邪馬台国 一大卒の罠

一大卒の罠 別紙

2024年3月24日

 

 暇な年寄りTomyK

 

近畿説の矛盾

  • 九州北部上陸から細かく国名距離戸数を記載していながら瀬戸内海では記紀に出ているような大都市安芸(広島)吉備(岡山)の記載がない。目的がただの観光や金印授受等の形式儀礼ではなく 国力をさぐる偵察なら 人口が多く軍事力が強い国を書かないはずがない。国力を図るのに途中の瀬戸内海(挟み撃ちされる)を略して書か無いとは、斬首刑くらいの罪。行っていないので書けない。もし、近畿に邪馬壱国があるなら重要項目が抜けすぎている。

北部九州に比べ 近畿までの航路に城が無さすぎる。無防備過ぎる。

帯方郡からの使者を接待する伊都国から近畿までは遠すぎる。

奈良と一大卒がいる伊都国とのやり取りの記録が少ない。むしろ疎遠だった。

近畿説をとるなら、検閲場所(伊都国)の位置が1か所だけでは理屈に合わない。せめてもう1ヶ所山口県より東に作り 判断ができる者(例えば皇太子) を置かなければ緊急事態に対処できない。どんなに急いでも往復に2週間以上掛かってしまう。襲来などの緊急事態でも全て一大卒任せとなる。逆に言うと 邪馬壱国は一大卒次第となる。

伊都国から途中補給と休憩をして近畿まで行くとしたら、瀬戸内海航路なら潮が速い危険な関門海峡を書かない方が不思議。

奴国と不彌國(フウビ・フヤ)に寄る必要はない。奴国は、貿易港なので寄って土産や保存食を買うことは考えられるが、わざわざ奴国より東100里の小国 不彌國に寄る必要はない。

九州説では、不彌國は重要となる。次の投馬国に行くためには、不彌國で木船より軽い萱船を造り 乗り換えて、御笠川を上る必要がある。大宰府で600M引きずり宝満川を下る。

帯方郡の使者梯儁は、靴が汚れるから歩かない。(私は、投馬国は、大宰府だと考えています。不彌國から投馬国 間に水行二十日は 近すぎると思われますが、実距離10㎞でも 梅雨時の川を上るのに20日掛かると倭人の案内人が言った(行きたくなかったから)のです。土砂崩れの為、道が無いので水行のみの行程となります。)

当時の国を結ぶ幹線道路の整備はされていない【草木茂盛、行不見前人】 倭国内の隣国との交易は、基本は船を使う。内陸の場合だけ日田街道のように手入れされている(踏み固められている)

それに、梅雨時の為 土砂崩れがあっても そのままの状態。

当時は国邑の結びつきが弱い。統一国家が無く、卑弥呼を共立しただけで、国と国を結ぶ道を 整備しない。誰も困らないから修復しない。国同士の交易は馬がおらず、人手よりも多くを運べる船を利用する。

②水行20日や10日陸行1ヶ月 東を南と書き間違えた説;ここまで書いて2回(日本海に向かう説では1回)も続けて間違えるとは 思えない。【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できる】と書きながら、日数で書いた。この点を考えると、魏志倭人伝の一貫性・信憑性が崩れており、本当に行ったのかを疑うべき。行っていないので、言われたとおりに書いた。が素直に感じる。

倭国大乱跡が無いし、鉄器の出土が少ない。=ヤマト朝廷は戦をしたがらない。寧ろ、婚姻などの同盟で領土を広げていった。その為、纏向には、楼觀・城柵 などの防御跡が無い

10代崇神天皇(実在するなら3世紀後半から4世紀前半)は、吉備国の鉄製品と踏鞴(フイコ)製鉄の技術を獲得するために、吉備津彦を西海将軍として吉備国を攻めた。だから、この時までは、大和朝廷には、鉄の武器は無かった。それに やっと同盟国となった吉備国にも高温を出せる製鉄技術はなかった。

④近畿の古墳には 埴輪はあるが、狥葬がない。(第11代垂仁天皇の弟である倭日子(4世紀前半から中期に亡くなる)の陵墓は古事記によると、「始めて陵に人垣(狥葬)をたてた」 とある)

⑤九州北部から瀬戸内海・近畿地方を 支配している大国の邪馬壱国なのに、狗奴(クヌ)国の1国に攻められ それをわざわざ魏に報告して激励を貰う必要はない。

畿内説を唱える説では、狗奴(クヌ)国を紀伊半島内と唱える方も居られますが、卑弥呼が居る邪馬壱国は鉄の武器を持っているのに、銅の武器しか持たない紀伊半島の田舎部族など怖くない。筈なのに、卑弥呼の晩年は、狗奴国に苦戦をしている。当時 菊池・山鹿平野の部族が 狗奴国なら既に鉄の武器が造られていた証拠(高温製鉄炉跡出土)がある。鉄鏃発掘数から歴然。

卑弥呼の墓が、箸墓古墳などの纒向にあるとすれば、卑弥呼の弟や壹與の墓は何処になるのか。壹與の墓が有るなら卑弥呼と同じ規模のはず。

⑦陸行1ヶ月で下関~纏向まで いけるだろうか?橋も無い・崖崩れはしている。むしろ水行を続けるだろう。 大阪から船で川を上り 後を100里(10km)陸行が速い。

⑧近畿説の根拠は、大和朝廷がここにある、日本全国の陶器がここに集まる、農耕集落ではなく政治都市、副葬品が多い、当時とするなら最大の古墳がある、くらいでしょ。このような根拠で九州北部国家と近畿国家の両立が無いという方が、無理があります。朝鮮半島に渡る為に 松浦半島を通る必要がある。という事は、九州北部の海岸線は邪馬壱国の支配下でなければ理屈に合わない。

壹與は、晋に266年朝貢を行なった事 

280年 第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣 

第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

など 九州北部で戦ったことの辻褄が合わない。

記紀卑弥呼や女王国の記載が無いのはおかしい。当時の最大の箸墓古墳に祀られているのが卑弥呼しか考えられない とNHKで言うわりに 宮内庁は認めていない。宮内庁が認めていないという事は、天皇陛下も認めていないという事。

当時最大の古墳・豪華な副葬品を根拠に 主張を通すなら箸墓古墳は ツクヨミスサノオなどの神の墓の可能性がある。又、マグダラのマリアの墓やイエスの棺が納められている との主張も否定できない。壹與の墓の可能性も0ではない。だって、宮内庁が認めないのだから 発掘は出来ないから 否定もできないはず。

大和朝廷は、戦をしたがらないと書きましたが、周王朝 姫一族の建国伝説 周国始まりの王 古公亶父「争いを避けるため住み慣れた土地を離れ 周王朝をひらいた」そして、殷の王族と婚姻をしたと 記されています。〈まるで国譲り〉

大和朝廷には、姫一族の争いを避けるDNAが入っていると思います。

 

纏向遺跡より2千個以上の桃の種が出土して卑弥呼が祭祀に使った物では。と話になっていますが、当時の占い等には、割と桃の種は使っていたようですね。

桃は古代中国の神仙思想で邪気を払い、不老長寿を招くとされる。桃の種は弥生時代の遺跡でも広く出土するが、1カ所でこれほど大量に見つかった例はないという。古代祭祀の実像や纒向遺跡の中心とみられる大型建物の役割を探る重要な手掛かりになりそうだ。                                           

纏向に 今までにないような巨大な箸墓古墳があり、大和朝廷の神殿なら大量の桃の種が有ってもおかしくない。

【其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆】

卑弥呼は鬼術使いなので、呪い殺すなどの おどろおどろしい イメージがあります。

桃の種は神事の邪気払いの様で、卑弥呼や壹與の呪いに対抗したのでは と思います。

〔邪気使い=鬼〕卑弥呼・壹與 対 〔神の使い〕倭迹迹日百襲姫命 の戦い。これ、有りそうです。

まるで、鬼 対 陰陽師の戦いのようです。 映画化を期待します。      

 茶化してすみません。

 

故に、奈良地域のヤマト朝廷と九州北部の邪馬壱国は別の国家と思われる。

近畿説は、矛盾が多すぎるし、邪馬壱国が奈良にあって欲しいと思い過ぎ、理想の空論 卓上の理論。

ま 私も卓上ではあるが。

 

出雲上陸説&越前説の矛盾

伊都国に一大卒を置くなら出雲を管理できない。もし、出雲にも同等の管理者を置いていたら書くはず。卑弥呼の信頼できる者は、弟しかいない。(壹與は幼すぎる)

又、使者が帯方郡へ帰るのに わざわざ山陰を超えて陸行し日本海岸を海流に逆らい松浦半島まで行くことになる。瀬戸内海ルートで帰ると高価な船を置いていくことになる。

近畿に行くのに出雲を経由する必然性が無い。瀬戸内海を行き来した方が楽。銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を 手運びするのに 何故、山越えをする必要があるのか。

水行が速いか遅いかではなく、どちらが安全なのかが重要。

遭難した人々が住む地域が出雲・越(前・中・後)である。どうしても出雲に上陸する方が安易と考えるなら、元寇も出雲に攻め込んでいるはず。帰るにはどうしても九州に向かう必要がある。

白村江の戦も、渡海は九州から。秀吉の朝鮮出兵も九州から。

負け戦で 命からがら出雲や越に帰り着いたと 聞いたことがない。

一番の問題点は、山越え。 人が歩いた道とわかる程度で 大きな石がゴロゴロし、木の根が張り出し歩くのが大変な上に毒蛇や猛獣もいる。こんな険しい山道を進もうと考える方が摩訶不思議。軍隊のような大人数(人数が多いと食料調達が難しい)でなければ、野宿したらオオカミに襲われる危険が大きい。

裸足の民が山越えルートを選んだとは思えない。

鉄製の武器の出土が少ない。帯方郡からの使者が出雲に上陸したと したら、倭国は銅武器(少しは舶来の鉄武器はある)ばかりで鉄の武器が少なく銅鉾などを使っている後進国 と報告するはず。

鉄鏃・鉄鉾などの記述をどう説明されるのでしょうか。

戦争に使うだけの量が有ったのか。どこで造ったのか。高温フイコ窯が有ったのか。

 

朝鮮半島から出雲に直行する為、慶州を出発し 見えない東郷池は、どちらの方向へ向かうのでしょうか。海流に流されて確実に東郷池に着くのでしょうか。

海を渡る時、夜明けから日暮れまで死ぬ気で船を漕いで1,000里です。暗くなり海流に流されて 海の尽きる崖から落ちたら生きて帰れないからです。ともかく、目標の陸に向かって漕がなければなりません。

反対に 朝鮮半島に向かうには、西へ死ぬ気で漕ぎ続けて 海流の速さと人が漕ぐスピードの相関係数は、1日間75㎞(1,000里漕ぐ)―96㎞(海流4㎞×24時間)=▲21㎞。 目的地に向かって懸命に漕いでも前進しません。数日後には 良くて越前若しくは佐渡島です。

漕ぐスピードを1日1,000里としていますが、長里で表すと1里434Mで 1,000里とは434㎞になり、時速43㎞で10時間漕ぎ続ける事になります。人間が漕ぐスピードではありません。

狗邪韓國から尊馬國(対馬)まで1,000里=実際一番近い所で75㎞  

尊馬國(対馬)から南南東へ1,000里で一大国(壱岐)=実際一番近い所で72km

どう考えても 東郷池~慶州間の300㎞直行は無理です。間に島もありません。

倭国へ向かって渡海したのが、夏ですから南風ですので、帆を使かえません。冬の日本海は波が荒く航海できません。

幸運に恵まれて南東の風が吹けば到着するでしょう。しかし、途中で風向きが変われば助かりません。

帰りも同じです。倭国に半年近く居た((移動日+片道2ヵ月+滞在日)×往復)帰りは翌年です。

安全な航海を考えるなら 流れが緩やかな 海岸線に沿って九州に行き、所々の陸地で十分の補給・休憩・食事をしながら、壱岐対馬が見えたら漕ぐと思います。

出雲や越に大文化圏が在ったことは認めますが、頻繁に朝鮮と交流があったとは 思えません。朝鮮からの漂流者がもたらした文化・技術が蓄積されていった。とみるべきでしょう。

どの説も 松浦半島経由を取ると思います。=末盧国の領地=一大卒の権限内=通行税を払わなければ拿捕される。たとえ同じ邪馬壱国同盟であっても積荷の3割は貰うし、生口1人は欲しい。と交渉が始まると思います。「えー女の生口を積んでいないの?男なら固いので煮るのに時間が掛かるから要らない。その代わり 積荷の5割置いて行け」「嫌なら船が来なかった事にして沈めるぞ」。

入れ墨があり生口文化がある民族(多分 南方系民族)である事を忘れずに。

あくどい一大卒には誰も反抗できなかった。船の難破が多かったので、疑いようがない。高い通行税を払って通過し、上司にチクっても相手してくれない。〔戦争になって困るのはどちらか分かっているから〕

現代の王国でも外交を担当するのは、皇太子か直近の親族です。よっぽど信用していないと他人に外交をさせません。

 

海を渡る時 疲れ果て 暗くなり目標が見えない夜になる。海流は、時速4kmと云われています。

暗くなって夜が明け始めるまで8時間=不安な夜を32㎞流される。見えた陸地に懸命に必死に漕ぐ。=出雲に着く では。 夜漕ぐと岩礁があった場合 避けられず 沈没=魚の餌

 

出雲が邪馬壱国説も同じです。何故、出雲に南方系民族ですか?寧ろ、朝鮮系民族のはず。

越前説を唱える方の根拠として 稲作可能面積を挙げられます。

私も7万戸の平野を最初に探し始めました。筑紫平野ではと思い調べたら、すぐに昔は海だと分かりました。そういえば昔 祖母が、「先祖はこの干拓地にやって来た」と 云っていたのを思い出した。大牟田も瀬高・柳川・三潴・久留米も海でした。良くて干潟でした。今でも 牟田や潟の地名が多く残っています。

7万戸以上の人民を養える土地と考えるのは自然の事ですが、現在のウクライナと同じく、武力で米・財・人を奪おうと野盗国家が毎年襲ってきます。平和主義国家は、存続できないのです。又、越前に 顔に入れ墨をしている南方系民族が住む巨大国家が在ったとは思えません。そして、煮炊きや暖房用の薪はどうするのでしょうか。7万戸を養う食料はあっても、燃料がありません。1戸で3㎏の薪を使うとして7万戸では 毎日210トン。 冬になれば倍以上必要です。薪の争奪が激しく 諍いが絶えず 弱者は凍死するでしょう。人口が多くても2万戸が精一杯と思われます。ここでも鉄文化が必須になります。伐採の為、鉄製の斧でなければ生産性が悪く 多くの木が切れません。

縄文人は、入れ墨文化があったと云われています(土偶が有る)縄文人は狩人です。農耕弥生人との転換時期(混血時期)の可能性はありますが、倭人は、未だ縄文人系が多いのです。

【草木茂盛、行不見前人】【倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。】など、夏を思わせる記述はあります。越前は温暖ですか?冬でも生野菜を食べますか?越前に冬に居たなら豪雪地帯なのに雪の話が無いのは不思議です。中国や朝鮮でも越前のような豪雪は未経験のはず。又、越前まで行って帰るのに海流に逆らい、山陰を過ぎて九州松浦半島(末盧国)まで戻るしか方法はなく、一夏で済む訳がない。(水行20日+10日&陸行30日往復で4か月間+滞在期間=短くなる放射説を取ってもギリギリ 台風が来たらOUT)出雲・越説の最大の難問は、九州まで帰らなければ、朝鮮半島へはたどり着かない。トンデモ説で対馬海流に乗り北海道沖でリマン海流に乗って朝鮮半島に着く。との説を唱える方もおられますが、海流をよっぽど知っていないと発想ができないし、ほとんど遭難覚悟の説。当時の船で長期の航海では無理。水・食料とも足りないし、怖くてその説を唱える船で帰ろうとは思わないので 「あなただけでどうぞ」。そして私は「来年まで待って九州周りで帰ります」と言います。

偏西風を利用して租税の徴収が楽だとか。(卑弥呼は共立の為 租税収益はありません。租税があるのは国邑内だけです。この頃の倭国は、中央集権も封建国家の概念はありません。)帰りは海流が弱い海岸線沿いに逆走していくとしても、少し長旅になりそうですね。わざわざ越の邪馬壱国に租税を送る?必要ありますか。九州北部なら最新鋭の飛び道具 鉄鏃を大量に製造しているのですよ。私が一大卒なら「欲しければ取りに来い」と言って戦争します。勝つ自信があるし、帯方郡の使者を通じて 邪馬壱国で謀反が起きたと報告する。伊都国には、帯方郡よりの常駐役人が居ます。【郡使往來常所駐】一大卒の言葉を信じない理由が無い。

伊都国には、帯方郡の役人が常駐しています。邪馬壱国が伊都国に攻めてきても、朝鮮からの援軍が速いでしょう。又、援軍が来なくても、伊都国は通行税を沢山貯めていますので、大勢を雇うことも可能です。

(越からの出兵は無いはず。兵を積んで海流に逆らい進軍は膨大な戦費が掛かる)

外交や交易の窓口を押さえておかないと、国家の安泰は無い。故に、一大卒は、女王の親族かそれに近い者で押さえておく必要がある。(よほどの権限と報酬を与えておかないと 親族でも心配かも)

故に、私説では、一大卒は卑弥呼の弟の可能性が強い としています。

 

鉄鏃出土 

戦争には沢山の強力な武器を持っている方が絶対に有利です。信長は、鉄砲の数の多さで天下を取りました。数が多いから3段構えができました。ほとんどの戦闘は、弓です。時代劇にあるような刀で切り合いなどは 滅多にありません。昔TVで南方系民族の戦いの放送を見ましたが、弓や投槍でした。

(その時は、小さな諍いでしたので、一人怪我をしたことで戦闘は終わりました。)

鉄鏃は遠くまで飛ぶし、皮の鎧や盾も突き通します。すごく強力な武器です。白兵戦での剣と剣での戦いは誰でも怖いし、相打ちなども多く、互いに死傷者も多く出ます。出来るなら遠くから大量の弓を射かけて制圧戦法を選ぶと思います。

又、多くの人口を抱える国は農耕・伐採・開拓を必要とし、鉄製斧・鍬などの鉄製品が多くなければ作業の生産性は上がりません。

 県別に見た鉄器の出土数

鉄器は弥生時代を通じて圧倒的に北部九州に集中する。

3世紀はじめにヤマト王権が誕生しても いぜんこの傾向は変わらないが、東日本にも普及しはじめる。

この直後、3世紀後半以降の定型化した前方後円墳からの大量の鉄器副葬によって九州と近畿の鉄器量は逆転する。

つまり、弥生時代に北九州と畿内勢力が戦争した場合に、鉄を持つ北九州が勝利することは明らかである。

 

故に、出雲・越前に邪馬台壱国が存続できる可能性は無い。

 

四国説の矛盾

距離も方向もバラバラで水行20日&水行10日陸行1か月 のみを根拠にしている

大陸からの情報を一番早く受け取りやすく 鉄の鏃・鉾を使用する北部九州を通り越してわざわざ四国の端に大文化圏を作れるはずがない。

伊都国で検閲を受けるでしょうから、一大卒の権力が凄まじいものになります。遠い四国から支持するには遠すぎます。私が一大卒なら貿易船・朝貢船・渡来船 すべてから通行税を取り、鉄の武器で邪馬壱国から独立していたでしょう。倭王印も私が持ちます。多分皆さんも同じくするでしょう⤴。

四国を南とは書かない。奴国から北へ・東へ・南へ・東へ+500里北へ

正確には 300里北へ・300里東へ・3千里南へ・4千里東へ+500里北へ(1里=100Mとして)

弥生時代の製鉄技術は、北部九州と菊鹿平野しかなく、重要軍事機密である。=ヤマト朝廷でさえ鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。

【倭の地について問いて集めるに、海中洲島の上に遠く離れて存在し、あるいは絶え、あるいは連なり、一周は五千余里ばかりか。】の文章を取って四国はちょうど5千里。と言われますが、対馬から壱岐・松浦半島などは、倭国ではないのでしょうか。

帯方郡から徳島まで12,000里(グーグルアプリで調べた?)。衛星写真や地図がない弥生時代にどうやって分かるのでしょう。

渾天儀(コンテンギ)をわざわざ船で邪馬壱国持ってきて観測し、後漢書に記載してある会稽東治(かいけいとうち)の東 と 測るはずはない。

普通に考えれば 高価な渾天儀 を遭難の危険がある船で海を渡しません。

当時の技術でできる(可能な事)と実際にした事 では、まったく違いますし、渾天儀 を担いで奴国(福岡市)から築上郡 まで山道を50km歩くのは不可能です。グーグルマップの直線距離で見られていると思いますが、凄い山道です。10日やそこらで行ける距離ではありませんし、築上郡からの船も手配も大変です。歩けると強く主張されるのであれば、是非試してみてください。裸足で、食料無しで、無一文で、ヒッチハイクも無し ですよ。橋を渡るのもダメです。私なら、裸足と聞いただけでギブアップします。

何をしに倭国に来たのか、

240年梯儁が、詔書と金印紫綬印綬銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を持って来た。

247年に、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣さる。

天体観測や地理を調べに来たわけではなく、表向きは金印授受等の形式儀礼で来ていますが、実は国力を調べに来たのです。

普通に考えてほしい。莫大な下賜品 若しくは激励の黄色い旗と一緒に 渾天儀まで持ってきますか?もし持って行ったなら「ありがとう」と云われて 取られます。普通 他人の家に土産物と一緒に高価そうな 訳が分からない品を持って上がったら、どうなるか と考えてください。〔伴天連の神父が信長との接見に地球儀の他に羅針盤を持って行き、「いや、これは違います」と 言えますか?〕

一番の問題点は、何処から見た南かです。一大卒が居る伊都国からは四国は南とは言いません。      從伊都国至女王国、循海岸水行、奴国、不彌國、乍北乍東乍南乍東、到其東岸投馬国、二十日 くらい書かないと。

四国山岳説も同じです。寧ろ、突拍子もない説と言えます。焼山・溜池・四国の大きさ・30の国の名前に似た地名がある。などを根拠に上げられますが、たったのこれだけです。

陸稲は水稲と比べて干ばつに弱く、収穫量は降水量に左右される上に水稲の半分以下です。陸稲は畑で栽培され、連作障害に弱く、他の作物と輪作される

 焼山は日本全国どこにでもあります。焼山は、縄文時代に行われていた陸稲でしょう。溜池は、四国は大きな河川が無いので作った(堀・クリークは雨が少ない地方では多く存在します)。大きさでは、九州の北部地域のみで表現できます。30の国名に似た地名は全国にあります。   

 

茨木説の矛盾

出雲を末盧国とし、越を伊都国とし、長里ばかりを考え長野を通り 日本を横断し、東京から千葉を渡り茨城まで。

歩かずに、船を利用する方を考えなかったの?水行で松浦半島から関門海峡経由を渡り 瀬戸内海経由で海岸沿いを行った方が楽。

発想が長里に固執しすぎ。象徴の富士山の記述がないし、1年や2年では行けないし 帰れない。 これも 理屈に合わない。帯方郡からの使者をそこまで陸行させるの?着くころには隊員の半分は狼や熊の餌食になっていて、多くの財宝も捨て置かれただろう。

長里を基本に考えているため「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」

 帯方郡から狗邪韓国と書いているのに、わざわざ洛陽からと考える。

短里(67㎝~100㎝)なら帯方郡―狗邪国まで(630㎞)を7,000里なら割と正確。

九州説以外の方は、秦の始皇帝が決めた長里約400~435mを取られます。その為、【從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里】を倭に至るには、郡を通って

と洛陽からの距離をグーグルマップで調べたがります。洛陽からも朝鮮半島対馬も長里に合うように図ったのでしょう?壱岐までの距離が合わなくなると、一大国は壱岐ではない。や海流に流され緯度が5度ほど変わってくる。東が45度ずれている。無茶苦茶です。夏至の頃は地位軸の傾きで23.4度ちがうだけです。対馬でも壱岐でも帯方郡の使者は 毎日太陽の方角を確認しますので、海流で流されても緯度は傾きません。末盧国~伊都国までが500里なのです。皆さんは、自分が描いた邪馬壱国の場所に誘導したいだけです。

 

その他 各説に対する反対意見

魏志倭人伝の方角は90度傾いているとして、南をすべて東に読み替える説。

太陽は何時も東から上ります。夏至では、23.4度 東北東から上り、23.4度 西北西に沈みます。倭国内で使者が南を東と間違えるはずがない。左下の地図のようになっていると思ったのなら、南水行20日の段階ですぐわかるはず。

 

陳寿が、呉の背後に倭国があると、思わせたいなら【計其道里、當在會稽東治之東】だけで充分で、【自郡至女王國、萬二千餘里】を書く必要は無い。

呉が魏を襲うための中継基地を倭に求めることは無い。済州島で十分。

呉が倭国に鏡を送ったのではなく、呉の年号が入った鏡が 朝鮮半島を通じて 流通していた。

但し、倭国を 呉の監視下に置く為、スパイ等で情報収集はしたはず。

東北地方 女王国説

238年倭使、240年魏使、243年倭使、247年倭使・魏使・倭使 交流は頻繁に行われている。どうやって朝鮮半島まで行くのだろうか。松浦半島経由しかないはずですが。もしかすると、対馬海流に乗り北上し、北海道沖でリマン海流に乗り換える。ウラジオストックに着いたら拿捕されます。運よく朝鮮半島に着いたらラッキー。では、帰りは?狗邪韓國から(対馬壱岐は九州北部勢力圏内)運よく対馬海流に乗れて出雲・越の勢力に拿捕されなければ東北に着く。ほとんど運任せの旅となります。対馬と朝鮮の交易は頻繁にありますので、狗邪韓國で出航準備をしているだけで、送り狼や待ち伏せをするでしょう。

それだけ、遠方からの使者や朝貢は危険を伴います。

 

まとめ

もし、一大卒が、お飾りの官僚なら倭国は植民地となっていたであろう。

当時の北部九州の倭国は、鉄鏃・鉄鉾などを使う軍事国家で、いつも戦争をしているから 他国から来る使者を警戒した。そして、ライバル国(大和朝廷帯方郡朝貢していた事〈神功皇后は魏に朝貢している〉を知っていた)や朝鮮半島経由のスパイを警戒した。

【郡使往來常所駐】伊都国の一大卒は、無駄に 帯方郡の使いを泊めて接待している(ハニートラップ含む)のではない。朝鮮半島・中国大陸・大和朝廷の情報収集をしている。当時も他国の情報は必要不可欠。

 

帯方郡からの使者を(偶然の要素が強いが)欺く(錯覚させる)行動が奏し 間違った距離を魏に報告させた(邪馬壱国は広くて大きな支配地を有していたと思わせた)

倭国の位置も重要ですが、それより人口の多い事=兵力 が重要。

魏志倭人伝の記載で人口が書かれている国だけで、15万戸。その他の同盟国を合わせると倍近くになりそう。故に10万人くらいの招集兵力が見込まれる。

赤壁の戦いで、孫権軍3万+劉備1万+劉琦軍1万=5万

この呉連合軍の後ろに 兵力10万の海洋民族 倭国が存在していることが、脅威なのです。