

漕ぐスピードを1日1,000里としていますが、長里(秦の始皇帝が定めた1里)で表すと1里434Mで 1,000里とは434㎞になり、時速43㎞で10時間漕ぎ続ける事になります。人間が漕ぐスピードではありません。

狗邪韓國から尊馬國(対馬)まで1,000里=実際一番近い所で75㎞  

尊馬國(対馬)から南南東へ1,000里で一大国(壱岐)=実際一番近い所で72km

どう考えても 東郷池~慶州間の300㎞直行は無理です。間に島もありません。

倭国へ向かって渡海したのが、夏ですから南風ですので、帆を使かえません。冬の日本海は波が荒く航海できません。

幸運に恵まれて追い風が吹けば到着するでしょう。しかし、途中で風向きが変われば助かりません。

帰りも同じです。倭国に半年近く居た((移動日+片道2ヵ月+滞在日)×往復)帰りは翌年です。

安全な航海を考えるなら 流れが緩やかな 海岸線に沿って九州に行き、所々の陸地で十分の補給・休憩・食事をしながら、壱岐対馬が見えたら漕ぐと思います。

出雲や越に大文化圏が在ったことは認めますが、頻繁に朝鮮と交流があったとは 思えません。朝鮮からの漂流者がもたらした文化・技術が蓄積されていった。とみるべきでしょう。

どの説も 松浦半島経由を取ると思います。=末盧国の領地=一大卒の権限内=通行税を払わなければ拿捕される。たとえ同じ邪馬壱国同盟であっても積荷の3割は貰うし、生口1人は欲しい。と交渉が始まると思います。「えー女の生口を積んでいないの?男なら固いので煮るのに時間が掛かるから要らない。その代わり 積荷の5割置いて行け」「嫌なら船が来なかった事にして沈めるぞ」。

入れ墨があり生口文化がある民族(多分 南方系民族)である事を忘れずに。

あくどい一大卒には誰も反抗できなかった。船の難破が多かったので、疑いようがない。高い通行税を払って通過し、上司にチクっても相手してくれない。〔戦争になって困るのはどちらか分かっているから〕

現代の王国でも外交を担当するのは、皇太子か直近の親族です。よっぽど信用していないと他人に外交をさせません。

 

海を渡る時 疲れ果て 暗くなり目標が見えない夜になる。海流は、時速4kmと云われています。

暗くなって夜が明け始めるまで8時間=不安な夜を32㎞流される。見えた陸地に懸命に必死に漕ぐ。=出雲に着く では。 夜漕ぐと岩礁があった場合 避けられず 沈没=魚の餌

 

出雲が邪馬壱国説も同じです。何故、出雲に南方系民族ですか?寧ろ、朝鮮系民族のはず。

越前説を唱える方の根拠として 稲作可能面積を挙げられます。

私も7万戸の平野を最初に探し始めました。筑紫平野ではと思い調べたら、すぐに昔は海だと分かりました。そういえば昔 祖母が、「先祖は承久の乱に敗れ後 逃れ この干拓地に来て農民になった」と 云っていたのを思い出した。大牟田も瀬高・柳川・三潴・久留米も海でした。良くて干潟でした。今でも 牟田や潟の地名が多く残っています。

7万戸以上の人民を養える土地と考えるのは自然の事ですが、現在のウクライナと同じく、武力で米・財・人を奪おうと野盗国家が毎年襲ってきます。平和主義国家は、存続できないのです。又、越前に 顔に入れ墨をしている南方系民族が住む巨大国家が在ったとは思えません。そして、煮炊きや暖房用の薪はどうするのでしょうか。7万戸を養う食料はあっても、燃料がありません。1戸で3㎏の薪を使うとして7万戸では 毎日210トン。 冬になれば倍以上必要です。薪の争奪が激しく 諍いが絶えず 弱者は凍死するでしょう。夏の一時期は人口が多くても 冬には人口を減らし2万戸が精一杯と思われます。要するに定住者は少なかった。

縄文人は、入れ墨文化があったと云われています(土偶が有る)縄文人は狩人です。農耕弥生人との転換時期(混血時期)の可能性はありますが、倭人は、未だ縄文人系が多いのです。

【草木茂盛、行不見前人】【倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。】など、夏を思わせる記述はあります。越前は温暖ですか?冬でも生野菜を食べますか?越前に冬に居たなら豪雪地帯なのに雪の話が無いのは不思議です。中国や朝鮮でも越前のような豪雪は未経験のはず。又、越前まで行って帰るのに海流に逆らい、山陰を過ぎて九州松浦半島(末盧国)まで戻るしか方法はなく、一夏で済む訳がない。(水行20日+10日&陸行30日往復で4か月間+滞在期間=短くなる放射説を取ってもギリギリ 台風が来たらOUT)出雲・越説の最大の難問は、九州まで帰らなければ、朝鮮半島へはたどり着かない。トンデモ説で対馬海流に乗り北海道沖でリマン海流に乗って朝鮮半島に着く。との説を唱える方もおられますが、海流をよっぽど知っていないと発想ができないし、ほとんど遭難覚悟の説。当時の船で長期の航海では無理。水・食料とも足りないし、怖くてその説を唱える船で帰ろうとは思わないので 「あなただけでどうぞ」。そして私は「来年まで待って九州周りで帰ります」と言います。

偏西風を利用して租税の徴収が楽だとか。(卑弥呼は共立の為 租税収益はありません。租税があるのは国邑内だけです。この頃の倭国は、中央集権も封建国家の概念はありません。)帰りは海流が弱い海岸線沿いに逆走していくとしても、少し長旅になりそうですね。わざわざ越の邪馬壱国に租税を送る?必要ありますか。九州北部なら最新鋭の飛び道具 鉄鏃を大量に製造しているのですよ。私が一大卒なら「欲しければ取りに来い」と言って戦争します。勝つ自信があるし、帯方郡の使者を通じて 邪馬壱国で謀反が起きたと報告する。伊都国には、帯方郡よりの常駐役人が居ます。【郡使往來常所駐】一大卒の言葉を信じない理由が無い。

伊都国には、帯方郡の役人が常駐しています。邪馬壱国が伊都国に攻めてきても、朝鮮からの援軍が速いでしょう。又、援軍が来なくても、伊都国は通行税を沢山貯めていますので、大勢を雇うことも可能です。

(越からの出兵は無いはず。兵を積んで海流に逆らい進軍は膨大な戦費が掛かる)

外交や交易の窓口を押さえておかないと、国家の安泰は無い。故に、一大卒は、女王の親族かそれに近い者で押さえておく必要がある。(よほどの権限と報酬を与えておかないと 親族でも心配かも)

故に、私説では、一大卒は卑弥呼の弟の可能性が強い としています。

 

戦争には沢山の強力な武器を持っている方が絶対に有利です。信長は、鉄砲の数の多さで天下を取りました。数が多いから3段構えができました。ほとんどの戦闘は、弓です。時代劇にあるような刀で切り合いなどは 滅多にありません。50年くらい昔TVで南方系民族の戦いの放送を見ましたが、弓や投槍でした。

(その時は、小さな諍いでしたので、一人怪我をしたことで戦闘は終わりました。)

鉄鏃は遠くまで飛ぶし、皮の鎧や盾も突き通します。すごく強力な武器です。白兵戦での剣と剣での戦いは誰でも怖いし、相打ちなども多く、互いに死傷者も多く出ます。出来るなら遠くから大量の弓を射かけて制圧戦法を選ぶと思います。

又、多くの人口を抱える国は農耕・伐採・開拓を必要とし、鉄製斧・鍬などの鉄製品が多くなければ作業の生産性は上がりません。


鉄器は弥生時代を通じて圧倒的に北部九州に集中する。

3世紀はじめにヤマト王権が誕生してもいぜんこの傾向は変わらないが、東日本にも普及しはじめる。

この直後、3世紀後半以降の定型化した前方後円墳からの大量の鉄器副葬によって九州と近畿の鉄器量は逆転する。

 

故に、出雲・越前に邪馬台壱国が存続できる可能性は無い。