邪馬台国は謎が多すぎる

特に【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できる】と書きながら日数で書いたか。この時点で この魏志倭人伝の一貫性・信憑性が崩れているのに、どの学者も そこを指摘しないのか?

魏志倭人伝を読んだ時に ほとんどの方が「あれ?」と感じたのではありませんか?

要するのに、嘘が有る。どこが嘘か、どこまでが真実なのかを見極める事が邪馬壱国究明に繋がる。と思います。 Liarは 誰だ。

PCの投稿で、魏志倭人伝を90度傾き説方や辺傍の国の場所を探されている方、古代中国語の発音まで研究されている方、1里の探究者、等々 もっと単純に 魏志倭人伝の記載には、田舎者の見栄張り、酔っぱらいの大風呂敷、どこまでが本当かな?と 温かい目(疑いの目)で見てみました。

 

私は ずぶの素人ですので、単純な発想で 謎解きをしていきたいと思います。

 

古今東西 紛争は、最初は 話し合いから始まり 最後に武力になります。日本内でも頼朝しかり、家康しかり。現代の どの紛争も同じような過程を経ています。途中までは何処の国家も調停を受け入れたりして戦争を避けますが、結果的には武力で決着する事になります。

通貨の流通が盛んになれば、金で 取り敢えずの 解決もありますが。

強い武器や軍事力を持っていたら、他国の財や人民・領土を略奪し、自分のイデオロギーを強いるのが、世の常です。

どんな綺麗ごとを言っても、物欲・権力欲・征服欲などの欲望を持つのが人間です。開拓という名の侵略、解放という名の侵攻 等々。

西部劇に出てくる大開拓時代、マゼラン・コロンブスなどの大航海時代、宗教の普及による救済。侵略者には、とっても耳障りの言い響きです。植民地にされ・殺され・奴隷にされ・侵された人々の嘆き悲しみの声をかき消す 素晴らしい言い訳。

 

科学力・豊富な知識・工業力をバックにした 強力な軍事力を持つ国家 その先進国が、その他の国邑・先住民を 侵略していきました。

人類の歴史は侵略の歴史でもある。1世紀単位で見ると 人類史上 話合いで決めるなどの弱腰外交が続き 栄えた験しはない。

畿内説や九州説など多くの学説がありますが、どの説も決定打がありません。

この地域は農地が広いとか、日本列島の中央であるとか、朝鮮半島に近いとか、多くの遺跡があるとか、副葬品が多いとか、大和朝廷が開花した場所だとか、思い入れのある地域とか。あまり重要ではありません。全てを奪い取れるが有ればよいのです。例えば、副葬品などは、武力が有れば 他の部族の先祖の宝を盗掘・強奪することも可能です。(この時代に それを妨げる信仰や宗教・道徳概念・平和主義はありません。ましてや国連も国際司法裁判所もマスコミも人権団体もありません。)武力こそ、力あっての王なのです。信長の力とカリスマ性を持った王(女王)なのです。当時の最新鋭の武器と言えば 皮の鎧を貫く 鉄鏃・鉄鉾なのです。

私は、武力を焦点に邪馬壱国の謎に迫っていきたい と思います。 

 

大和朝廷の初期は婚姻などの同盟〔記紀で書かれている〕で領土を広げていった。吉備・紀伊・吉野・尾張・京都など

鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣や 第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

北部九州の紫川近郊で 鉄の鋳造技術を得た(鉄の技術を持った渡来人を捕虜にした)ので、それ以降は武力統一となる。 神武東征で黒崎に寄った時ではありません。

弥生中期に北部九州では鉄鏃などの鍛造鉄器がいち早く普及し、高度な鍛冶技術を獲得して大形鉄器の製作を行うことができるようになった。 しかし、鉄器素材の流通・鉄器加工の技術情報を北部九州に独占隠匿された。それ以外の地域では大型で高品質の鉄器素材はもとより、高度な加工技術そのものも獲得できなかった。

北部九州と云っても 渡来人が多い邪馬壱国同盟の中でもごく少数の国だけが独占していた。例えば伊都国、奴国。

宗像や遠賀・聞・宇佐も同盟国ではあったが、軍事同盟ではなく 貿易同盟だけだった。

村上恭通氏らの研究によると弥生中期以降 北部九州では明瞭な掘形をもつ防湿構造のある鍛治炉がみられ、この高温を 保持ができる炉を得て、高度な高温鍛冶による大型鉄器が現れてくる。 しかし、その他の地域では 大多数の鍛冶炉が、防湿構造がなく 床面に直接火床がある鍛冶炉しかみられず、しかも 一部 不完全ながらも薄い掘り込みのある鍛冶炉も時代と共に床面を直に火床とする鍛冶炉に退歩する。 また、この北部九州の防湿構造のある鍛治炉さえもが、弥生時代が進むにつれ、退歩してゆく=ヤマト朝廷の傘下に入ったから製鉄技術の統制管理が厳しくなった。 掘形をもつ防湿構造のある火床・鞴を有する本格的な鍛治炉が広く現れてくるのは古墳時代になってからである。

その原因の一つには 鋳造鉄斧など鉄器の伝来は弥生時代の前期にまでさかのぼれるにしても、日本に鉄器が供給されるルー トは一部の中国・朝鮮半島からにかぎられ、鉄を造る技術「製鉄技術」や「大型鉄器なども作れる高度な鉄器加工技術」は 大陸側 そして北部九州で厳しく管理隠匿されていた。

 また、弥生時代の後期 中国・朝鮮半島は戦乱に巻き込まれた時代であり、日本への貿易がままならぬ時代であった。倭国も戦乱に見舞われ、輸入品の鉄器・鉄器素材の流通は 難しくなっていた。

YAMATOTOTOTOHIMOMOSOHIMENOMIKOTO=第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(未来が予言できたとされている)箸墓古墳に葬られる。

墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られた可能性あり、倭人伝の「石棺はあるが槨がない」に矛盾するし、大きすぎるし狥葬が無い(そのまま埋めたので 骨が解けてしまった可能性あり)。建造に時間が掛かるため権力の継承が必要。邪馬壱国が大和朝廷に引き継がれたなら可能性はあるが、鉄鏃・鉄鉾を武器にしている 入れ墨がある野蛮民族が どういう経路で政略結婚拡大路線に切り替え 武器を銅鉾などに退化させたのか?辻褄が合わない。

卑弥呼と未来が分かる巫女をごっちゃにした方が 面白いので近畿説の人にうけた。

箸墓古墳から出土した三角縁神獣鏡は 出土数が多すぎるので、国産品と思われる。

邪馬壱国 近畿説を唱える学者は 歓喜して喜んだだが、各地から330面以上発掘され 意気消沈。

理由;同笵鏡(同じ鋳型もしくは原型から作成された鏡)が多い。

畿内を中心に広い範囲から出土。主に古墳時代前期の古墳から出土。

早くから中国製という説が唱えられたが、中国に出土例がない。

 

箸墓古墳は典型的な前方後円墳=ヤマト朝廷のシンボル。卑弥呼の墓は、円墳若しくは方墳。

土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、邪馬台国卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)なので、邪馬壱国とヤマト朝廷は、別の国家である

卑弥呼の死後国が乱れ、壹與が新女王になるとあり その後が不明。近畿説では、どのように辻褄を合わせるのか?卑弥呼の死は248年とされ、

280年 第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣 時代が30年違う。

壹與の時代248年 女王になる(13歳) 

壹與は、晋に266年朝貢を行なった。(壹與は三十路近くなり 貫禄も出てきたころかな?)

謎の4世紀

その後 壹與の邪馬壱国と大和朝廷軍(後で 日本武尊率いる)の凄まじい戦闘が有ったと思われる。邪馬壱国は 帯方郡朝貢する暇も費用も無かったはず。又、大和朝廷帯方郡朝貢をするために戦闘地域を抜けて松浦半島から朝鮮に船を出す事も無い。はず。

大和朝廷が鉄の武器を持つようになり、壹與の邪馬壱国との戦いで、やがて邪馬壱国 滅亡。

邪馬壱国を大和朝廷が滅ぼした事を聞き、 安心して 伽耶(後の任那と改名)から都怒我阿羅等第 が、倭国へ来る。これが素直に時の流れが分かる。

第10代天皇 崇神天皇 の時 日本に来る

第11代天皇 垂仁天皇 の時 帰る

日本書紀では魏に朝貢した倭王神功皇后一人であると記載されている。ので、時代の流れを見ると、やはり違う国家

 

では何故、宮内庁は 箸墓古墳倭迹迹日百襲姫命の墓と称し続けるのでしょうか。

倭迹迹日百襲姫命卑弥呼では いけない訳。若しくは、絶対違うとの確信がありそうです。

当時では、最大の前方後古墳に何故、第7代孝霊天皇皇女の陵としたのでしょう。

第7代孝霊天皇の陵は、大きな山のようです。前方後円墳が始まったのが、この箸墓古墳のようです。

験しに造ったのかな?

 

陸行1日の距離は、4.7㎞です

唐の「大唐六典」の28.05㎞(中国の唐の時代は道路整備も進んでいます。平地が長く1日の軍行は28㎞進むかもしれない。それに中国の長安は 湿地帯はなく 小麦やトウモロコシが主食の 黄色く乾燥している大地です。山道でなければ割と早く歩ける。但し 土誇りがすごい。時速4㎞で7時間歩く。それも1ヶ月間)

中国時代劇に出てくるような食料を積んだ荷車はありません。当然 携帯食・弁当もありません。

日本の土地は河川も多いし橋も無い。 戦国時代でも1日軍行20kmしかない(現代の陸軍も同じ)ことをお忘れのようです。「1日の歩く平均距離が4.7㎞では短すぎる」との話が多くでますが、では考えてください。朝起きて一日の行程を占い(雨なら動かない)出発。14時ぐらいになれば 宿泊場所探し・野営設営・火起こし・食料調達を始めます。弥生時代の道の状況や労働環境・栄養状態を考慮すると1日10㎞未満かと思われます。梅雨時ですので、3日に1日は雨で動きません。ましてや、日本の険しい山河や獣を警戒して進むことを考えたなら、もっとゆっくり進むのではないでしょうか。中国の広い大地ではないのです。それに 人は病気や怪我もする。そんなに真面目に急いで歩き続ける理由がないし、軍事行動ではないのです。のんびり しているのです。陸行だけに限らず水行でも 食料確保や火起こし野営地設営など歩く以外の仕事も多いのです。雨が降ったら火起こしが大変です。ましてや、荷物や駕籠(さすがに急な山道は歩いた)を担いでの旅です。 普通に考えたら難しいと思いませんか。蛭(ヒル)がいる畦道やムカデが這っている山道を裸足で歩く。そして一番厄介なのが 野薔薇などの棘のある植物です。中国の軍隊行進と一緒にしないで欲しい。1日28㎞の発想は、裸足で田舎道を歩いたことが無い都会人の発想です。偽りだと思うなら、田舎の年寄りに聞くか、自分で試したらいい。田舎に行って(マムシ注意の看板がある)蛇が出てきそうな畦道を 裸足で何メートル進めますか?試したくもないでしょう?

末盧国の記述で【草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない】とあります。外国からの使者や交易人が通る道なのに 整備されていないのです。これが、当時の倭国の現状です。

 

1里を、短里として無理やり こじつけ たと、言われる方も居られますが、帯方郡から狗邪韓國までは、水行ですので、実測(歩測)できません。7,000里と云われている。程度でしょう。狗邪韓國から對馬國1,000里。對馬國から一大國も1,000里。一大國から末廬國まで千余里も違うではないか。と指摘をされますが、海ですから「やく」なのです。海上でギリギリ見える距離が1,000里なのですし、松浦半島から海岸沿いに唐津まで航海した距離が約千余里なのです。普通に考えればよいのです。陸行で唐津から糸島までが,帯方郡から連れてきた測量士の歩測した実数です。500里移動。=実際53km 。53km㎞割る500里で1里106mですなお、歩測ですので、正確ではありませんし、唐津のどこの海岸に着いたのか?や 伊都国のどの場所が到着地かも分かりません ので目安としてください。)

当時の測り方は2股を1歩とし135cmくらい×50歩=1里で計算するので、山道・ぬかるんだ道は、1里が短くなります。

里から日数になっているし、伊都国から奴国までの里の記載の仕方がおかしい。 距離は出鱈目だと言う方もおられます。しかし 末盧国から伊都国までの歩いた距離は約500里なのです。ぬかるんだ細い道を 荷物を背負いながら歩測したことをお忘れなく。

テレビで世界の秘境を旅する番組がありますが、レポーターの方達は 靴底が厚い登山靴(軍隊のような靴)を履いていますよ。

アマゾン・西表島インドネシアのジャングル若しくは、富士の樹海を裸足で歩くのを想像してください。ぞっとしますよ。

近畿説を取る方で、水行のスピードを静水の時 平均時速5.2㎞と言う人もおられますが、漁師が漕ぐような スピードで漕げるわけではありません。又、満潮引潮などで潮の流れが変わってきます。現地で集めた人にその国の中を漕がせ、次の国へ行ったら又人を集める作業から始めるのです。同じ人を使うと「帰れなくなる」と嫌がり漕ぎません。賃金を払うわけではないので諸役(苦役)なのですし、海が時化ている時もあるし 日が暮れたら魚介類は取れない(火起こしが出来ない日は 当然飯なし)し、陸地に上がって野営地を探し 雨をしのがなければいけません。弁当やコンビニはありません。

瀬戸内海を10日間で行けるはずはありません。奴婢を使ったとしたら なお漕ぎません。それとも ガレー船のように鞭打ちながら漕がせるのですか?陸に近づいたら飛び込んで逃げますよ。

そして、北部九州・安芸・吉備・近畿を支配地に持つ邪馬壱国(大和朝廷)と互角に戦争している狗奴国は何処の国ですか?鉄の武器を持って戦う狗奴国は、熊本の菊鹿平野の熊襲とわかっているはずです。紀伊半島の部族の可能性がゼロではない。程度でしょう。

 

倭国大乱を北部九州と吉備国が争い それを女王卑弥呼が共立されて乱が収まった。と云われる先生も居られますが、鉄器の武器と銅の武器では、一方的な結果が出るのは 分かるはずです。北部九州が、安芸・吉備を征服していたはずです。吉備には朝鮮からの輸入鉄器(鉄鏃)が少数あっただけです。倭国大乱とは、北部九州内の国々が権力争い(貿易の利権争い)をしていたのです。

近畿説の学者先生は、出土品の多さ・副葬品の豪華さばかり唱えて、武力には目を向けず、纒向に卑弥呼が居た。と云われますが、新井白石が唱えた初期の近畿説から進歩がほとんど見当たりません。織田信長が大量の鉄砲で天下を収めた。 西郷隆盛率いる薩摩と官軍との戦い 西南の役と同様に、何処の武力が強いのかを見極めるべきです。

近畿地方前方後円墳は、大和朝廷所縁の陵墓ですし、吉備などの遺跡・古墳(6世紀製造)も大和朝廷の陵墓を真似ただけです。大和朝廷が勢力を伸ばした時期に その墓を真似て前方後円墳が全国に広がってきます。

 

何度でも言いますが、近畿説の大きな矛盾点は大和民族が邪馬壱国のような入れ墨族ではない事です。記紀天皇が入れ墨をしている記述は一度もありません。又、記紀以外の古文書にもありません。日本書紀に登場される大王が顔に入れ墨をしていたとは、思われません。又、そのような絵を見たことがありません。

 

陳寿は何故、倭国の植物や動物まで詳しく書いたのか?

陳寿は、倭国旅行日記を書いたわけではない。まして、ミシュランガイドや観光ガイドは書かない。

倭国への侵攻をする場合の食料・荷駄・軍馬など調達のため細かく記載した。と見るのが、必然でしょう。

近畿に女王国があるなら 普通なら関門海峡安芸国吉備国・上陸地の浪花などの軍事重要地点は絶対書くはず。対馬壱岐の動植物まで書いておいて 不彌國からは 端折って書かない理由がない。

中国の文献には、途中から端折って書かない物もある。が、偵察行動で途中から書かない事は 書く必要がないか、妨害に有って書けない くらいしか想像できません。途中から端折る文献は 報告に値しない事柄のようです。

気候や動植物の変化が無かった。=南九州や東北地方に行かなかった。

(ア)魏志倭人伝の辻褄が合わないところをスルーせずに、文章を論理的に考え、理屈に合わない箇所を調べると、嘘若しくは、虚実があると分かる。食料・燃料の薪を考慮すれば、人口が多すぎる。里が分かるとしながら日数で記載。

(イ)現代の道路や船旅の概念を捨てるべき。隣の国邑との国境の道は誰も整備しない。故に、船の利用をする。山中には、猛獣や盗賊がいる。

(ウ)季節は、6月末の梅雨時

(エ)陸行は、道が整備されていないので、10日で47㎞くらいしか進めない。又、狼や山犬が多く野宿は危険。土砂崩れ箇所がある。裸足で滑るなどの理由で、帯方郡の使者を伴った長距離歩行はしない。

誰も 裸足で橋も無い、蛇が居そうな畦道を自給自足の旅をしたくない。=簡単に山に入らない。

(オ)水行は、大変疲れるので、休憩・食事時間をたっぷりとる必要がある。又、渡海は目的地が見えないとしない。

(カ)陳寿の狙いは、実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。又、呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。

(キ)邪馬壱国の場所を特定するカギは、「何故、5千家の小国家 不彌國 に寄る必要があったのか。」 御笠川を上る為に不彌國に寄って葦船に乗り換えた とするしか説明のしようがない。

 

上記の全てを考慮すれば、

邪馬壱国(女王国)の場所は、北部九州だが、場所の特定は出来ない。

 

まとめ

もし、一大卒が、お飾りの官僚なら倭国は植民地となっていたであろう。

当時の北部九州の倭国は、鉄鏃・鉄鉾などを使う軍事国家で、いつも戦争をしているから 他国から来る使者を警戒した。そして、ライバル国(大和朝廷帯方郡朝貢していた事〈神功皇后は魏に朝貢している〉を知っていた)や朝鮮半島経由のスパイを警戒した。

【郡使往來常所駐】伊都国の一大卒は、無駄に帯方郡の使いを泊めて接待している(ハニートラップ含む)のではない。朝鮮半島・中国大陸・大和朝廷の情報収集をしている。当時も他国の情報は必要不可欠。

 

帯方郡からの使者を(偶然の要素が強いが)欺く(錯覚させる)行動が奏し 間違った距離を魏に報告させた(邪馬壱国は広くて大きな支配地を有していたと思わせた)

倭国の位置も重要ですが、それより人口の多い事=兵力 が重要。

魏志倭人伝の記載で人口が書かれている国だけで、15万戸。その他の同盟国を合わせると倍近くになりそう。故に10万人くらいの招集兵力が見込まれる。

赤壁の戦いで、孫権軍3万+劉備1万+劉琦軍1万=5万

この呉連合軍の後ろに 兵力10万の海洋民族 倭国が存在していることが、脅威なのです。