大和朝廷誕生【神武東征】の謎

この中の文章で、私が気づかずに方言を使用した箇所が 多々あるかもしれません。又、しつこい言い回しや読みづらい箇所がございましたら ご容赦ください。又、現代には相応しくない記述があります。決して他の国家・宗教・民族・文化・個人を差別・中傷などをする意図は ございません。もし、不愉快な表現で 嫌な思いを抱かれたのであれば、年寄りの うだごつ と許してください。深くお詫び申し上げます。

 

はじめに

お金は無いが、時間なら たっぷり有る年寄りの 暇つぶし に最高なのがこの邪馬台国の 謎解きクイズ。 

新井白石本居宣長 以来300年間 偉い学者先生や民間の方々が 研究をしても分からないのだから 私ごときが解けるはずも無いが 所詮 暇つぶし。 現代では、旅もせず、金もかからず、図書館にも行かなくても 他人が調べた資料をPCで検索すればすぐに分かる便利な時代になりました。PCを開けば 出てくる事 出てくる事。見る度に なるほど と感心させられる説や どうしても納得できない説も多々あります。多分 近未来いや近日中には 生成AIが、「邪馬壱国の謎 究明」などと 論文を出すでしょうから、今のうちに ブログを書いておきます。

尚、参考にさせて頂いた ブログ文献等を勝手に使用したことをお詫び致します。

 

大和朝廷誕生【神武東征】の謎

仮説1.

中国からの争いの苦手な移民者 姫氏(周王朝・紀元前770年~紀元前221年)の末裔が、春秋戦国時代の動乱を避け、倭国へ移住。 最初は糸島の山岳地域に住んで先住民族に色々な技術を教えていたが、技術を独占しようとした一部の 先住民族(後の伊都国)に追われ 朝倉の地に そして 浮羽姉川の地へ 少しずつ南に追われて 住んでいた土地を日向と呼んだ。どんどん南へ追われていき日向神へて菊池平野に住む。 またもや そこへ玉名・山鹿・菊池平野先住民族(後の狗奴国)に攻められ鉄の高温鍛冶設備を取られ捕虜になる。一部の生き延びた姫氏は 東へ逃げ 阿蘇山南の山深い高千穂に逃げのび、土着し、ひっそりと暮らした。

北部九州と菊鹿平野に高温製鉄炉跡があるのは この影響。

狗奴に 製鉄炉技術を持つ者はすべて捕らえられ、高千穂に逃れた人達は その技術を持つ者はいなかった。 日向とは、中国から追われ「日に向かった」渡航の民の事。  〔私が付けた かっこいい説〕

行かれたら分かりますが、高千穂は、凄い山奥で 川沿いの狭い土地です。あえて 他人との交流を避けて住んでいるような里です。ここで文化が開花したとは とても思えない山郷です。

山を かなりの距離 東に降りていき海岸沿いの日向・延岡市近くになると少し平野もあります。(日向から神武東征が始まったとは、とても思えない) もっと南(かなり遠い)の宮崎市近くの 西都地方では広く 高千穂よりは暮らし易くなります。但し、火山灰の影響が残る。

高千穂から西都市を繋げるのは 幾つのも山越えで難しい。 宮崎県全部を日向と言うが、距離的にかなり遠い。

西都市に西都原古墳群があるが、4世紀初頭から7世紀前半にかけての築造とされることから、少し後の時代か?高千穂で暮らす一部の日向の民が延岡・日向の海岸から西都市に定住し、文化圏を造った。若しくは、大和朝廷が宮崎県日向を建国の里と唱えたので、その地に朝廷出身者の移住も増えた。

記紀卑弥呼や邪馬壱国の話が出てこずに、妙に似せたがっている。箸墓古墳に葬られる第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命が、卑弥呼だと云われる方のように。「未来が予言できたとされている」とは、卑弥呼に似せようとしたのでは。

 

ヤマトとは後の朝廷が付けた名称で、中国への朝貢でやって来た倭人をYAMATOの民 と言われたので大和と当て字した。

仮説2.

大和朝廷高天原王朝)が天孫降臨の高千穂から出兵したとき、【日向高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした】と古事記に書いてあります。では何故、日向を出発し筑紫へ向かったのでしょう。何故、田舎の日向から日本統一を目指せたのでしょうか?

福岡発祥説をとれば、

福岡の伊都国日向峠に住んでいた移民→朝倉日向郷→浮羽日向郷から日田を通り宇佐に向かうルートもありますが、日田街道で湯布院を経て別府(宇佐)を征服し 船を調達。そのようなルートを取るとは思えません。素直に博多湾で船を調達し 関門海峡をわたるでしょう。故に、却下。

 

何故、豊国の宇沙に拠り、筑紫国岡田宮で1年過ごて、安芸に向かったのか。まずは、筑紫を攻めようとして失敗したのです。北九州の黒崎に1年留まる(戦争をした)必要があるはずです。筑紫に攻め上がったが、武力で負けて一度南へ行き宇佐を攻める。それから近畿を目指しただけなのです。筑紫と宇佐が逆になっていますし、日向から出向も後からの辻褄合わせでしょう。8世紀の元明天皇の命により太安万侶が編集したとき 辻褄合わせに考案したのでしょう。

仮説3.

大和朝廷天孫降臨の高千穂から出兵したとき、【日向高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした】と古事記に書いてあります。

その降臨の記述には「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に天降りまさしめき。(中略)ここは韓国に向い、笠かさ沙さの御前(みさき)を真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」 伊都国の高祖山のそばにある山をクシフル山

伊都国のクシフル山の民(日向の民)が、先住民(伊都国)に追われ、一部は南へ仮説2、一部は東へ逃れ飯塚盆地へ。朝鮮半島からの漂着者が暮らす 遠賀川流域文化と合流しの田川の地へ。

高千穂=英彦山の麓  英彦山(日の巫女の山)から日が昇る東は宇佐です。

英彦山山頂から宇佐は見えたはずです。(確認していませんが)

宮崎日向から宇佐に向かうのは北です。東に向かうなら四国です。高千穂から海に出て延岡ここからなら四国が見えるはずです。何故、四国へ向かわなかったのか?日向は、宮崎では ないからです。

日向から宇佐に向かったのではなく、伊都国の日向で、占いをし 東へ向かう。英彦山(彦・ヒコ・王子の山)から 朝日に向かって宇佐まで行った。のです。 

記紀は 辻褄を合わせて書いた。特に日本書紀は 邪馬壱国から追われ 中国からの移民と共に東進したと 思われない様に宮崎日向と記載した。

田川→行橋→宇佐へ 山越えルートに 1隊

田川→直方→中間→聞(企救)→苅田→行橋ルートに本隊 平地が続き通り易いし、少しずつ領土を増やしていける+兵力を増やせる。又、苅田から行橋まで近いし、豊前→宇佐と陸行できます。

別動隊と合流。戦闘が苦手な渡来人を含む田川の民は、行程で農耕や灌漑を教えながら婚姻などの平和同盟を結びながら進む。邪馬壱国同盟下の宇佐を支配下に置く。又、今までの戦闘で犠牲になった者たちの霊を弔う。内陸育ちの田川の民は、造船技術を持たなかったので、海岸沿いに北上し苅田港あたりで 教えて貰いながら 船を造り始めた。その間 黒崎に行って「農耕や灌漑を教えるから同盟を結びたい」と申し出るが、朝鮮に近い黒崎には既に多くの渡来人が住んでいて交渉を断念この間1年。船が完成し安芸へ向かう。 

 

大和朝廷は、多分 北部九州に居た部族と中国から渡って来た移民(秦氏・姫氏)連合が 邪馬壱国に追われて できた国家と思います。

そして、近畿地方では政略結婚で同盟を結んで勢力を伸ばした。と書いてあります。記紀に書いてあります。戦闘が苦手な大和朝廷は、結婚による同盟を選択したのかもしれません。

 

私は、大和朝廷糸島市発祥説を取ります。辻褄が合います。野蛮な邪馬壱国から追われて 近畿に来たと云えませんので、日向(日に向かい)から東征したと した方が 聞こえが良いのです。天皇の近くには、秦氏出身の者も 多く「秦の国と間違えられる」事もあるはずです(随書倭人伝629年 秦の国)

宗像・遠賀・行橋などの海岸沿いは、貿易の利益が多いので 邪馬壱国同盟側と思われる。

天孫降臨で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、高天原に降臨された時に付き従った神々 とは、一緒に渡航した方々(大友氏・物部氏など)でしょう。

記紀古事記712年・日本書紀720年)に書かれているような国譲りは、「『出雲国造神賀詞』によれば、国譲りの話など、全く出てこない」ようですが、何らかの争いは当然あったでしょう。謀略・策略・賄賂・騙し討ち 有って当たり前です。業績優秀な企業で 今までの創設者一族の社長が いきなりMAされるのに 「はい分かりました」と言う方が 不思議です。社内幹部の裏切り・暗殺・脱税のタレコミ・社長へのセクハラ告発 等 力ずく も含めて何でも有の時代です。

天皇の性も 倭人名の鵜葺草葺(ウガヤフキ)や中国から渡来人の姫(ヒ)があるようです。長い旅の間に 姻戚が有ったり、離れたり、一つの血統ではない様に見受けられます。又、力を持った豪族たちが外戚により、王位継承時には、兄弟・親子・叔父・甥 熾烈な争いが有ったものと思われます。

 

熊襲成敗の際、阿蘇山奥に高千穂と言う集落が在り 住民が大和朝廷との血縁関係がありそうだと分かる。

当時の高千穂は小さな集落で 若者数名で山を下り日向(延岡)を征服できるとは思われない。ため、宮崎日向説は取らない。

大和朝廷は、中国からの移民国家と話が広がると婚姻による拡大政策に悪影響が出ると考え 高千穂から日向へ進出し、神武東征の出発点と創作をした。それに伴い、宮崎日向の地に大和の民を移住させて西都市などに文化圏をつくる。4世紀初頭ら7世紀前半にかけての築造した古墳などの遺跡がある。(卑弥呼の死が248年だから邪馬壱国との関係はなさそうだ。)西都市児湯郡 都萬神社 の創建は不詳ながら大和民の移住の際 創建されたと思われる。

 

天皇 移民族 説

これは結構面白い。メソポタミア起源の高度な青銅技術 楔形文字が甲骨文字、そして、漢字へ

紀元前1,800年~ シュメール人・アムル/アマ人・エラム人が、ハンムラビ国王による追放

⇒100年後(紀元前17世紀頃に建国)中国 商/殷を起こす

紀元前1,200年頃~アムル系ヤマァド人は、地中海の海洋民族に追われ 逃げる⇒(紀元前1,100~1,000)中国 周王朝や秦

シュメール人・アムル/アマ人・エラム人(商/殷)は 又ヤマァド人から追われ、倭国に渡る(紀元前1,000年~前900年頃) 倭は、Ur(ウル)が起源 

中国の周(Zhou)は、モーゼ生誕の地(Zarw)でアクエンアテン幼少期に過ごした都市名

周王朝 姫一族の建国伝説 周国始まりの王 古公亶父「争いを避けるため住み慣れた土地を離れ 周王朝をひらいた」そして、殷の王族と婚姻をしたと 記されています。〈まるで国譲り〉

農業の神【后稷 ゴウソク】伝説  とある王の娘(姜嫄・キョウゲン)が巨人の足跡を踏むと妊娠 馬小屋で出産し、何度も捨てられたが、不思議なことがおこり 奇跡的に育ち農業を教えるようになる。

姜嫄の姜とは遊牧民を表す。遊牧民の子が農業を教える?=東明伝説とそっくり 最初の方は后稷伝説と同じだが、後半は 王が国を取られる事を恐れ 東明を追う、川に差し掛かり持って来た弓で川を叩いたら、魚が列を作り渡してくれた。東明は逃れて夫余(プヨ)国を造る。まるで、モーゼ伝説。

姜嫄は 古代エジプト王家に 嫁いだ遊牧人族の女性を表し、その子が古代エジプトで農業を学んだ。

アクエンアテン=后稷では。

ちなみに夫余(プヨ)族は、百済の先祖→天皇家の先祖との伝説があります。

天皇家は「姫氏」を名乗っていた時期がある。天皇家は689年の飛鳥浄原令の発布以前まで「姫氏」を名乗っていた。正式には大王(おおきみ)の姓氏である。平安時代の講書(日本書紀天皇に講義した記録)に書かれている博士の質疑の一つに「わが国は姫氏と呼ばれているのは何ゆえか」とある。  姫氏とは、当然 中国古代 周王朝の国姓であり その末裔 と解釈すべきです。

又、神武の父の名は、「鵜葺草葺不合」(ウガヤフキアエズ)であり「鵜葺草葺(ウガヤフキ)」という姓を持っていた。これは、神武大王と大和朝廷の血筋が違う為と思われます。神武大王は倭人です。(熊襲出身説あり)

 

宇佐神宮卑弥呼の墓説もあります。

宇佐神宮は、崇峻天皇年間(588? - 592年?)に鷹居社(たかいしゃ)が建てられた。

2拝4拍手1拝。これをするのが出雲大社宇佐神宮のみで、滅ぼした大国に4(死)回拍手して、鎮魂する。亀山の大きさが100歩の135mに近いとか。道鏡「769年 宇佐八幡宮神託事件解決のため宇佐神宮に行った。など  

私は、伊都国日向発祥の田川朝廷(後のヤマト朝廷)が 宇佐を重視したと考えます。 もし、邪馬壱国の鎮魂のためなら 卑弥呼ではなく大和朝廷に殺された壹與の墓ではないでしょうか?卑弥呼の死因は老衰と思われます。少し時代が違います。大和朝廷に恨みを持つ 弥生時代最強のシャーマンは壹與です。大和朝廷の者からすると 一昔前 卑弥呼という凄いシャーマンが居たことは 知っていたと思いますが、実際に戦ったのは鬼術を使う 壹與です。箸墓古墳倭迹迹日百襲姫命(未来が予言できたとされている)ではありません。近畿説を唱えるなら 卑弥呼が祀られている墓に 道鏡宇佐八幡宮神託事件解決のため向くのは箸墓古墳ではないでしょうか。

故に、天皇家の今後を決める大事な御神託を受ける宮は 本当に霊力が強い壹與を祭る宇佐神宮だ 思います。

又、宮崎日向から神武東征が始まったのなら、何の関係も無い宇佐に寄る必要も無いし、ここに神社を建てる理屈が無い。この時 壹與が宇佐に逃げて来ていたと考えるには、時間軸が少し違う。

北九州市黒崎の岡田神宮も建立の意味不明の為、私説では、同盟を申し出た地としました。

大和朝廷は、狗奴国と共謀し 壹與の邪馬壱国を東北(海岸)と南からと攻めた。壮絶な戦闘の果て 邪馬壱国滅亡。

仲哀天皇の時代には恭順した崗県主熊鰐の案内によって、神功皇后が岡田宮の八所神を奉祭したとの記事が日本書紀に載る。故に、狗奴国が 戦闘の犠牲者供養のために創建した神社と思われる。

岡田宮の主祭神神武天皇と言うのも時間軸が違う。

 

俄かに、九州王朝説が真実味を帯びてくる。

 

勉強が足りない事は重々承知しています。

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