魏志倭人伝の疑問点
①何故 邪馬壱国へ行く必要があったのか。
軍事同盟に値する国なのか。豊かな国のようなので 占領して属国にしようか。
とりあえず、誰か行かせて調べさせようとした。
②水行1里は、何キロなのか
日が明るいうちに目的地のギリギリ見える陸地(対馬)に向かい 懸命に漕ぐ。着いたら数日休んで又、次の陸地へ向かう。暗くなって陸地を見失ったら流されてしまう。=遭難したら海の端から真っ逆さまに落ちて行き 二度と生きて帰れない。狗邪韓國~尊馬國 千里 実際75㎞。 尊馬國~一大国 千里=実際一番近い所で72km。
故に、水行1里75mとします。
〔水平線越しにギリギリ見える距離が1,000里としていた。季節が夏なので、夏至は太陽の昇る方角は真東から23.4度ほど違います(地軸の傾き)〕
③何故 末盧国から陸行したのか
何故、ここから陸行したのか。伊都国からの行程は 色々な説がありますが、末盧国から伊都国までは、間違いなく陸行しています。楽な船旅を止めて辛い陸行を選んだのは、倭国本土を調べたかった為と推測ができる。
陸行の成果;道が整備されていない。=侵略は海からのみに限定される。海産物の食料が豊富。末盧国から伊都国までを歩測した。500里である
④何故、5千家の小国家 不彌國(フウビ・フヤ)に寄ったのか。
奴国には、食料調達や情報収集の為 寄港した可能性がある。でも何故、東へ100里の5千家の小国 不彌國に寄ったのか?
不彌國から御笠川を上ろうとしたが、水流が強く上れなかった。その為、不彌國に水嵩が落ち着くまで逗留した。
5,000家の小国 不彌國に寄ったことが、近畿説などの九州北部説以外の否定の根拠となる。
他の説では ここに寄る必要がない。奴国と10㎞しかなく 近すぎる。
伊都国からは、大きな川が数本渡る必要あり。わざわざ陸行するとは考えづらい。水行したと考えるのが理屈に合う。
末盧国から伊都国まで陸行し、陸行の辛さを実感。次からなるべく陸行を避けるようになったと推察できる。
⑤何故 途中から里ではなく日数になったのか。
卑弥呼は 伊都国に住んでいた。
伊都国では 一大卒だけが書かれている事や平原遺跡1号墓は 明らかに女性用と思われることから、卑弥呼の墓と思われる。そして、一大卒は 卑弥呼の弟と考える。
故に、千余戸しかない小国なのに権力が強い。
【南至邪馬壹國。女王之所都】 女王の都ではなく、女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所。と 書いてある。
不彌國(宇美)から先を 案内人が、行きたがらない様子。「雨で川が増水し 氾濫して崖崩れもしています。次の投馬国へ向かうのに陸路で行けません。 萱船を造り 南に水行20日位かかりそうだ。又、邪馬壱国へ向かうには 南に水行10日 陸行30日かけて行く事になります」と 言い出す。どうしても行くなら こんなにかかりますよ。と言われた。
一大卒は、案内人に途中で引き返してくるように指示していた。
使者は、帯方郡を出発して既に1ヶ月以上経っており、女王国に着くのに 後2ヵ月掛かると聞く。 帰りの渡海の頃には海が荒れる11月になっている事を懸念し、行くことを断念し伊都国に戻る。
この説の方が、しっくりくる。投馬国や邪馬壱国がどこでもよい事になるし、いい加減な戸数も云っただけ だから。
卑弥呼の居住地をハッキリさせない事が、重要だったのでは。何故ならば、帯方郡は大和朝廷からも朝貢を受けているので、完全には信用できない。その為、一大卒は自分が卑弥呼の弟だと言わなかった。
行かせたくなかったので、里を知らない案内人が こんなに掛かると 日数で言った。
⑥1里は、何キロなのか。
伊都国まで500里移動。=実際53km と書いているのだから、陸行1里は106mで計算します。
⑦【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない】と記されているのに 何故 里で書かずに日数で書いたのか。この時点で この魏志倭人伝の一貫性・信憑性が崩れているのに、どの学者も そこを指摘しないのか?
記述が矛盾するため、帯方郡の使者が 途中から行ってないのが分かる。陳寿は気付いていながら そのまま書いた。(誰も行った事がない のだから梯儁の報告書を疑うものは誰もいない。陳寿は、報告書通りに書いた。)
川の水嵩が落ち着けば、 御笠川を更に上り、投馬国(大宰府)を経て600mくらい船を担いで(押して)宝満川に移し、10日間船で南下 +歩いて1ヶ月かけて邪馬壱国へ向かうはずだった。
⑧陳寿が、倭国を植物や動物を詳しく書いたのに、途中から端折って書かなかった わけ。
書く必要がなかった。植物や動物が、行程上は変わらなかったから。故に、動植物が変わる地域には行っていない。=沖縄や東北地方には行っていない。
⑨【その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。】と何故、書いたか。
呉への牽制の為と思います。
この場所は種子島近くに当たり かなり南になっている。植物と地理が不一致。=虚実
⑩本当に7万戸の巨大国家 邪馬壱国があったのか。
無かった。
投馬国が大宰府or妻郡であっても せいぜい2万戸。邪馬壱国が山門なら5,000戸と言ったところか(今の瀬高市・柳川市・大牟田市は海中)
邪馬壱国の場所は、
朝倉から浮羽の一部+八女の一部にかけてが、邪馬壱国の最有力の説であるが、7万戸(35万人)のはずがない。筑紫平野全部が邪馬壱国なら可能性あるのだが 理由;35万人の人口を食べさす農地が狭い(今より海岸は内陸にあった)、漁業(魚や貝を食べつくす)、ましてや燃料(木材を切り倒し、禿山になってしまう)
実際には、投馬国は5万戸ではなく話半分以下の2万戸ぐらい。邪馬壱国は7万戸ではなく、2万戸以下かも。投馬国で5万戸と言ったので、女王の都はもっと広いと見栄をはった。
⑩【以婢千人自侍】 1,000人もの侍女は、本当にいたのか
嘘です。無駄に千人を食べさせる必要は無い。侍女1,000人が本当は100人未満。これでも多いと思います。(江戸時代幕末の大奥でも最も多い時で1,000人程いたとされるが、それ以前は300人程だとされている。)
⑪水行20日+10日 陸行30日は何里なのか
計算方法
帯方郡~不彌國 10,700里
残りの1,300里
不彌國~投馬国 水行20日
投馬国~邪馬壱国 水行10日+陸行30日
皆さんには 分からないと思いますが、梯儁・(ていしゅん)には分かります。
梯儁は、末盧国~伊都国 500里 を 陸行 が 何日かかったのか知っています。
伊都国~不彌國 200里 を 水行 も 何日かかったのか知っています。
残りの1,300里を計算すればよいのです。
陸行1日4.7㎞で 仮定し、渡海で疲れていたなどを考慮すると、
末盧国~伊都国 500里 を 陸行 15日掛かったとすれば 30日で1,000里
残り300里÷30日=10里/1日
水行10日=100里 水行20日=200里
です。12,000里から逆算しただけです けど。
エクセルで作ってみてください。梅雨時の500里をあなたが思う日数で歩いたと仮定したら、残りは簡単に算出されます。みたいに ただの数字遊びです。
ちなみに この計算でいくと、投馬国は、不彌國から南へ水行200里(200×75m)=15㎞
邪馬壱国は、投馬国から南へ水行10日+陸行30日(100里×75m+1,000里×106m=113.5㎞
の距離です。御笠川を上れば 投馬国は、大宰府周辺になります。そして600m移動し、宝満川を下って行き 邪馬壱国をこの距離で探せば、吉野ケ里も山門も日田も全て水行の方が速いし安全になります。ので、該当する地域はありません。〔当時の九州には、熊や狼がいたので陸路を避けるはず〕。
又、末盧国~伊都国 500里 を 陸行 12日以下で歩くことは計算が成り立たなくなります。
書いた合計の距離で、邪馬壱国の場所を探さないでください。
行っていないのだから、邪馬壱国の場所を探し当てようとすること自体 無理があるのです。
また、この計算方法は 寝ていて ふと 思いついただけですから。
⑫卑弥呼を美化しすぎている。
卑弥呼はハッキリ言って、老衰で死にそうな年寄りで、滅多に人に会わず、生口を中国に献上する。人身売買の親玉。鬼道・奇術で人を迷わし、呪う事を生業にした。鬼・山姥です。
⑬卑弥呼の墓の場所
副葬品の多さ(内行花文鏡・方格規矩鏡など40面の銅鏡)鏡の大きさが八咫あることや「八頭花崎八葉形也」の図象が施されていると云われる八咫鏡の同じ物ではとの説あり。侵攻した大和朝廷が奪った可能性あり。ただし、ここでは狥葬が見つかっていない
案外 奴婢なので 甕棺に入れずに そのまま埋めたのかも。
尚、円筒形器台が発掘されたことから、狥葬者用との説あり。
当時 甕棺は、高価な棺だったので豪族親類縁者のみ使用ができた。
⑭ 100歩の墓は、誰が造ったのか。
2股で1歩と数える。現代では半歩(70㎝弱)を1歩と表現している。中国からの伝来の時 違ったかもしれない。
子がいないので 壹與しかいない。少女の壹與は、ちょっと小股で半歩100(普通に測れば40m弱)の墓を造り 体裁を整えた。侍女奴婢100人ちかくを狥葬して大々的に葬儀を行った。 威厳を保とうとして 度々朝貢を行ない 費用が嵩んで国力を消耗していく。壹與の時代には、卑弥呼直轄領の邪馬壱国の(筑紫平野の)土地は、狗奴国の占領地となっていった。その為 壹與を共立する国家は 伊都国・奴国などの 北部九州がだけとなった。九州東側の同盟国は、神武東征の時 征服されていった。
大和朝廷は、狗奴国と共謀し 壹與の邪馬壱国を東と南からと攻めた。壮絶な戦闘の末 邪馬壱国滅亡。
邪馬壱国場所の結論
邪馬壱国の場所は分からないが 答えです
直轄領としての邪馬壱国はあると思います。但し、卑弥呼の住んでいる女王国ではありません。
場所が分からないように、一大卒がしたのです。直轄領としての邪馬壱国は瀬高山門と思います。強い狗奴国に小国の卑弥呼が対等に戦っている事を評価され、女王に共立された。狗奴国から近く危険である事や大和朝廷対策などの外交の為 伊都国へ移り住んだと思われます。
1日の日照時間が一番長い夏至時の6月末の梅雨時に倭国へ来た。邪馬壱国謎のファクターです。
陸行は、10日で47㎞くらい しか進まない。大雨や長雨なら10日間でも1歩も進まない。
中央集権や封建国家の概念が無いので、租税を中央国家に送らない。(卑弥呼は共立された=おだて上げられた=租税の収益は無いが 伊都国には関税収益が有る)中国のように魏・呉・蜀のような大国が多数あるわけではなく、町や邑のような小国しかない倭国では、国と国を結ぶ道路は 当時は殆ど整備されていない。隣の国へ行くのは船です。
又、偉い 帯方郡からの使者を そんなに歩かせるとは思われない。
海で先の見えない方角へは向かわない。(15世紀半ばの大航海時代まで待つ必要あり)
白村江の戦の時、朝廷軍の航路でも、松浦半島→壱岐→対馬→済州島 ルートです。
敗戦で慌てて退却したのに、出雲には向かっていません。
魏志倭人伝の怪しい所は、里ではなく日数になってから、戸数が大きくなったこと。を 見ると誰かが邪馬壱国 ひいては倭国を 大きな国家と見せたかった事が伺えます。
陳寿は 使者が途中までしか行っていないことに気付きました。そして 戸数が 曖昧な数と 分かっていながら そのまま書いたのか、若しくは戸数をもっと多くしたか。です。
この方が簡単です。 多い戸数=多い人口=強大な武力
魏志倭人伝を読み解く重要ポイント
辻褄が合わないところは何処なのか。
文章を論理的に考え、理屈に合わない箇所を調べる。
魏志倭人伝を初めから真実性が薄いと拒絶するのではなく、何処に嘘が有るか。若しくは、虚実があると見抜く。
水行や陸行の考え方
陸行は、危険(狼や山犬・蛇)が多いし、食料の調達の狩りが難しい。又、帯方郡の使者に長距離歩かせない。
水行は、毎日 千里漕げるはずも無く 十分な休憩時間が要る。渡海は目的地が見えないとしない。
陳寿の狙い
実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。
呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。
邪馬壱国の場所
何故、5千家の小国家 不彌國(フウビ・フヤ)に寄ったのか
季節は、6月末の梅雨時
では最後に、嘘をついたのは、一大卒の指示を受けた 案内人でした。
私は 案内人が人口を多めに言った嘘と思います。陳寿は、人口のところを少し多めに書いたかも?
答えは単純でした。遠くまで行きたくない案内人と一大卒、陳寿の思惑が重なっただけ。
殆どの研究者の方が、日数の距離、多くの人口を抱える都市の2つで迷路に迷い込んでいます。
普通に考えれば、途中から距離を里から日数に変えた事とその時から人口が急に増えているのに気づくはずですが。何故、多くの研究者の方がそこを注視しないのでしょうか。この「暇つぶし」を初めて2ヵ月のド素人の疑問です。
距離の嘘に気がつけば、多くの説の根底が崩壊します。多くの人口を抱える国家の存在が 嘘とわかれば、邪馬壱国が小国家で、卑弥呼直轄領では?の可能性が浮かんできます。
本当に7万戸の巨大国家 邪馬壱国はあったのか。
邪馬壱国は7万戸(約35万人)ですよ。食料もですが、燃料の薪は どうしたのでしょうか?人口が少ないうちなら裏山に行けば 薪は手に入ります。人口が多くなれば、通貨が無ければ薪の取引ができません。後の時代の人々は、通貨があったから、薪や炭・藁を買えたのです。【國國有市】とあります。当時なら物々交換の市だったと推測されます。市にどれだけの薪が並んでいたのでしょうか。1戸が1日3㎏の薪を使うとして 毎日210トン必要です。物々交換で多くの燃料は手に入りません。数年で遠くの山も禿山です。コメを通貨代わりにしたと思われるなら かなり無理があります。昔のコメの収穫高は 思うほど多くはありません。勾玉を通貨代わりも無理です。薪の需要と供給のバランスが崩れ すぐにインフレになります。理詰めで考えれば 答えは簡単です。7万戸の国家は無かった。同様の理論で倭国内の 他の地域でも 農地で邪馬壱国を探すのは無理があります。多くの古代文明が滅んだ原因は、薪にするため森林伐採を行ない砂漠化してしまった事が 大きな原因と言われています。又、寒い東北地方ではどれだけの薪を必要としたでしょうか。そして、多くの雪が降る越地方はどのようにして長い冬を過ごしていたのでしょうか。薪を得るために 生きるか死ぬかの紛争が絶えなかったと思われますし、人々が生きるために生活拠点を分散していった事は想像できます。
結論
(ア)魏志倭人伝の辻褄が合わないところをスルーせずに、文章を論理的に考え、理屈に合わない箇所を調べると、嘘若しくは、虚実があると分かる。食料・燃料の薪を考慮すれば、人口が多すぎる。道里が分かるとしながら日数で記載。
(イ)現代の道路や船旅の概念を捨てるべき。隣の国邑との国境の道は誰も整備しない。故に、船の利用をする。山中には、猛獣や盗賊がいる。
(ウ)季節は、6月末の梅雨時
(エ)陸行は、道が整備されていないので、10日で47㎞くらいしか進めない。又、狼や山犬が多く野宿は危険。土砂崩れ箇所がある。裸足で滑るなどの理由で、帯方郡の使者を伴った長距離歩行はしない。
誰も 裸足で橋も無い、蛇が居そうな畦道を自給自足の旅をしたくない。=簡単に山に入らない。
(オ)水行は、大変疲れるので、休憩・食事時間をたっぷりとる必要がある。又、渡海は目的地が見えないとしない。
(カ)陳寿の狙いは、実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。又、呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。
(キ)邪馬壱国の場所を特定するカギは、「何故、5千家の小国家 不彌國 に寄る必要があったのか。」 御笠川を上る為に不彌國に寄って葦船に乗り換えた とするしか説明のしようがない。
上記の全てを考慮すれば、
邪馬壱国(女王国)の場所は、北部九州だが、場所の特定は出来ない。
南方系民族で、生口文化があり 入れ墨民族のシャーマンである卑弥呼と 渡来人と弥生人の混血民族の大和朝廷は、継続性は無く 別の国家である。