魏志倭人伝 素人考え まとめ

魏志倭人伝】 卑弥呼の弟は、一大卒だった

2024年4月9日

 

 暇な年寄りTomyK

 

この中の文章で、私が気づかずに方言を使用した箇所が 多々あるかもしれません。又、しつこい言い回しや読みづらい箇所がございましたら ご容赦ください。又、現代には相応しくない記述があります。決して他の国家・宗教・民族・文化・個人を差別・中傷などをする意図は ございません。もし、不愉快な表現で 嫌な思いを抱かれたのであれば、年寄りの うだごつ と許してください。深くお詫び申し上げます。

 

はじめに

お金は無いが、時間なら たっぷり有る年寄りの 暇つぶし に最高なのがこの邪馬台国の 謎解きクイズ。 

新井白石本居宣長 以来300年間 偉い学者先生や民間の方々が 研究をしても分からないのだから 私ごときが解けるはずも無いが 所詮 暇つぶし。 現代では、旅もせず、金もかからず、図書館にも行かなくても 他人が調べた資料をPCで検索すればすぐに分かる便利な時代になりました。PCを開けば 出てくる事 出てくる事。見る度に なるほど と感心させられる説や どうしても納得できない説も多々あります。多分 近未来いや近日中には 生成AIが、「邪馬壱国の謎 究明」などと 論文を出すでしょうから、今のうちに ブログを書いておきます。

尚、参考にさせて頂いた ブログ文献等を勝手に使用したことをお詫び致します。

文章の途中に写真や地図を載せるべきですが、ブログの特性上(私ができないだけかも)割愛させて頂いています。

 

魏志倭人伝の疑問点

①何故 邪馬壱国へ行く必要があったのか。行かずに呼びつければ よいのでは?

②何故 末盧国から陸行したのか

③何故、5千家の小国家 不彌國(フウビ・フヤ)に連れていかれたのか

④何故 途中から里ではなく日数になったのか

⑤1里は、何キロなのか。

⑥【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない】と記されているのに 何故 里で書かずに 日数で書いたのか

⑦各国の王名を書かないのに 官や副官の名前を書いているのか

陳寿が、倭国を植物や動物を詳しく書いたのに、途中から端折って書かなかった わけ。

⑨【その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。】

⑩本当に7万戸の巨大国家 邪馬壱国があったのか。

⑪【以婢千人自侍】 1,000人もの侍女は、本当にいたのか

⑫水行20日+10日 陸行30日は何里なのか

⑬皇帝は歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け・・・

何故、奴隷10人と綿布2匹2丈でこんなに喜んだのか?

⑭100歩の墓は、誰が造ったのか。

大和朝廷との関わり&宇佐神宮の謎

⑯奴国が2回出てくるわけ

 

特に【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できる】と書きながら日数で書いたか。この時点で この魏志倭人伝の一貫性・信憑性が崩れているのに、どの学者も そこを指摘しないのか?

魏志倭人伝を読んだ時に ほとんどの方が「あれ?」と感じたのではありませんか?

要するのに、嘘が有る。どこが嘘か、どこまでが真実なのかを見極める事が邪馬壱国究明に繋がる。と思います。 Liarは 誰だ。

PCの投稿で、魏志倭人伝を90度傾き説方や辺傍の国の場所を探されている方、古代中国語の発音まで研究されている方、1里の探究者、等々 もっと単純に 魏志倭人伝の記載には、田舎者の見栄張り、酔っぱらいの大風呂敷、どこまでが本当かな?と 温かい目(疑いの目)で見てみました。

 

では、上記の疑問点を一つ一つ調べ 且つ謎解きしてみます。

この点がこの300年間「あーだ こーだ」言われている ところ でしょう。

私は ずぶの素人ですので、単純な発想で 謎解きをしていきたいと思います。

 

古今東西 紛争は、最初は 話し合いから始まり 最後に武力になります。日本内でも頼朝しかり、家康しかり。現代の どの紛争も同じような過程を経ています。途中までは何処の国家も調停を受け入れたりして戦争を避けますが、結果的には武力で決着する事になります。

通貨の流通が盛んになれば、金で 取り敢えずの 解決もありますが。

強い武器や軍事力を持っていたら、他国の財や人民・領土を略奪し、自分のイデオロギーを強いるのが、世の常です。

どんな綺麗ごとを言っても、物欲・権力欲・征服欲などの欲望を持つのが人間です。開拓という名の侵略、解放という名の侵攻 等々。

西部劇に出てくる大開拓時代、マゼラン・コロンブスなどの大航海時代、宗教の普及による救済。

侵略者には、とっても耳障りの言い響きです。植民地にされ・殺され・奴隷にされ・侵された人々の嘆き悲しみの声をかき消す 素晴らしい言い訳。

●●異教徒は人間ではない●●● 1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。 

 

科学力・豊富な知識・工業力をバックにした 強力な軍事力を持つ国家 その先進国が、その他の国邑・先住民を 侵略していきました。

人類の歴史は侵略の歴史でもある。1世紀単位で見ると 人類史上 話合いで決めるなどの弱腰外交が続き 栄えた験しはない。

畿内説や九州説など多くの学説がありますが、どの説も決定打がありません。

この地域は農地が広いとか、日本列島の中央であるとか、朝鮮半島に近いとか、多くの遺跡があるとか、副葬品が多いとか、大和朝廷が開花した場所だとか、思い入れのある地域とか。あまり重要ではありません。全てを奪い取れるが有ればよいのです。例えば、副葬品などは、武力が有れば 他の部族の先祖の宝を盗掘・強奪することも可能です。(この時代に それを妨げる信仰や宗教・道徳概念・平和主義はありません。ましてや国連も国際司法裁判所もマスコミも人権団体もありません。)武力こそ、力あっての王なのです。信長の力とカリスマ性を持った王(女王)なのです。当時の最新鋭の武器と言えば 皮の鎧を貫く 鉄鏃・鉄鉾なのです。

私は、武力を焦点に邪馬壱国の謎に迫っていきたい と思います。 

 

①の疑問 邪馬壱国へ行く必要があったのか。

皆さんの研究資料やブログなどを見て最初に思ったのが、何故 邪馬壱国へ行く必要があったのか。行かずに呼びつければ よいのに。でした。

倭国から何度も帯方郡に来ていますし、天子に拝謁もしています。

拝謁した使者や渡航歴のある者に 「倭国とは どのような所なのか?」と聞けばよいだけ と思ったのです。

もしかすると、行く必要があったのでは?と推察しました。

例えば、軍事同盟に値する国なのか。占領して(豊かな国なので)属国にしようか。それにも値しない 遠くの小さな島国で偶に朝貢させる程度の国邑なのか。

魏は「赤壁の戦い」で呉の水軍5万に大敗をしています。呉の背後に 魏に都合の良い同盟国が有れば・・・

とりあえず、誰か行かせて調べさせようと 思ったのでしょう。

 

240年、帯方太守弓遵は建中校尉梯儁に邪馬壱国に帯方郡からの使者として出張を命じられる。

 

自分が帯方郡の官僚(梯儁・ていしゅん)だったらと仮定し、これから検証していきます。

表向きは、邪馬壱国からの朝貢の礼と 皇帝よりの詔書印綬 それに多くの土産を届ける事だが、本当の目的は、倭国の国力の調査(いい加減な報告をすると、罰せられる)

 

予備知識を得る為、倭国の事を調べてみた。

陳寿(チンジュ)が280年~297年の間に書いた三国志魏志倭人伝の前には、75年~88年に書かれた「漢書」地理志だけが倭人についての書物であった。

しかし、度々倭国から朝貢の使者が来ていたし、倭国との交易もしていたので、多くの方に話を伺う事が出来た。

魏志倭人伝の3段目は、後から付け加えたものと考えるが、下記のくらいの事は情報として得ていたはず。

倭人帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢(後漢25年 - 220年)の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせていた。

【30箇国が使者を通わせていた】とあるが、そんなに簡単に行けるのだろうか?東シナ海を直接抜けるのは無理なので、松浦半島経由で壱岐対馬朝鮮半島経由となる。九州圏内とギリギリ出雲範囲、それと台湾経由で琉球王国か。

 

よく、中国からの伝来物で、朝鮮半島経由、東シナ海渡航説、台湾・沖縄経由説が 有りますが、私は 東シナ海渡航説は考えられないと思います。目的地が肉眼で見えない旅は自殺と同じだからです。ですから、後の時代の遣隋使も朝鮮半島などの陸地がギリギリ見える距離で、中国本土に向かったと思います。でないと怖いでしょう⤴。度々渡航して慣れてきたらショートカットもあるかと思いますが、遭難の確率は高いと思います。

難民が侵略者から逃れるのに 一か八か 東シナ海を渡ったのであれば 分かります。東の海の向こうにある新天地(幻の蓬莱山)に向かう。

倭人とは、

広義:中国大陸から西日本の範囲の 主に海上において活動していた民族集団。大海の海洋民族で今の 西日本(主に九州)・沖縄・ジャワ・フィリピン・などの東シナ海を支配&縄張りとする海の民。 

狭義:後に集団の一部が西日本に定着して弥生人倭人となる】

 

【男子無大小、皆黥面文身】男性は大人も子供も、みな顔や体に入れ墨をしている。(黥面は顔の入れ墨、文身は体の入れ墨) 

古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。

倭国から来た使者も黥面だったかも

夏(中国の古代王朝)の王【少康】の子が、會稽に封ぜられた時、断髪して入れ墨をし、蛟(みずち)の害を避けたという。今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入れ墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。〕

と話を聞いた。これも報告書に書く。            

 

一応将校である私(梯儁)でも、顔に入れ墨(きしょくわるぅて、えすか)民族のところへ行かされると思うと憂鬱になる。

 

野蛮人が住む邪馬壱国出発の準備にかかる。手練れの護衛と剛力の漁師を集め、倭国語が喋れる通訳や渡航歴のある者を加える。

転覆や海賊に襲われる可能性があるため、船団を組む。

対馬海峡を渡るには 波の荒い冬を避け、尚且つ 目的陸地が見える 1年で一番 日中の長い 夏(6月下旬  夏至)が良いのだが、帰りの事も考え5月に 出発する。

*日が明るいうちに目的地のギリギリ見える陸地(対馬)に向かい 懸命に漕ぐ。着いたら数日休んで又、次の陸地へ向かう。暗くなって陸地を見失ったら流されてしまう。=遭難したら海の端から真っ逆さまに落ちて行き 二度と生きて帰れない

 

1,帯方郡から狗邪韓國まで あるいは南へ、あるいは東へ進み 7,000里=実際630km

 

2,狗邪韓國から尊馬國(対馬)まで1,000里=実際一番近い所で75㎞  

〔実際と殆ど合致:水平線越しにギリギリ見える距離が1,000里としていた。季節が夏なので、夏至は太陽の昇る方角は真東から23.4度ほど違います(地軸の傾き)。45度の半分 要は東北の半分で 東の場合東北東のとします。以後は修正して書きます〕

水行1,000里=75㎞   水行1里75mを基本として考えます。

 

3,尊馬國(対馬)から南南東へ1,000里で一大国(壱岐)=実際一番近い所で72km  

対馬壱岐では、調査のため上陸する。漕ぎ手を休ませるため でもある。

 

4,壱岐から末盧国(松浦半島)まで1,000里余り=直進で一番近い所で52km

実際は500里くらいなのだが、海岸沿いに唐津まで移動したので1,000里余と記録した。

松浦半島の最北端に見張りがいて 船を出して先導してくれる。( 推測 ) 

尊馬國(対馬)と一大国(壱岐)は島の大きさまで詳しく書いたが、昔から渡航する人が多いので その人々の話を参考にして書いたが、多少のズレは問題無いと思う。

 *研究者の方で、島の大きさが 少し違うと指摘する方もあるが、正確な地図を作るために来たのではないから 約で構わないはず。もしかすると、大きさが違う=島が違うとの主張の為か。しかし、南1,000里以内にそれらしき島は見当たらないのだが。まして、3,000戸の島ともなれば、かなり大きい島となる。流されて隠岐諸島壱岐とする説の方かな?

行きは良いよい帰りは怖いですね。帰りは、海流に逆らい北に向かえば、良くてウラジオストックに着き、拿捕されます。

 

5,陸に上がり伊都国まで500里移動。=実際53km

 伊都国から案内人が来て 船荷を調べられた。

【王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國。及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書、賜遣之物詣女王、不得差錯。】

 〔郡からの使者や貿易商人が往来するので、唐津には一大卒が任命した検閲官が常駐〕

途中で盗まれたり、誤魔化せたり しないようにした。

重要;松浦(唐津)から伊都国までは、上陸して歩数で実測できたし、末盧国の様子も観察できた

*1歩は、2股で数える。現代では半歩(70㎝弱)を1歩と表現している。

【草木茂盛、行不見前人】末盧国での記載でも明らかに夏に来たと分かる。

②何故、末盧国から陸行したのか。

何故、ここから陸行したのか。伊都国からの行程は 色々な説がありますが、末盧国から伊都国までは、間違いなく陸行しています。では、何故 楽な船旅を止めて辛い陸行を選んだのでしょうか?

A、強引に上陸させられた。

B、疲れ果て休憩&食事の為に上陸した。

C、私が船酔いした。

D、末盧国(倭国本土)を調べたかった。

E、海を渡る木造船で行けなかった。

全部が当てはまると思いますが、素直に考えると Dの要因が大きいと思います。

【草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。】など細かな事を書いているのは ここまでです。伊都国から不彌國までは、同じ海岸沿いで、距離も近いし 大して変わらない。だから 書く必要がなかったと思われます。

ポイント:郡からの使者や貿易商人が往来する主要道路なのに 道が整備されていない。

一部の先生からは伊都国は多久市との説もありますが、多久市に貿易・外交の窓口を置く必要も無いし、外交の窓口なら海岸線沿いが適切と考えられる。多久市説は理屈に合わない。

③の疑問

何故、5,000家の小国 不彌國に寄ったのか?

奴国から不彌國に行き御笠川を上ろうとしたが、水流が強く上れなかった。その為、不彌國に水嵩が落ち着くまで逗留した。が一番納得できる。

日本書紀古事記の記述では神功皇后朝鮮半島出兵(三韓征伐)の帰路に応神天皇を出産した地とされ、これにちなんで「産み」に通じる「宇美」という地名がつけられたといわれている。〕記紀の件を承知の上で、地理的条件(距離・方角・御笠川)が一致するため。 不彌國を宇美町としています。                          

不彌國(宇美)は、奴国(那珂川市)から東北東10㎞を水行。

他の説で不彌國は宗像(糸島市から55km)や、飯塚市(61km)距離も方角が違い過ぎる。

 

この説の方が、しっくりくる。投馬国や邪馬壱国がどこでもよい事になるし、いい加減な戸数も云っただけ だから。

卑弥呼の居住地をハッキリさせない事が、重要だったのでは。何故ならば、帯方郡大和朝廷からも朝貢を受けているので、完全には信用できない。その為、一大卒は自分が卑弥呼の弟だと言わなかった。

かなり すっきりしたので、筑紫平野の邪馬壱国は、卑弥呼の直轄領。吉野ケ里などの南の堅固な環濠集落は、狗奴国に備える為の出城的役割。

5,000家の小国 不彌國に寄ったことが、近畿説などの九州北部説以外の否定の根拠となる。

他の説では ここに寄る必要がない。

 

伊都国から東南東へ100里で奴国(那珂川市)へ=那珂川市庁舎まで実際27㎞  今の福岡の海岸沿いでも幅がある8㎞~18㎞。当時の海岸線は かなり内に入っていて長いと思われる。

伊都国から乗船(当時は 糸島半島は島)した。

と思う。何故なら、伊都国・奴国・不彌國の間に那珂川と云う大きな川を渡ることになるので、乗船した方が楽だし、

私は偉い建中校尉梯儁なので 靴が汚れるので歩きたくない。この方が 現実味がある。

水行の為、河口の濁流を避けて大きく迂回したので 距離が良く分からない。

下記からこれに従う。

 

私説

卑弥呼は 伊都国に住んでいた。 

伊都国では 一大卒だけが書かれている事や平原遺跡1号墓は 明らかに女性用と思われることから、卑弥呼の墓と思われる。そして、一大卒は 卑弥呼の弟では と考える。

確かに、千余戸しかない小国なのに権力が強い。

邪馬壱国とは、女王の直轄地かもしれない。一大卒が教えなかったので そんな事を知らない帯方郡の官僚(梯儁)は、邪馬壱国へ向かおうとしたのでは。

【南至邪馬壹國。女王之所都】  女王の都ではなく、女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所。と 書いてある。

一大卒は、女王卑弥呼が ここ伊都国に居ることを隠して「女王の都まで遠いので、ここで謁見したことに しませんか?」と言ったが、私(梯儁)は、「いや大切な品(女王を親魏倭王と為した詔と金印紫綬銅鏡100を含む莫大な下賜品)を持って来ています。簡単にお預けすることができません。行かせて欲しい。」と どうしてもと行きたがる。しかたなく どうせ途中で引き返させるので、 「なにぶん田舎ですから多くの方の接待は難しゅうございます。駕籠を準備致しますので、お乗りください。荷物もこちらで運び手と船を準備致します。護衛もわたくし共で準備致しますので、連れてこられた護衛の方の同行は数名のみにしてください。」と言って送り出した。

万が一 女王国に到着しても なんやかんや 言い訳を付けて合わせない様にする手筈。

銅鏡100枚を含む莫大な下賜品の重量は何キロになるのだろうか。これを運ぶのに、何人の人手が必要なのだろう。

一大卒は、案内人に「途中まで行って、先は遠いと言って引き返すように」と耳打ちする。又、「防衛機密をうっかり漏らす可能性もあるので、道中の王や官には要らぬ話をさせるな」と厳命する。

その為、私のほかに副官、数名の護衛しか連れていけなかったし、各国の戸数や国邑の様子は案内係に 聞くのみとなる。従者たちはココ伊都国で留め置かれた。〔後の時代では、筑紫館(鴻臚館)が、福岡城跡に出来るが、当時はまだ無い。〕

 

案内係は、「各国の王や官は、酒乱の上に 卑弥呼の呪詛に 臆して いるから、歓迎の宴会は辞退して 挨拶だけにしておきましょう」と 言って、すぐに出発した。

話によれば、この奴国は2万戸(10万人)あると言う。交易の港で都会である。

奴国の2万戸は、かなり大きな国で、領土も広いはず。10万人を食べさせる食料・燃料の確保を必要とする。

 

東北東100里で、不彌國(フウビ・フヤ)

不彌國(宇美)から先を 案内人が、行きたがらない様子。「雨で川が増水し 氾濫して崖崩れもしています。次の投馬国へ向かうのに陸路で行けませんので、萱船を造り 南に水行20日位かかりそうだ。又、邪馬壱国へ向かうには 南に水行10日 陸行30日かけて行く事になります」と 言い出す。どうしても行くなら こんなにかかりますよ。と言われた。

④の何故、

途中から里ではなく日数になったのか

行かせたくなかったので、里を知らない案内人が こんなに掛かると 日数で言った。

⑤の何故

伊都国まで500里移動。=実際53km を書いているのだから、陸行1里は106mで計算した。

上記の理由から 1里はこれを基準に考えます。

 

⑥の理由 

【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない】

と記されているのに、何故 里で書かずに日数で書いたのか。

記述が矛盾する。帯方郡の使者が 途中から行ってないのが分かる。陳寿は行っていない事を分かっていながら そのまま書いた。(誰も行った事がない のだから梯儁の報告書を疑うものは誰もいない。陳寿は、報告書通りに書いた。)

誰かが、ここで日数と里の混合を気が付いているはずだが、「難癖付けるなら お前が行ってこい」と言われるのが怖くて 素知らぬ顔をした。

帯方郡を出発して2ヵ月近く経って6月末になっている。このまま進んで、2ヵ月経つと8月末。帰路に就き渡海するころには11月になり 日が暮れるのが早くなる事と北風が強くなる為 今年中に帰れない。

などを考え、諦めて伊都国へ戻った

故に、帯方郡の使者は 卑弥呼に会っていない。

 

南南東に 水行二十日

ここからが、問題の道順

 

川の氾濫がなければ、投馬国=大宰府 を経て 御笠川を更に上り、600mくらい船を担いで(押して)宝満川に移し、10日間船で南下 +歩いて1ヶ月かけて邪馬壱国へ向かうはずだった。

最初は、不彌國を香椎・新宮と思っていましたが、弥生時代の海岸線を考慮すると、不彌國を宇美町としました。宇美町の南南西10㎞に那珂川市(奴国)があります。

地図を見ても分かると思いますが、伊都国から奴国を通過して不彌國まで20里東へ移動しただけですから、伊都国から「連続説」 「放射説」とも大して変わりない。

伊都国から海岸沿いに移動していることが分かる。次の投馬国は、那津(博多湾)からの距離を考えればよい。

(但し、当時の海岸線は、かなり内に有る為、伊都国→奴国→不彌國を流れる御笠川 の順で水行したと考えます。)

 

(但し、帯方郡から投馬国まで南へ水行20日間、帯方郡から邪馬壱国まで南へ水行10日 陸行1ヶ月と解釈する方は別です。 この考えは、水行と陸行の1日の距離が分からないので、採用していません。

どうして採用しないのか?と反論がありそうなので、

私の説では、水行1日1,000里(75㎞くらい)としますが、流れの無い状態での計算です。海流に逆らい漕ぐ場合は、進まない(対馬海流 時速4㎞×24時間=96㎞ 寧ろ、21㎞後退。川を遡る時は、流れが緩やかになって上ると考えますので、状況次第となります。陸行1日4.7㎞としました。理由は【草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない】と書いてあり、整備されていない道を裸足で歩くなら 雨が降っていない時で1日10㎞くらい。雨天日は動かない(動くと危険)。14時くらいから 食料調達・火起こし・宿作りなどをすると 考えました。又、マムシや猛獣の危険を避けるため歩くときは 進む方向の地面に棒を叩きながら音を立て、探りながら進む。大変 気を使います。田舎育ちの私ですが、靴を履いていてもマムシは怖いです。長靴必携です。蛭は血を吸われるだけですから 気持ちは悪いですが怖くはありません。(蛭=吸血ナメクジ、上手に泳ぎます)足に蛭が吸い付き 親指大に赤く膨れ上がった蛭を見ると ぞっとしますよ。                                                                

帯方郡から水行20日で76㎞×20日=1,520㎞休日無して漕ぎ続けていますが、狗邪韓國までは630㎞。を海岸に沿って水行していますので、休憩も簡単に取れます。1日76㎞は、死ぬ気で漕いでです。1日漕いで1日休みと考えれば、松浦半島に着いた当たりと思います。放射説では、朝鮮半島からも出られません

私は、水行1里75mとします。

 

ここで多くの疑問に解答

 御笠川を更に上り、600mくらい船を担いで(押して)宝満川に移し、に疑問

御笠川の源流まで上ることも 宝満川の源流から下ることも 不可能では?

源流ではありません。道路からも見えますが、しっかりとした川です。宝満川も 大宰府近くでは穏やかな川です。地形図を見てください。山からの源流ではありませんので、両方の川とも船での往来は可能です。

 

数多く、帯方郡からの偉い使者を歩かせる説が見受けられます。

雨道を長靴が無い時代に歩かせるはずはない。裸足で担ぐ駕籠は滑って危ない。

ましてや、私(梯儁)は、雨の日は濡れるし 汚れるから嫌だ。故に動かない。

 

御笠川宝満川間は 下が滑るので、船を引くのは 使者を乗せたままでも可能ですが、萱船の場合は10人掛で持ち上げたがよい。

 

何故、官 副官 の名前だけ書かれているのか?

對馬國   其大官曰卑狗、副曰卑奴母離

一大國   官亦曰卑狗、副曰卑奴母離       

末廬國    記載なし

伊都國   官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚

奴國     官曰兕馬觚、副曰卑奴母離

不彌國    官曰多模、副曰卑奴母離          

投馬國    官曰彌彌、副曰彌彌那利

邪馬壹國  官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。

 伊都国の副官は並列だが、邪馬壱国の副官は序列がある。

Wikipediaでは、〔『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州対馬国一支国奴国 および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えられる〕

では、何故4回も書く必要があるのか?理由不明   ココに将軍が居ると云う事?

副官が名前ではなく役職名なら 官も役職名ではないのか?しかし、これでは あまりにも役職名が多すぎる。似たような呼び名があるのでよく分からないが、卑狗をヒコ・彦と読むと 王子若しくは、王族ではないのか。【其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王。その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず】 (クコチ ヒコ) ここも王子でしょう。

卑狗(ヒコ)は良いとして、他はバラバラだから名前の可能性あり。彌彌 彌彌那利は、那利とは補佐or息子の意味か? 彌馬升 彌馬獲支は、同族の縁者か?

爾支・彌彌・彌彌那利・彌馬升・彌馬獲支と続くと爾が名字なのか官職なのか分からない。又、名字があったとも思えない。

伊都國  柄渠觚 は、朝鮮からの渡来人の末裔のため、通訳者兼務か?となれば、泄謨觚は、中国語の通訳兼任の可能性あり。泄謨觚は物部氏の先祖であろう。

 

⑦ の疑問

何故、各国の王の名前を書かないのに、官や副官の名前を書いているのか。

王は外交の仕事をしない。王は尊い存在なので一介の官僚の私では名刺交換すら させてもらえなかった。その代わり王子(ヒコ)や官に挨拶した。現代のサウジアラビア王国の外交や交易を担当する方は皇太子のムハマンド・ビン・サルマン皇太子です。王国の多くでは 外交は皇太子が受け持っています。

 

案内人に、倭の風趣や過去の帯方郡や魏への朝貢の話や女王の生活を混ぜて聞いた。

女王国連合の国からの東へ 1,000里 海を渡ると 又倭人の国があると云う。

又、南に4,000里あまり行くと は小人の国がある。又、その東南に1年かけて行くと裸国・黒歯国があると云う。

小人の国=種子島の説あり。 黒歯国=インドネシアの説あり

 

帰り途中に 倭の地について問いて集めるに、海中洲島の上に遠く離れて存在し、あるいは絶え、あるいは連なり、一周は五千余里ばかりか。=350~500km(対馬壱岐・北部九州)

帯方郡に帰り着き、報告書をまとめるにあたり、倭国へ行ったことのある人々や知倭老人にも聞いて その話を加えた。

 

2回目(7年後)に来た使者(張政)は247年に、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。

行程は、1回目と同じだが、伊都国に着いたら 狗奴国と邪馬壱国との戦いで、卑弥呼が避難のため 伊都国に滞在中と聞く。

卑弥呼に謁見し。皇帝からの詔を伝え、黄色い幟をさしだした。

なお、この時 報告書に卑弥呼に謁見した。よって伊都国に到ると記した。

 

卑弥呼は、老衰?により間もなく死去した。しばらく滞在し葬儀も見守り。帯方郡の特使張政は、新女王壹與を激励した。

卑弥呼の死因は老衰の可能性が強いですが、

近畿説で記載しています 鬼術と邪気払いの戦いの果てに生命力を使い果た。私の勝手な想像です。

 

⑧ の理由 

陳寿が、倭国を植物や動物を詳しく書いたのに、途中から端折って書かなかった わけ。

書く必要がなかった。植物や動物が、行程上は変わらなかったからでは?南九州や東北では植物が変わる。

 

陳寿が、司馬懿の功績を大きく見せるがため、距離が長くなるように 途中から誤読を誘った。例えば、 途中から帯方郡からの距離を書いた などとする説もありますが、難しい事はしないで、全距離12,000里を書かなければよいだけです。なので 私の説では取りません。

 

⑨ の疑問

【計其道里、當在會稽東治之東】と書いたのは、呉への牽制の為と思います。

この場所は種子島近くに当たり かなり南になっている。植物と地理が不一致。の為、虚実を書いた。

 

*奴国からの行程は、所説あり、近畿・四国・出雲などに向かった。という先人達がおられます。東を南と写し間違えたのだと。だったら まず北へ向かったと書くはずです。奴国から千余家しかない不彌國へ向かうのに【東行至不彌國百里】と書いた にも拘らず、宗像に着くのに30㎞も北上する事を何故書かないのか?船で行くにも300里ですよ。途中を省略するなら不彌國を除くでしょう。宗像が同盟国では無いとしても、【循海岸水行、乍北乍東、歷海峡、又乍東、至其南岸安芸】などと書くはずです。

南としっかり書いているのだから、南だと思います。近畿・四国・出雲に向かうのなら、まず北へそして東へ。それから出雲には海流に乗りさらに東へ。近畿・四国へ向かうには 流れが速い関門海峡を通り、近畿なら東へ。四国なら南へ。何故 最初に北へ向かう と書いていないのでしょうか? 又、帰りもこの海流の早い関門海峡を通らなければなりません。 日本地図を見てください。九州を西回りも同じことです。わざわざ、伊都国まで歩いて来て、又船に乗り松浦半島を回り、長崎を通り海岸線沿いに南九州へ向かう。九州の地理(地図)を知らないなら、長崎方面へは向かいません。

南に 水行二十日行けば、島をつたいながら沖縄・台湾方面。休まず漕ぎ続けるのは不可能です。島から島へと休み・宿泊・食料調達し・天気を占いながら漕ぐ です。20日間では、沖縄までも無理だと思います。水行は、1日1,000里と云いますが、必死こいて1,000里です。(流されたら死ぬから)1,000里漕いだら2~3日ぐらい休むでしょう?体が回復したら又次へ向かう。

ここが重要です。6月末の梅雨時に倭国へ来た。ことなのです。今まで皆さんが気づかなかった邪馬壱国謎のファクターです。

陸行は、10日で47㎞くらい しか進まない。大雨や長雨なら10日間でも1歩も進まない。

2017年7月5日から6日にかけての梅雨終わりの集中豪雨で九州北部に大きな災害が発生しました。道が寸断され・橋が流され 復興に数年かかっています。昔から梅雨時には、川が氾濫し、道が壊され・土砂崩れがあり 通れないので 水嵩が静まったら川を上ろうと考えたと 見るのが普通に思われます。現代の今でも梅雨時期の洪水はあります。昔なら治水工事・堤防などありませんから、毎年のように河川の氾濫はあったでしょう。誰が道路整備をしたのですか?農地以外は何年も整備されなかったはずです。                                            

 

道路愛護などの治水工事や道路修復などは、後の代に始まった事です。隣の国へ通じる道を慌てて修復する必要はないのです。貿易があるなら水路です。この時代の倭国には、中央集権や封建制度の概念はありません。租税の徴収は国邑内での話です。卑弥呼は、南の狗奴国との戦いに功績があり、おだて上げられ共立されただけです。共立した女王に税を納めるとは思われません。中央集権制なら租税の徴収の為、幹線道路は、統一国家が整備したでしょう。

国と国を結ぶ道路は 当時はあまり整備されていない。道は何処かには通じているし、整備されていないとは、現代人には分からないのです。隣の国へ行くのは船です。

又、偉い 帯方郡からの使者を そんなに歩かせません。

 

検証

不彌國までは、曲りなりにも距離は里で表現されているので、そこまでは行った。後は話を聞いただけ。

1回目は、途中まで行き伊都国へ戻った。2回目は、伊都国に留まった。

東や南と書いているから、伊都国からの放射説だの言う 先生が居られますが、邪馬壱国が近畿にあるのなら 末廬國から伊都国までは分かります。しかし奴国や不彌國に立ち寄る必要はない。検閲を受けた後 伊都国から真直ぐ船で行けばよい。そして、博多湾を北上し、関門海峡を通り 瀬戸内海を進み、大国の安芸や吉備を通ればよい。

壱岐から黒潮にのり出雲に向かえばよいと考える方もいるようだが、対馬海峡を渡るのに目標が見えない方向に進もうとする事は 理屈が通りません。流されたら海の端から落ちて行き死ぬと思っているから。

海流にのれば早いと考えるのは、現代の詳しい地図を見ることができ、海流に詳しい人だけ。当時の人たちが判るはずもない。現代人の貴方でも 理屈(きっと出雲か越に着くはず)は分かっていても 目標が見えない航海は 躊躇するはずです。数日早く着くより 安全を優先します。

 

邪馬壱国の場所は、

朝倉から浮羽の一部+八女の一部にかけてが、邪馬壱国の最有力の説であるが、7万戸(35万人)のはずがない。筑紫平野全部が邪馬壱国なら可能性あるのだが 理由;35万人の人口を食べさす農地が狭い(今より海岸は内陸にあった)、漁業(養殖等が無いので、魚や貝を食べつくす)、ましてや燃料が足り無い。(木材を切り倒し、植林も無いし、遠慮も無いので、禿山になってしまう=争いが起こる)これが寒い地方なら生きるか死ぬかの戦いになる。

実際には、投馬国は5万戸ではなく話半分以下の2万戸ぐらい。邪馬壱国は7万戸ではなく、2万戸以下かも。投馬国で5万戸と言ったので、女王の都はもっと広いと見栄で言う必要がある。

 

⑩の疑問

本当に7万戸の巨大国家 邪馬壱国があったのか。

無かった。

投馬国が朝倉・浮羽であっても せいぜい2万戸。邪馬壱国が山門なら5,000戸と言ったところか(今の瀬高市柳川市大牟田市は海中)

⑪の疑問

侍女1,000人も、嘘です。

侍女1,000人が本当は100人未満。これでも多いと思います。(江戸時代幕末の大奥でも最も多い時で1,000人程いたとされるが、それ以前は300人程だとされている。)

 

 

投馬国が、妻郡(筑後市+八女の一部)の説あり。(水行20日で、御笠川から宝満川有明海を通るロート)

山門は当時 海岸線が迫っていて農地が狭すぎるが、どうせ案内人の言葉だけ。

邪馬壱国に卑弥呼が住んでおらず、直轄領であるなら 狗奴(クヌ)国に近くても問題無い。

案外 女王国は、山門だったかもしれません。鉄の武器を持つ強い狗奴国に対し 小国の山門国の卑弥呼が善戦していた事で、他国から同盟国の女王として祭り上げられた。そして伊都国に移り住んだ。と見る事が自然と思います。

 

投馬国が、日向のツマではと言う人もいるが、【自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳】。女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができないと云いながら、いきなり宮崎県は突拍子過ぎだろう。投馬国が日向なら邪馬壱国は鹿児島になる。話が ぐちゃぐちゃになり、狗奴(クヌ)国は、屋久島 沖縄を含む島々の国となる。鹿児島にも沖縄の遺跡に鉄鏃・鉄鉾の武器の出土が少ない。

【種禾稻・紵麻、蠶桑緝績、出細紵・縑・緜。】鹿児島や沖縄は火山灰の影響で稲は育ちにくい。一度現地に行って欲しい。鬼界アカホヤ火山灰・桜島・霧島の影響もあり 真っ黒な畑ばかりです。ましてや桜島や霧島(新燃岳・シンモエ)の北東にあたる都城・宮崎地方の当時の生活は大変だったでしょう。

野菜も薄っすらと灰が被っている。生活環境が悪い 当時の人は喘息に悩まされていたでしょう。

地図を持たない当時の人が、西都市が南だとわかるはずが無い(真直ぐ南へ山を越えて行った事がない。直線では行けないので、北・東・南に行ったら着く所)。たまたま西都市の都萬神社があったので、学者が日向神話と 話をつなげたのが、真相ではないのでしょうか。

 奴国は貿易を盛んに行い、漢鏡出地・鉄鏃・甕棺・早期庄内1式甕【近畿から奴国に伝わり、その後奴国生産の甕が邪馬壱国同盟国中に広まっている】などの品を北九州・大分・四国まで輸出していた。その為、北部九州東海岸沿いの国家・宇佐・大分・臼杵・愛媛・高知・香川から 早期庄内1式甕土器が出土している。

宇佐→東北東の山口県光市900里(60㎞くらい) 

 

YouTubeで、帯方郡からの使者が通る場合 国邑は歓迎して大いに接待をすると良く云われますが、どう なんでしょう。

邑人は、外国から偉い使者が倭国へ来たとなれば 多く集まり見に来たでしょう。(明治初期に来日したイザベラ・バードの様に)
邑中を挙げての接待なら 土産なしでは済まないでしょう。舶来の珍しい品を渡すのが、常識ですよね。

寧ろ、小さな国邑を通らない方が楽でしょう。長旅の休憩に寄るのは分かりますがチョコチョコ寄るのは、接待疲れをするのでは?

そして、舶来の珍しい品を渡したのなら、遺跡に痕跡が残るのでは?

イザベラ・バードは、数本のヘアーピンのみだった)

私は、卑弥呼は伊都国に住んでいたと考えます。そして、それを隠した。

 

⑫ の疑問

水行20日+10日 陸行30日は何里なのか

帯方郡に帰り、報告書を太守弓遵に提出したら「ここから邪馬壱国まで何里か」聞かれ、副官と話し合い出した答えが、12,000里です。末盧国~伊都国を実際に歩測したし、日数も覚えています。

報告書に嘘は書けませんので、経した日数と距離で算出しました。要は、計算して出しただけです。

 

倭人伝には、帯方郡~邪馬壱国12,000里と書いてある。

帯方郡~末盧国 10,000里 水行 残り2,000里

末盧国~伊都国 500里  陸行

伊都国→奴国→不彌國  100里+100里=200里  水行

残りの1,300里

不彌國~投馬国 水行20日

投馬国~邪馬壱国 水行10日+陸行30日

皆さんには 分からないと思いますが、私(儁・ていしゅん)には分かります

私(梯儁)は、末盧国~伊都国 500里 を 陸行 が 何日かかったのか知っています。

伊都国~不彌國 200里 を 水行  も 何日かかったのか知っています。

残りの1,300里を計算すればよいのです。

 

陸行1日4.7㎞で 仮定し、渡海で疲れていたなどを考慮すると、

末盧国~伊都国 500里 を 陸行 15日掛かったとすれば  30日で1,000里

 残り300里÷30=10里

 水行10日=100里  水行20日=200里

です。12,000里から逆算しただけです けど。

例えば、末盧国~伊都国 500里を  陸行 20日くらい掛かったとすれば 30日で750里

伊都国~不彌國 200里を  水行  11日くらい掛かった事になり 30日余りで550里 

エクセルで作ってみてください。梅雨時の500里をあなたが思う日数で歩いたと仮定したら、残りは簡単に算出されます。みたいに ただの数字遊びです。

(重要機密事項です。いい加減な報告をしたとして打ち首になります)

 

伊都国~不彌國 の水行の日数も覚えています。誰にも文句を言われません。雨で進めなかった だけです。(実は不彌國で出航できず 近くのスナックへ行って 焼酎を飲みながら 姉ちゃんたちと カラオケを歌っていた とは決して報告しません。) 

 

「そんなはずはない。」と専門家の方が言われるかもしれませんが、偉い私(梯儁)が「間違いない」と言えば正解なのです。だって 行ったのは私と部下の副官だけ ですから。ハ ハ ハ

書いた合計の距離で、邪馬壱国の場所を探さないでください。

行っていないのだから、邪馬壱国の場所を探し当てようとすること自体 無理があるのです。

また、この計算方法は 寝ていて ふと 思いついただけですから。

 

尚、魏志倭人伝の間違いで、 帯方郡邪馬台国12,000 自帯方~邪馬台国 10,300里             

帯方郡からではなく自帯方の間違い」との説もありますが、帯方郡だろうと自帯方だろうと狗邪韓國までは 7,000里には変わりません。又、対馬から南に見える陸地は壱岐しかありません。壱岐を通るなら 次はどうしても 松浦半島経由の唐津です。ここまで10,000里。唐津から奴国まで500里? 距離が余ります。故に、10,300里 説は出鱈目だとわかります。                                                              

対馬から宗像(これが一大国)なら、対馬の大官が宗像の大官を兼務できません。又、対馬から宗像は見えませんし、帰りはどうしても海流を正面から受けたくないので松浦半島へ向かわなければなりません。だから これも却下。また、出発地点が600里遠い、600里陸行し、7,000里水行の話もあるが、私説では、梯儁も張政も邪馬壱国へ行っていない。としていますので、日数も案内人が遠いとの意味で 多めに云ったと思っています。故に ここでの600里の距離の違いは関係ないと判断します。                                                      

 

上記では、帯方郡からの放射説と連続説について採らないと書きました。では、伊都国からではどうでしょうか。水行20日と 水行10日陸行30日を放射説と連続説について

伊都国から水行20日で76㎞×20日=1,520㎞休日無して漕ぎ続けていますが、海岸に沿って水行していますので、休憩も簡単に取れます。1日76㎞は、死ぬ気で漕いでです。1日漕いで1日休みと考えれば、奄美大島当たりと思います。放射説では、水行10日で指宿あたり、戻るルートになり陸行ができません。まさか北へ歩いて高千穂まで行ったとは、理屈に合わないので、不採用とします。

 

 

卑弥呼を美化しすぎている

卑弥呼とは、体に入れ墨をしている野蛮民族の霊能力者シャーマンであって国を統治する能力はない。弟が国王を兼務。緩やかな共立であり、各国王が支配地を統治している。諍いを起こすとシャーマンに呪い殺されるのを恐れた。もしかすると、人肉を食べる人食い部族だったかもしれない。【原文内に生口を褒美にやる記載あり】。 生口=食肉用奴隷 奴婢=奴隷かも

生口と奴婢を使い分けている。卑弥呼の墓に100人の奴婢を狥葬とある。

⑬の疑問

何故、皇帝はこれほど喜んだのか?

238年女王(卑弥呼)の使者は男の生口4人と女の生口6人、それに班布(花鳥などの模様を種々の色で染めた綿布)2疋2丈(4反2丈)を献じた。

何故、草木染と思われる綿布(絹ではない)4反で喜んだのか。

 

「この田舎者目が、扇子で額をペシ!」  

殿中でござる・・・だと思うけどな。

 

それでも、

12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚(卑弥呼に)を含む莫大な下賜品を与えた。 

【景初3年1月1日に12月8日から病床についていた(『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)魏の皇帝である明帝(曹叡)が死去。斉王が次の皇帝となった】

と あるので、明帝(曹叡)は 既に病床にあったのでは。生口の臓器や生血を啜ること

で、延命しようと思ったから 大いに喜んだ可能性あり。

ウィキペディアWikipedia)』人食い人種で調べると                                      

18世紀に至っても、ポリネシア文化圏では食人文化が確認されている。コミュニケーション不可能な人間に対して尊厳を持つことは困難であることから、家畜と同様に、奴隷化と同時に食人行為を行っていたことが自然であったと考えられる。 

南方系民族の末裔である邪馬壱国の民も人食い文明が残っていた可能性は強い。又、中国の皇帝が言葉の通じない倭国からの生口を食した可能性は大いにあり得る。                                        

 

呉と対抗するため説

三国志時代の魏は 水軍が強い呉に赤壁の戦いで敗れている。呉の後方にある海洋国家 倭国を味方につけるため、「遠路はるばる 来てもろぅて 愛い奴じゃ」と 卑弥呼親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚(卑弥呼に)を含む莫大な下賜品を与えた。 賄賂で取り込んだ。この説が一番しっくりくるし、そうであって欲しい。

 

刀伊の入寇でも生口(食肉用奴隷)として対馬壱岐から多くの人々が攫われ食われた。

昔 テレビで、東南アジアの島に人食い人種がいた。と報道されていた。(邪馬壱国は同じ人種かも?)

中国では、人の内臓が薬と称される事もある。古来 中国では 塩漬けの人肉の話がよく出てくる。

生口は、子供や女性のことかもしれない。

中国の皇帝が、生口が ただの奴隷なら30人や10人の生口で喜ぶはずがない。これが食肉用なら「今夜の宴会に食べよう」と喜ぶのでは。

ヤマト朝廷は、このような風習を持つ野蛮人を排除した。

大陸から伝わった狥葬は、4世紀頃から埴輪に変わってき、縄文時代によくあった入れ墨をした埴輪の出土もなくなった。

 景行天皇は各地の王国、女王国の同盟国に、まつろわぬか、まつろうか、二者選択を迫って巡行したが、邪馬壱国は問答無用で滅ぼされた。(狗奴国によって既に滅ぼされていた 可能性あり)

 

近頃、NHKで、邪馬台国の特集をやっていました。その中で?と思う箇所が多々あります。最新の年代測定法では1年単位で分かると説明し234年に伐採された木と言った1分後に 230年~250年に造られた墓 あれれ?と思いませんか。近畿説の方への忖度でしょう。

卑弥呼が死んだのは247~248年です。卑弥呼の墓なら、死ぬ14年前から作り始めていますね。大和朝廷のように王位継承があれば早くから作っていたとも考えられますが、初めて王に共立した者の為に、そんなに早くから陵を作るでしょうか?もし、卑弥呼大和朝廷と繋がりがあれば、壹與も皇室と繋がっていると考えるのが普通です。壹與の陵も早くから造り始めたと思われますが、壹與は誰で、陵は何処でしょうか?

呉の鏡が全国で見つかっているとの説明で、呉から贈られたのではなく呉の年表が記載された鏡です。Wikipediaで調べればすぐに分かります。呉から贈られたものではありません。卑弥呼が「倭を平和な国にしなければ」と卑弥呼が言っています。NHKの番組ですから仕方ありませんが、当時は食うか食われるかでしょう。戦争に勝った方が平和です。負けたら 成人の男は殺される。女子供は、良くて奴婢 悪ければ生口です。当時の倭国は食料危機との話でした。その対策が中国から親魏倭王印綬を貰う事です?魏の後ろ盾があれば戦いに有利になるから朝貢したが正解と思います。映像に出てくる洛陽に行った使者や卑弥呼の前に集まった王たちに入れ墨がありません。生口を送った話はスルーしましたね。

倭人の顔に入れ墨があることは 承知のはずなのに 敢えて表現しない。入れ墨民族への忖度でしょうか。それとも、倭人が南方系民族である事を隠そうとしたのでしょうか。でも狗奴(クヌ)国の民は映像では 入れ墨がありました。そして、日本中から入れ墨が有る土偶の話までして。縄文時代土偶だと思いますが。

当時は天候異変が激しく 食糧危機があったとの話でした。天候に影響されやすいのは農業です。要するに稲です。纏向は政治都市ですので何処から7万戸分の食料を調達したのでしょうか。農業も防衛も無い街です。大和朝廷があっても何処かを侵略しなければ(海から遠い為)食べ物が無い。

NHK番組で「専門家の意見を取り入れて」とナレーターが話されていました。 近畿説に偏っているなと思いながら、

番組最終のテロップを見て「なるほど」と思いました。

ハッキリ言って、卑弥呼を美化しすぎている。老衰で死にそうな年寄りで、滅多に人に会わず、生口を中国に献上する。人身売買の親玉。鬼道・奇術で人を迷わし、呪う事を生業にした。鬼・ヤマンバです。

 

私は、九州説を取っていますが、決して女王の国 邪馬壱国が わが街で在って欲しいとは思っていません。        

マスコミに踊らされ、地域活性化のために役場の観光課やツーリスト業者・宿泊施設・観光地が 「わが町が卑弥呼の里だ」と声高らかに唱え歓喜する。本当は、野蛮人(きしょくわるーて えすか人たち)の里なのに。                   

 

卑弥呼の墓の謎

卑弥呼の居住地と墓の場所は違う

卑弥呼が伊都国に居住して いなかったら、居住地は、朝倉か大宰府と思われます。 

理由;筑紫平野の北側で狗奴(クヌ)国と遠い。いつでも北の同盟国・伊都国へ逃げられる。日田と言う説もあるが 筑後川をさかのぼってくる 若しくは、川沿いに攻め上がってくる狗奴から逃げるのに東の日田街道を通って湯布院方面もしくは 北(小石原方面)の山越えとなり、とても険しいし、大分県などの同盟国と言っても貿易相手くらいしか思われない。〔筑後川を下って逃げるとの意見もあるが、敵が攻めてくる真ん中を川下りするの?四面楚歌で一か八かしかない〕  “華麗さでは随一”と云われる「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」が日田のダンワラ古墳から発掘され日田が邪馬壱国では との説もあるが、上記の理由で それは無いと考えた。むしろ、万が一を考え(狗奴に なびかない ように&東へ逃げる時の協力要請)卑弥呼が日田を厚く待遇したとみる。そして、狗奴(クヌ)国が、小国・杖立経由で攻めてくる可能性は低いがゼロではない。

帯方郡の使者には宇佐なども同盟国と伝えたが、卑弥呼も行ったことも無いし、貿易をする利益だけの緩やかな同盟国家。

 

卑弥呼の滞在地として可能性が低い場所として

吉野ケ里と山門。当時は海岸線に近く、いきなり攻められる。

伊都国とするなら 何のために一大卒を置いて居るかわからない。(もし卑弥呼が居住していたら一大卒を排して弟が対応したらよい)卑弥呼へのプレゼントを少しずつ掠め取る(失礼、頂く)官僚や通過する国邑は減らした方がよい。(帯方郡からの使者が 国王などから馳走になったら 何か土産を渡す必要がある)そして大陸から近く異国からの攻撃(特に魏が倭国を植民地にしようと考え 攻めてきたら もしくは、大和朝廷が海岸から攻めてきたら)に備える必要がある。これは凄く危険で攻められない様に常に朝貢を欠かせないし、逃げられる時を稼ぐ場所(堅固な城を擁する大宰府より南で八女より北)でなければならない。

但し、卑弥呼の晩年(死亡した年)使者(張政)と謁見した場所は、避難先の伊都国と推察する。

又、卑弥呼の後ろ盾(影の支配者)が 一大卒で、卑弥呼は一大卒の操り人形の可能性はある。

 

卑弥呼の墓

副葬品の多さ(内行花文鏡・方格規矩鏡など40面の銅鏡)鏡の大きさが八咫あることや「八頭花崎八葉形也」の図象が施されていると云われる八咫鏡の同じ物ではとの説あり。侵攻した大和朝廷が奪った可能性あり。ただし、ここでは狥葬が見つかっていない

案外 奴婢なので 甕棺に入れずに そのまま埋めたのかも。

尚、円筒形器台が発掘されたことから、狥葬者用との説あり。

当時 甕棺は、高価な棺だったので豪族親類縁者のみ使用ができた。

糸島の平原古墳ではないとなると、卑弥呼から恩賞に配るよう渡されていた鏡が、卑弥呼が死んだ後 そのまま、一大卒が持っていたもので、狥葬が無いことから一大卒の墓 若しくは、伊都国の王の墓の可能性は残る。

 

66人分以上の甕棺墓、箱式石棺など出土しているし、筑紫平野が一望できる。=死してなお邪馬壱国を守ってほしかった。

 

  • 山門 権現塚古墳

高価な勾玉などが出土。死してまで卑弥呼の霊力で狗奴国を抑えて欲しい為 あえて南方に墓を造った。但し、狗奴国に近すぎるのでゆっくり造れないのでは? 山門国の豪族の娘の墓が有力視。

 

直径100歩の墓は、(1歩は二股)100歩=135㎝ではなく、1股100歩(半歩100の意味)で造った。=67m これでも大きいのだが。

検証する人(247年来ていた、帯方郡から塞曹掾史張政が来訪中)がいるので この話は本当のようだ。

 

⑭ の疑問

100歩の墓は、誰が造ったのか。

子がいないので 壹與しかいない。弟が次の王になろうとしたが、奴国などの王を抑えきれない。卑弥呼が死んだら から呪詛が怖くない。13歳の壹與ではまだ恐れさせるような呪詛力がない(未だ貫目が足りない・迫力がない)ので、帯方郡の官僚(張政)の権威を借りて、卑弥呼の葬儀を盛大に行う。

 ヤマト朝廷なら代々の天皇が増築していき 大きな陵墓が出来上がる。(箸墓古墳のような大規模な陵墓は、維持にも費用がかかるし、盗掘用心のため墓守も必要。天皇2代で増築)多くの問題があるため、権力の継承が必須。

案外 5,000戸くらいの国でも作れるような土を丸く盛った円墳で、誰の古墳か忘れられて その後 神社などが建てられたなら 調査発掘しようがない。

私考;少女の壹與は、ちょっと小股で半歩100(普通に測れば40m弱)の墓を造り 体裁を整えた。侍女奴婢100人ちかくを狥葬して大々的に葬儀を行った。 威厳を保とうとして 度々朝貢を行ない 費用が嵩んで国力を消耗していく。壹與の時代には、卑弥呼直轄領の邪馬壱国の(筑紫平野の)土地は、狗奴国の占領地となっていった。その為 壹與を共立する国家は 伊都国・奴国などの 北部九州がだけとなった。九州東側の同盟国は、神武東征の時 征服されていった。

大和朝廷は、狗奴国と共謀し 壹與の邪馬壱国を東と南からと攻めた。壮絶な戦闘の末 邪馬壱国滅亡。

当時 大和朝廷は、伽耶を統治し帯方郡とも朝貢していた。【広開土王碑には391年に倭が百済新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある】

壹與は、晋に266年朝貢を行なった。(壹與は三十路近くなり 貫禄も出てきたころ)

266年~291年の 25年の間に壹與が率いる邪馬壱国が無くなり大和朝廷に変わっている。

素直に考えるなら、卑弥呼が死に落ち目になった邪馬壱国が滅亡し、それに代わって大和朝廷が勢力を伸ばし、朝鮮半島に進出した。と考えられる。

 

大和朝廷誕生【神武東征】の謎

仮説1.

中国からの争いの苦手な移民者 姫氏(周王朝・紀元前770年~紀元前221年)の末裔が、春秋戦国時代の動乱を避け、倭国へ移住。 最初は糸島の山岳地域に住んで先住民族に色々な技術を教えていたが、技術を独占しようとした一部の 先住民族(後の伊都国)に追われ 朝倉の地に そして 浮羽の地へ 少しずつ南に追われて 住んでいた土地を日向と呼んだ。どんどん南へ追われていき菊池平野に住む。 またもや そこへ玉名・山鹿・菊池平野先住民族(後の狗奴国)に攻められ鉄の高温鍛冶設備を取られ捕虜になる。一部の生き延びた姫氏は 東へ逃げ 阿蘇山南の山深い高千穂に逃げのび、土着し、ひっそりと暮らした。

北部九州と菊鹿平野に高温製鉄炉跡があるのは この影響。

狗奴に 製鉄炉技術を持つ者はすべて捕らえられ、高千穂に逃れた人達は その技術を持つ者はいなかった。 日向とは、中国から追われ「日に向かった」渡航の民の事。  〔私が付けた かっこいい説〕

行かれたら分かりますが、高千穂は、凄い山奥で 川沿いの狭い土地です。あえて 他人との交流を避けて住んでいるような里です。ここで文化が開花したとは とても思えない山郷です。

山を かなりの距離 東に降りていき海岸沿いの日向・延岡市近くになると少し平野もあります。(日向から神武東征が始まったとは、とても思えない) もっと南(かなり遠い)の宮崎市近くの 西都地方では広く 高千穂よりは暮らし易くなります。但し、火山灰の影響が残る。

高千穂から西都市を繋げるのは 幾つのも山越えで難しい。 宮崎県全部を日向と言うが、距離的にかなり遠い。

西都市に西都原古墳群があるが、4世紀初頭から7世紀前半にかけての築造とされることから、少し後の時代か?高千穂で暮らす一部の日向の民が延岡・日向の海岸から西都市に定住し、文化圏を造った。若しくは、大和朝廷が宮崎県日向を建国の里と唱えたので、その地に朝廷出身者の移住も増えた。

記紀卑弥呼や邪馬壱国の話が出てこずに、妙に似せたがっている。箸墓古墳に葬られる第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命が、卑弥呼だと云われる方のように。「未来が予言できたとされている」とは、卑弥呼に似せようとしたのでは。

 

ヤマトとは後の朝廷が付けた名称で、中国への朝貢でやって来た倭人をYAMATOの民 と言われたので大和と当て字した。

仮説2.

大和朝廷高天原王朝)が天孫降臨の高千穂から出兵したとき、【日向高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした】と古事記に書いてあります。では何故、日向を出発し筑紫へ向かったのでしょう。何故、田舎の日向から日本統一を目指せたのでしょうか?

福岡発祥説をとれば、

福岡の伊都国日向峠に住んでいた移民→朝倉日向郷→浮羽日向郷から日田を通り宇佐に向かうルートもありますが、日田街道で湯布院を経て別府(宇佐)を征服し 船を調達。そのような山道ルートを取るとは思えません。素直に博  多湾で船を調達し 関門海峡をわたるでしょう。

何故、豊国の宇沙に拠り、筑紫国岡田宮で1年過ごて、安芸に向かったのか。まずは、筑紫を攻めようとして失敗したのです。北九州の黒崎に1年留まる(戦争をした)必要があるはずです。筑紫に攻め上がったが、武力で負けて一度南へ行き宇佐を攻める。それから近畿を目指しただけなのです。筑紫と宇佐が逆になっていますし、日向から出向も後からの辻褄合わせでしょう。8世紀の元明天皇の命により太安万侶が編集したとき 辻褄合わせに考案したのでしょう。

仮説3

⑮ 大和朝廷との関わり&宇佐神宮の謎

 

大和朝廷天孫降臨の高千穂から出兵したとき、【日向高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした】と古事記に書いてあります。

その降臨の記述には「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に天降りまさしめき。(中略)ここは韓国に向い、笠かさ沙さの御前(みさき)を真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」 伊都国の高祖山のそばにある山をクシフル山

筑紫の日向とハッキリ書いてあります。伊都国のクシフル山の民(日向の民)が、先住民(伊都国)に追われ、一部は南へ仮説2、一部は東へ逃れ飯塚平野へ。朝鮮半島からの漂着者が暮らす 遠賀川流域文化と合流しの田川の地へ。

高千穂=英彦山の麓  英彦山(日の巫女の山)から日が昇る東は宇佐です。

英彦山山頂から宇佐は見えたはずです。(確認していませんが)

宮崎日向から宇佐に向かうのは北です。東に向かうなら四国です。高千穂から海に出て延岡。ここからなら四国が見えるはずです。何故、四国へ向かわなかったのか?日向は、宮崎では ないからです。

宮崎日向から宇佐に向かったのではなく、伊都国の日向で、占いをし 東へ向かう。英彦山(彦・ヒコ・王子の山)から 朝日が昇る宇佐まで行った。のです。 

記紀は 辻褄を合わせて書いた。特に日本書紀は 野蛮民族の邪馬壱国から追われ 中国からの移民と共に東進したと 思われない様に たまたま高千穂がある宮崎日向と記載した。

田川→行橋→宇佐へ 山越えルートに 1隊(真直ぐ東へ向かうルート)

田川→直方→中間→聞(企救)→苅田→行橋ルートに本隊(迂回ルート) 平地が続き通り易いし、少しずつ領土を増やしていける+兵力を増やせる。又、苅田から行橋まで近いし、豊前→宇佐と陸行できます。

別動隊と合流。戦闘が苦手な渡来人を含む田川の民は、行程で農耕や灌漑を教えながら婚姻などの平和同盟を結びながら進む。邪馬壱国同盟下の宇佐を支配下に置く。又、今までの戦闘で犠牲になった者たちの霊を弔う。内陸育ちの田川の民は、造船技術を持たなかったので、目的の対岸に少しでも近づこうと 海岸沿いに北上し苅田港あたりで 教えて貰いながら 船を造り始めた。その間 黒崎に行って「農耕や灌漑を教えるから同盟を結びたい」と申し出るが、朝鮮に近い黒崎には既に多くの渡来人が住んでいて交渉を断念この間1年。船が完成し安芸へ向かう。 

 

大和朝廷は、多分 北部九州に居た部族と中国から渡って来た移民(秦氏・姫氏)連合が 邪馬壱国に追われて できた国家と思います。

そして、近畿地方では政略結婚で同盟を結んで勢力を伸ばした。と書いてあります。記紀に書いてあります。戦闘が苦手な大和朝廷は、結婚による同盟を選択したのかもしれません。

 

私は、大和朝廷糸島市発祥説を取ります。辻褄が合います。野蛮な邪馬壱国から追われて 近畿に来たと云えませんので、日向(日に向かい)から東征したと した方が 聞こえが良いのです。天皇の近くには、秦氏出身の者も多く「秦の国と間違えられる」事もあるはずです(随書倭人伝629年 秦の国)

宗像・遠賀・行橋などの海岸沿いは、貿易の利益が多いので 邪馬壱国同盟側と思われる。

天孫降臨で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、高天原に降臨された時に付き従った神々 とは、一緒に渡航した方々(大友氏・物部氏など)でしょう。

記紀に書かれているような国譲りは、「『出雲国造神賀詞』によれば、国譲りの話など、全く出てこない」ようですが、何らかの争いは当然あったでしょう。謀略・策略・賄賂・騙し討ち 有って当たり前です。業績優秀な企業で 今までの創設者一族の社長が いきなりMAされるのに 「はい分かりました」と言う方が 不思議です。社内幹部の裏切り・暗殺・脱税のタレコミ・社長へのパワハラ告発 等 力ずく も含めて何でも有の時代です。

天皇の性も 倭人名の鵜葺草葺(ウガヤフキ)や中国から渡来人の姫(ヒ)があるようです。長い旅の間に 姻戚が有ったり、離れたり、一つの血統ではない様に見受けられます。又、力を持った豪族たちが外戚により、王位継承時には、兄弟・親子・叔父・甥 熾烈な争いが有ったものと思われます。

 

天皇 移民族 説

これは結構面白い。メソポタミア起源の高度な青銅技術 楔形文字が甲骨文字、そして、漢字へ

紀元前1,800年~ シュメール人・アムル/アマ人・エラム人が、ハンムラビ国王による追放

⇒100年後(紀元前17世紀頃に建国)中国 商/殷を起こす

紀元前1,200年頃~アムル系ヤマァド人は、地中海の海洋民族に追われ 逃げる⇒(紀元前1,100~1,000)中国 周王朝や秦

シュメール人・アムル/アマ人・エラム人(商/殷)は 又ヤマァド人から追われ、倭国に渡る(紀元前1,000年~前900年頃) 倭は、Ur(ウル)が起源 

中国の周(Zhou)は、モーゼ生誕の地(Zarw)でアクエンアテン幼少期に過ごした都市名

周王朝 姫一族の建国伝説 周国始まりの王 古公亶父「争いを避けるため住み慣れた土地を離れ 周王朝をひらいた」そして、殷の王族と婚姻をしたと 記されています。〈まるで国譲り〉

農業の神【后稷 ゴウソク】伝説  とある王の娘(姜嫄・キョウゲン)が巨人の足跡を踏むと妊娠 馬小屋で出産し、何度も捨てられたが、不思議なことがおこり 奇跡的に育ち農業を教えるようになる。

姜嫄の姜とは遊牧民を表す。遊牧民の子が農業を教える?=東明伝説とそっくり 最初の方は后稷伝説と同じだが、後半は 王が国を取られる事を恐れ 東明を追う、川に差し掛かり持って来た弓で川を叩いたら、魚が列を作り渡してくれた。東明は逃れて夫余(プヨ)国を造る。まるで、モーゼ伝説。

姜嫄は 古代エジプト王家に 嫁いだ遊牧人族の女性を表し、その子が古代エジプトで農業を学んだ。

アクエンアテン=后稷では。

ちなみに夫余(プヨ)族は、百済の先祖→天皇家の先祖との伝説があります。

天皇家は「姫氏」を名乗っていた時期がある。天皇家は689年の飛鳥浄原令の発布以前まで「姫氏」を名乗っていた。正式には大王(おおきみ)の姓氏である。平安時代の講書(日本書紀天皇に講義した記録)に書かれている博士の質疑の一つに「わが国は姫氏と呼ばれているのは何ゆえか」とある。  姫氏とは、当然 中国古代 周王朝の国姓であり その末裔 と解釈すべきです。

又、神武の父の名は、「鵜葺草葺不合」(ウガヤフキアエズ)であり「鵜葺草葺(ウガヤフキ)」という姓を持っていた。これは、神武大王と大和朝廷の血筋が違う為と思われます。神武大王は倭人です。(熊襲出身説あり)

 

宇佐神宮卑弥呼の墓説もあります。

宇佐神宮は、崇峻天皇年間(588? - 592年?)に鷹居社(たかいしゃ)が建てられた。

2拝4拍手1拝。これをするのが出雲大社宇佐神宮のみで、滅ぼした大国に4(死)回拍手して、鎮魂する。亀山の大きさが100歩の135mに近いとか。道鏡「769年 宇佐八幡宮神託事件解決のため宇佐神宮に行った。など  

私は、田川朝廷(後のヤマト朝廷)が 宇佐を重視したと考えます。 もし、邪馬壱国の鎮魂のためなら 卑弥呼ではなく大和朝廷に殺された壹與の墓ではないでしょうか?卑弥呼の死因は老衰と思われます。少し時代が違います。大和朝廷に恨みを持つ 弥生時代最強のシャーマンは壹與です。大和朝廷の者からすると 昔 卑弥呼という凄いシャーマンが居たことは 聞いたことがあると思いますが、実際に戦ったのは鬼術を使う 壹與です。箸墓古墳倭迹迹日百襲姫命(未来が予言できたとされている)ではありません。近畿説を唱えるなら 卑弥呼が祀られている墓に 道鏡宇佐八幡宮神託事件解決のため向くのは箸墓古墳ではないでしょうか。天皇家の今後を決める大事な御神託を受ける宮は応神天皇神功皇后・比売大神である壹與を祭る宇佐神宮しかないと思います。

(比売大神は、天照大神との説あり。宗像三女神の繋がりあり。)

俄かに、九州王朝説が真実味を帯びてくる。

 

何故 同じYAMATOと呼ぶのか

中国から見たら倭人が住む国は全て倭(YAMATO)だから

倭人の使者が どこの国であろうと倭とした。東南の海を渡って来る野蛮な民族は、倭である。倭の国の奴国であっても いつ滅ぶか分からないので倭から朝貢に来られた使者。くらいしか思っていない。

後の大和朝廷が 他の国家(邪馬壱国・倭)と間違えないように漢字を変えただけ。 

天智天皇670年倭国改めて日本と号す。自ら言ふ。日出でる所に近し、似に名と為すと】

 

 金印〔漢委奴国王〕と書いてあるが、〔倭の奴の国王〕とは書いてない。奴国を委託する と書いてある。少し不思議  

旧唐書倭国条の冒頭等、それ以後のいくつかの書物に「倭国者古倭奴国也(今の倭国は昔の(漢書の)倭奴国のことだ)」等との記事がある。倭奴国とは倭の中の小国「奴国」ではなく、倭国そのものであると考えられ]倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王 と認められた者の住む国である 。

「倭」の字が減筆され「委」の字が使用されていることから「倭」は「委」と同じ発音であったと考えられる]。金印は「かん ゐど こく おう」又は「かん ゐな こく おう」と読むべきである。

 

鉄を求めたヤマト朝廷

近畿説などの検証でも少し書きましたが、大和朝廷の初期は婚姻などの同盟〔記紀で書かれている〕で領土を広げていった。吉備・紀伊・吉野・尾張・京都など

鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣や 第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

北部九州の紫川近郊で 鉄の鋳造技術を得た(鉄の技術を持った渡来人を捕虜にした)ので、それ以降は武力統一となる。 神武東征で黒崎に寄った時ではありません。

弥生中期に北部九州では鉄鏃などの鍛造鉄器がいち早く普及し、高度な鍛冶技術を獲得して大形鉄器の製作を行うことができるようになった。 しかし、鉄器素材の流通・鉄器加工の技術情報を北部九州に独占隠匿された。それ以外の地域では大型で高品質の鉄器素材はもとより、高度な加工技術そのものも獲得できなかった。

北部九州と云っても 渡来人が多い邪馬壱国同盟の中でもごく少数の国だけが独占していた。例えば伊都国、奴国。

宗像や遠賀・聞・宇佐も同盟国ではあったが、軍事同盟ではなく 貿易同盟だけだった。

村上恭通氏らの研究によると弥生中期以降 北部九州では明瞭な掘形をもつ防湿構造のある鍛治炉がみられ、この高温を 保持ができる炉を得て、高度な高温鍛冶による大型鉄器が現れてくる。 しかし、その他の地域では 大多数の鍛冶炉が、防湿構造がなく 床面に直接火床がある鍛冶炉しかみられず、しかも 一部 不完全ながらも薄い掘り込みのある鍛冶炉も時代と共に床面を直に火床とする鍛冶炉に退歩する。 また、この北部九州の防湿構造のある鍛治炉さえもが、弥生時代が進むにつれ、退歩してゆく=ヤマト朝廷の傘下に入ったから製鉄技術の統制管理が厳しくなった。 掘形をもつ防湿構造のある火床・鞴を有する本格的な鍛治炉が広く現れてくるのは古墳時代になってからである。

その原因の一つには 鋳造鉄斧など鉄器の伝来は弥生時代の前期にまでさかのぼれるにしても、日本に鉄器が供給されるルー トは一部の中国・朝鮮半島からにかぎられ、鉄を造る技術「製鉄技術」や「大型鉄器なども作れる高度な鉄器加工技術」は 大陸側 そして北部九州で厳しく管理隠匿されていた。

 また、弥生時代の後期 中国・朝鮮半島は戦乱に巻き込まれた時代であり、日本への貿易がままならぬ時代であった。倭国も戦乱に見舞われ、輸入品の鉄器・鉄器素材の流通は 難しくなっていた。

 

 

あとがき

YAMATOTOTOHIMOMOSOHIMENOMIKOTO=第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(未来が予言できたとされている)箸墓古墳に葬られる。

墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られた可能性あり、倭人伝の「石棺はあるが槨がない」に矛盾するし、大きすぎるし狥葬が無い(そのまま埋めたので 骨が解けてしまった可能性あり)。建造に時間が掛かるため権力の継承が必要。邪馬壱国が大和朝廷に引き継がれたなら可能性はあるが、鉄鏃・鉄鉾を武器にしている 入れ墨がある野蛮民族が どういう経路で政略結婚拡大路線に切り替え 武器を銅鉾などに退化させたのか?辻褄が合わない。

卑弥呼と未来が分かる巫女をごっちゃにした方が 面白いので近畿説の人にうけた。

箸墓古墳から出土した三角縁神獣鏡は 出土数が多すぎるので、国産品と思われる。

邪馬壱国 近畿説を唱える学者は 歓喜して喜んだだが、各地から330面以上発掘され 意気消沈。

理由;同笵鏡(同じ鋳型もしくは原型から作成された鏡)が多い。

畿内を中心に広い範囲から出土。主に古墳時代前期の古墳から出土。

早くから中国製という説が唱えられたが、中国に出土例がない。

 

箸墓古墳は典型的な前方後円墳=ヤマト朝廷のシンボル。卑弥呼の墓は、円墳若しくは方墳。

土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、邪馬台国卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)なので、邪馬壱国とヤマト朝廷は、別の国家である

卑弥呼の死後国が乱れ、壹與が新女王になるとあり その後が不明。近畿説では、どのように辻褄を合わせるのか?卑弥呼の死は248年とされ、

280年 第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣 時代が30年違う。

壹與の時代248年 女王になる(13歳) 

壹與は、晋に266年朝貢を行なった。(壹與は三十路近くなり 貫禄も出てきたころかな?)

謎の4世紀

その後 壹與の邪馬壱国と大和朝廷軍(後で 日本武尊率いる)の凄まじい戦闘が有ったと思われる。邪馬壱国は 帯方郡朝貢する暇も費用も無かったはず。又、大和朝廷帯方郡朝貢をするために戦闘地域を抜けて松浦半島から朝鮮に船を出す事も無い。はず。

大和朝廷が鉄の武器を持つようになり、壹與の邪馬壱国との戦いで、やがて邪馬壱国 滅亡。

邪馬壱国を大和朝廷が滅ぼした事を聞き、 安心して 伽耶(後の任那と改名)から都怒我阿羅等第 が、倭国へ来る。これが素直に時の流れが分かる。

第10代天皇 崇神天皇 の時 日本に来る

第11代天皇 垂仁天皇 の時 帰る

日本書紀では魏に朝貢した倭王神功皇后一人であると記載されている。ので、時代の流れを見ると、やはり違う国家

 

では何故、宮内庁は 箸墓古墳倭迹迹日百襲姫命の墓と称し続けるのでしょうか。

倭迹迹日百襲姫命卑弥呼では いけない訳。若しくは、絶対違うとの確信がありそうです。

当時では、最大の前方後古墳に何故、第7代孝霊天皇皇女の陵としたのでしょう。

第7代孝霊天皇の陵は、大きな山のようです。前方後円墳が始まったのが、この箸墓古墳のようです。

験しに造ったのかな?

 

ヒミコ=卑弥呼=日巫女=日子=彦=アマテラス の可能性は否定できない。

又、 トヨ=壹與=豊→トヨの国(豊国)の可能性あり。

にわかに、福永晋三氏の(邪馬壱国は、遠賀川流域(鷹羽→田川)説。大和朝廷は、北部九州間の争いにより 等)説も面白い。

 

当時に 中立国が存在できたのか?

考えられるのが、遠すぎて、よく分からない国邑で租税を運んで来られない。(出雲・越などの遠くの国の存在自体を 知らないのでは?)ヤマト朝廷のように「国を譲れ」の方が楽。強い脅しですが。

では、北九州エリアはどうだろうか?

海岸沿いに 先ずは貿易(大航海時代の西欧諸国のように)から 次に宗教(卑弥呼の呪詛の恐怖)を少しずつ広げていく。宗像・遠賀・企救・苅田など広げ易くい。(但し、飯塚・田川は内陸の為 交易していないのでは)又、長崎方面も同様。貿易は儲かるので、奴国は潤い ひいては邪馬壱国も潤う。奴国は美味しいところを持って行く邪馬壱国・伊都国の一大卒に反感を持つが 卑弥呼の呪詛が怖くて、死ぬまで待った。壹與の時代以降 奴国が弱まったのは、最初の方は戦闘で船を出せなかった。後で 貿易の利権をヤマト朝廷に奪われたから。

中立国の存続は、不可能(旨味のあるウクライナや台湾のように侵略の目標になる)で、旨味の無い国家(資源の無い北朝鮮など)だけ細々と生き延びられる。

鹿児島などの南部九州はというと、7,300年前の超巨大噴火で南部九州は しばらくの間(5千年間) 人が住めなかった。今でも鬼界アカホヤ火山灰の影響が残り、稲作に不向きな土地である。当時はまだ南方からの移民が細々と暮らしているだけかも。それ故 菊池・山鹿平野の狗奴国より南の記述が無い。

後の時代に 隼人族(熊襲の末裔と思われる)が、朝廷の守護職となる。

 

しつこい様ですが 

陸行1日の距離は、4.7㎞です

唐の「大唐六典」の28.05㎞(中国の唐の時代は道路整備も進んでいます。平地が長く1日の軍行は28㎞進むかもしれない。それに中国の長安は 湿地帯はなく 小麦やトウモロコシが主食の 黄色く乾燥している大地です。山道でなければ割と早く歩ける。但し 土誇りがすごい。時速4㎞で7時間歩く。それも1ヶ月間)

中国時代劇に出てくるような食料を積んだ荷車はありません。当然 携帯食・弁当もありません。

日本の土地は河川も多いし橋も無い。 戦国時代でも1日軍行20kmしかない(現代の陸軍も同じ)ことをお忘れのようです。「1日の歩く平均距離が4.7㎞では短すぎる」との話が多くでますが、では考えてください。朝起きて一日の行程を占い(雨なら動かない)出発。14時ぐらいになれば 宿泊場所探し・野営設営・火起こし・食料調達を始めます。弥生時代の道の状況や労働環境・栄養状態を考慮すると1日10㎞未満かと思われます。梅雨時ですので、3日に1日は雨で動きません。ましてや、日本の険しい山河や獣を警戒して進むことを考えたなら、もっとゆっくり進むのではないでしょうか。中国の広い大地ではないのです。それに 人は病気や怪我もする。そんなに真面目に急いで歩き続ける理由がないし、軍事行動ではないのです。のんびり しているのです。陸行だけに限らず水行でも 食料確保や火起こし野営地設営など歩く以外の仕事も多いのです。雨が降ったら火起こしが大変です。ましてや、荷物や駕籠(さすがに急な山道は歩いた)を担いでの旅です。 普通に考えたら難しいと思いませんか。蛭(ヒル)がいる畦道やムカデが這っている山道を裸足で歩く。そして一番厄介なのが 野薔薇などの棘のある植物です。中国の軍隊行進と一緒にしないで欲しい。1日28㎞の発想は、裸足で田舎道を歩いたことが無い都会人の発想です。偽りだと思うなら、田舎の年寄りに聞くか、自分で試したらいい。田舎に行って(マムシ注意の看板がある)蛇が出てきそうな畦道を 裸足で何メートル進めますか?試したくもないでしょう?

末盧国の記述で【草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない】とあります。外国からの使者や交易人が通る道なのに 整備されていないのです。これが、当時の倭国の現状です。

 

1里を、短里として無理やり こじつけ たと、言われる方も居られますが、帯方郡から狗邪韓國までは、水行ですので、実測(歩測)できません。7,000里と云われている。程度でしょう。狗邪韓國から對馬國1,000里。對馬國から一大國も1,000里。一大國から末廬國まで千余里も違うではないか。と指摘をされますが、海ですから「やく」なのです。海上でギリギリ見える距離が1,000里なのですし、松浦半島から海岸沿いに唐津まで航海した距離が約千余里なのです。普通に考えればよいのです。陸行で唐津から糸島までが,帯方郡から連れてきた測量士の歩測した実数です。500里移動。=実際53km 。53km㎞割る500里で1里106mですなお、歩測ですので、正確ではありませんし、唐津のどこの海岸に着いたのか?や 伊都国のどの場所が到着地かも分かりません ので目安としてください。)

 

【東南陸行五百里、到伊都國】 どうして、この末廬國~伊都国までの距離を長里(1里=434m・これを決めたのが秦の始皇帝)と考え、434m×500里=217kmと計算になるのでしょうか。困り果てて捻り出したのが、狗邪韓國から伊都国までの距離だとか?? 

だったら次の【東南至奴國百里】も、狗邪韓國から奴国までの距離になるのでは?

どちらが こじつけ でしょうか?

 

周王朝時代は短里75~90㎝((周髀算経・一寸千里法)

又、当時の測り方は2股を1歩とし135cmくらい×50歩=1里で計算するので、山道・ぬかるんだ道は、1里が短くなります。

里から日数になっているし、伊都国から奴国までの里の記載の仕方がおかしい。 距離は出鱈目だと言う方もおられます。しかし 末盧国から伊都国までの歩いた距離は約500里なのです。ぬかるんだ細い道を 荷物を背負いながら歩測したことをお忘れなく。

テレビで世界の秘境を旅する番組がありますが、レポーターの方達は 靴底が厚い登山靴(軍隊のような靴)を履いていますよ。

アマゾン・西表島インドネシアのジャングル若しくは、富士の樹海を裸足で歩くのを想像してください。ぞっとしますよ。

近畿説を取る方で、水行のスピードを静水の時 平均時速5.2㎞と言う人もおられますが、漁師が漕ぐような スピードで漕げるわけではありません。又、満潮引潮などで潮の流れが変わってきます。現地で集めた人にその国の中を漕がせ、次の国へ行ったら又人を集める作業から始めるのです。同じ人を使うと「帰れなくなる」と嫌がり漕ぎません。賃金を払うわけではないので諸役(苦役)なのですし、海が時化ている時もあるし 日が暮れたら魚介類は取れない(火起こしが出来ない日は 当然飯なし)し、陸地に上がって野営地を探し 雨をしのがなければいけません。弁当やコンビニはありません。

瀬戸内海を10日間で行けるはずはありません。奴婢を使ったとしたら なお漕ぎません。それとも ガレー船のように鞭打ちながら漕がせるのですか?陸に近づいたら飛び込んで逃げますよ。想像してください。もし、強行して同じ人に10日間 毎日7時間 船を漕がせて 陸に上がっても荷を担がせるのですか?あなたは、帰りには煮て食われますよ。荷物を運んでいるのは現地の野蛮人なのですよ。

そして、北部九州・安芸・吉備・近畿を支配地に持つ邪馬壱国(大和朝廷)と互角に戦争している狗奴国は何処の国ですか?鉄の武器を持って戦う狗奴国は、熊本の菊鹿平野の熊襲とわかっているはずです。紀伊半島の部族の可能性がゼロではない。程度でしょう。

 

倭国大乱を北部九州と吉備国が争い それを女王卑弥呼が共立されて乱が収まった。と云われる先生も居られますが、鉄器の武器と銅の武器では、一方的な結果が出るのは 分かるはずです。北部九州が、安芸・吉備を征服していたはずです。吉備には朝鮮からの輸入鉄器(鉄鏃)が少数あっただけです。倭国大乱とは、北部九州内の国々が権力争い(貿易の利権争い)をしていたのです。

近畿説の学者先生は、出土品の多さ・副葬品の豪華さばかり唱えて、武力には目を向けず、纒向に卑弥呼が居た。と云われますが、新井白石が唱えた初期の近畿説から進歩がほとんど見当たりません。織田信長が大量の鉄砲で天下を収めた。 西郷隆盛率いる薩摩と官軍との戦い 西南の役と同様に、何処の武力が強いのかを見極めるべきです。

近畿地方前方後円墳は、大和朝廷所縁の陵墓ですし、吉備などの遺跡・古墳(6世紀製造)も大和朝廷の陵墓を真似ただけです。大和朝廷が勢力を伸ばした時期に その墓を真似て前方後円墳が全国に広がってきます。

 

何度でも言いますが、近畿説の大きな矛盾点は大和民族が邪馬壱国のような入れ墨族ではない事です。記紀天皇が入れ墨をしている記述は一度もありません。又、記紀以外の古文書にもありません。日本書紀に登場される大王が顔に入れ墨をしていたとは、思われません。又、そのような絵を見たことがありません。日本武尊景行天皇を描いた画に入れ墨を書いたら威厳がなくなります。

 

陳寿は何故、倭国の植物や動物まで詳しく書いたのか?

陳寿は、倭国旅行日記を書いたわけではない。まして、ミシュランガイドや観光ガイドは書かない。

倭国への侵攻をする場合の食料・荷駄・軍馬など調達のため細かく記載した。と見るのが、必然でしょう。

近畿に女王国があるなら 普通なら関門海峡安芸国吉備国・上陸地の浪花などの軍事重要地点は絶対書くはず。対馬壱岐の動植物まで書いておいて 不彌國からは 端折って書かない理由がない。

中国の文献には、途中から端折って書かない物もある。が、偵察行動で途中から書かない事は 書く必要がないか、妨害に有って書けない くらいしか想像できません。途中から端折る文献は 報告に値しない事柄のようです。

気候や動植物の変化が無かった。=南九州や東北地方に行かなかった。

 

⑯ の疑問

奴国が2度出てきますが、同じに聞こえたのでは?

ヌ・ドゥ・ナとも読めますが、 発音の違いが何度聞いても分からなかったので、同じ漢字を当てたと考えるのが妥当かと思います。同盟国をぐるっと一周回って奴国に戻った。と解釈される方も居られますが、何故 わざわざ書いたのですか。これこそ最後の奴国の記載を端折ってもよいのでは?

〇奴国と書いたのでは?1字抜け落ちたかもしれませんね。

 

邪馬壱国場所の結論

邪馬壱国の場所は分からないが 答えです

邪馬壱国は存在しますが、卑弥呼の住んでいる女王国ではありません。直轄領としての邪馬壱国はあります。

場所が分からないように、一大卒がしたのです

 

壹與が死んだのは、宇佐かもしれません。(伊都国から船で逃れ、宗像→関門海峡→宇佐で死す)

壹與(トヨ)→豊国(トヨの国)説 ありかも。

大和朝廷が 壹與の怨霊を恐れ 宇佐神宮を建立し、霊を祓った。但し、建立の時期がかなり経っています。 昔の方は怨霊を物凄く恐れていますので、天災や疫病が流行って 壹與を祀らなかった為と考えても不思議ではない。菅原道真の怨霊を えすがったように

 

では、女王の国に属している国は何処でしょう。

 

 

不弥国・pume=香椎・粕屋郡・宇美  投馬国・toma=御笠・遠賀流域から豊前国(あずま)方向違 

邪馬台国・jamatə=朝倉+山門(飛び地 発祥の地かも)     

斯馬国・シマsema=志摩  己百支国・イキハkɨpake=伊万里 ? 

伊邪国・イザ・イヤija=諫早   都支国・オキtɔke=筑紫

彌奴国・ミイmenɔ=三井郡   好古都国・ホトhokɔtɔ=筑紫野岡田  

不呼国・フコpuhɔ=浮羽? 姐奴国・タケノ・サナsanɔ=筑後国竹野郡  

對蘇国・トスtusɔ=鳥栖 

蘇奴国・ソノギsɔnɔ=長崎県彼杵郡    呼邑国・ハヤhɔipV=小城 

華奴蘇奴国・カンザキwanɔsɔnɔ=神埼 

鬼国・ヒkui=肥前国基肄キイ郡(基山)  爲吾国・イゴwaiŋgɔ=宇佐 

鬼奴国・キドウkuinɔ=大分・豊前国御木郡  邪馬国・ヤメ・ツマjama=筑後市妻郡・八女

躬臣国イジン・クスkuŋginV=玖珠?八女と夜須の間  

巴利国・ヤスpari=筑前国上座郡把伎(はぎ)・夜須・安    

支惟国・キイkewi=三養基   烏奴国・オノ・ウナɔnɔ=大野城   奴国・ナnɔ=那珂川  

 

奴が付く国名が多い。倭人語のせいか?

 

上記の地名は、かなりいい加減です。北部九州の宗像・遠賀・聞(企救)・築城など入っていた方が現実味ありますが、いきなり支惟国=企救は、孤立しすぎで無謀でしょう。又、長崎の地名も挙げておられますが、有明海のような内海では、狗奴国からよく見えますし いつでも行けますし 近すぎ むしろ狗奴国連合派でしょう。但し、蘇奴国・ソノギsɔnɔ=長崎県彼杵郡は、東シナ海沿いですので ありです。

注10日田街道・朝倉街道などの通過する道沿いで、日田や豊後大野市速見郡大分郡玖珠郡 も有るかもしれない。

注10福岡・博多から日田を結ぶ道の途中には二日市―宰府(さいふ・現太宰府市)―甘木―志波(シワ・現杷木町)―久喜宮(くぐみや・現同上)の宿駅があった(明和元年「御国中宿駅人馬賃銭増一件」山田家文書)。慶長筑前国絵図・元禄筑前国絵図にもほぼ同じ道が描かれる。別名として宰府海道・福岡街道・筑前街道などがある。この道の前身は海外への窓口博多と北部九州の内陸部を結ぶ道として古代から盛んに利用された。                                

かなり間違っていると思いますが、一応記載しておきます。

左回りに云っているとの話もあるし、かなり違うのでは?

 

もし、九州北部の遠賀・鞍手・飯塚・田川・鎌 が非同盟国なら 大和朝廷田川発祥説の現実味が帯びてくる。奴国は、海上貿易港。田川は、農耕民族。交易が無かった可能性もあり、朝鮮半島から遠賀川を通って難民の流入あっても おかしくない。邪馬壱国=南方入れ墨文化圏。非同盟国=中国難民+弥生人混血文化圏。

遠賀川流域と朝鮮半島との直接の交易は考えられない。理由;対馬遠賀川最北端では、120㎞以上離れていて見えない。交易するなら松浦半島まで回らないと行けないので、邪馬壱国に妨害される。(拿捕される)。若しくは、伊都国の一大卒に通行税(関税)をガッツリ取られる。近畿のヤマト朝廷も同じ。

海で先の見えない方角へは向かわない。(15世紀半ばの大航海時代まで待つ必要あり)

白村江の戦の時、朝廷軍の航路でも、松浦半島→壱岐対馬済州島 ルートです。

敗戦で慌てて退却したのに、出雲には向かっていません。

 

魏志倭人伝の怪しい所は、里ではなく日数になってから、戸数が大きくなったこと。を 見ると誰かが邪馬壱国 ひいては倭国を 大きな国家と見せたかった事が伺えます。

陳寿は 使者が途中までしか行っていないことに気付きました。そして 戸数が 曖昧な数と 分かっていながら そのまま書いたのか、若しくは、戸数に手を加えて多くしたか。です。

この方が簡単です。 多い戸数=多い人口=強大な武力 

 

私は大和朝廷が邪馬壱国を滅ぼしてくれて感謝しています。でなければ今の天皇は 顔や体に入れ墨し食人文化を持つ部族の末裔と 思われるからです。

 

魏志倭人伝を読み解く重要ポイント

陳寿の狙い

実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。

呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。

邪馬壱国の場所

5千家の小国家 不彌國(フウビ・フヤ)に寄った。

季節は、6月末の梅雨時

 

では最後に、嘘をついたのは、一大卒の指示を受けた 案内人でした。

私は 案内人が人口を多めに言った嘘と思います。陳寿は、人口のところを少し多めに書いたかも? 

答えは単純でした。遠くまで行きたくない案内人(やっつけ仕事の下級役人)と一大卒、陳寿の思惑が重なっただけ。

殆どの研究者の方が、日数の距離、多くの人口を抱える都市の2つで迷路に迷い込んでいます。

距離の嘘に気がつけば、多くの説の根底が崩壊します。多くの人口を抱える国家の存在が 嘘とわかれば、邪馬壱国が小国家で、卑弥呼直轄領では?の可能性が浮かんできます。

本当に7万戸の巨大国家 邪馬壱国はあったのか。

邪馬壱国は7万戸(35万人)ですよ。食料もですが、燃料の薪は どうしたのでしょうか?人口が少ないうちなら裏山に行けば 薪は手に入ります。人口が多くなれば、通貨が無ければ薪の取引ができません。後の時代の人々は、通貨があったから、薪や炭・藁を買えたのです。【國國有市】とありますが、市にどれだけの薪が並んでいたのでしょうか。1戸が1日3㎏の薪を使うとして(寒い地方説なら暖房用も必要なので、倍以上必要) 毎日210トン必要です。物々交換で多くの燃料は 手に入りません。近くの山は全て禿山になっています。奥さんが晩御飯の準備に薪を集めに行って3日も帰ってこない事になります。数年で遠くの山も禿山です。多くの文明が燃料不足で砂漠化し衰退しています。コメを通貨代わりにしたと思われるなら かなり無理があります。昔のコメの収穫高は 思うほど多くはありません。

私も中学生の時親が入院の為、自分一人で1反の田んぼに田植えをしたことがあります。何も分からず肥溜めから人糞を掬い柄杓で巻いた経験がありますが、知人のおじさんから 「それだけでは肥料が足りないので、配合飼料を少し撒きなさい」と教えて頂いた事を覚えています。言おうとすることは、当時の収穫量は物凄く少なかった。と想像できるからです。昔の水稲は、風や害虫に弱かった。TVの番組でアイドルが配合飼料や害虫駆除薬品を使わず、水稲を立派に育てる番組があります。TVでは放送されなかった牛糞などの追肥があったはずです。害虫駆除の為に番組スタッフが、細かに天然駆除液を散布したことは想像できます。

理詰めで考えれば 答えは簡単です。7万戸の国家は無かった。

【對馬國、有千餘戸。 一大國、有三千許家】これもおかしくないですか?対馬より壱岐の人口が3倍もある。(現在の人口が 対馬市28,452人 壱岐市24,622人)。 刀伊の入寇(1019年)で壱岐島民148名が虐殺され、女性239人が拉致された。生存者はわずか35名。数が違いすぎませんか?人口は全て倭人から聞いた数なのです。卑弥呼の侍女1,000人も同じです。倭人は算数が苦手だった。人口に関しては、嘘を吐いたか よく分からないけど「このくらいかな」くらいな 話です。

邪馬壱国の論争で色々な説がありますが、下っ端役人の出まかせに 気づいた先生は何人おられたのでしょうか。いや、もっと深い解釈があり、陳寿のようにあえて 気付かぬ振りをされているのでしょうか。

 

倭国は、案外 避難民が集う土地かもしれません。北・西・南方より 争いを避けて逃げてきた人々が住む土地。故に 規律や秩序を守り、災害に耐え、支え合う民族ではないでしょうか。悪く言えば、弱者が支え合う国。故に団結力が強い。

 

結論

(ア)魏志倭人伝の辻褄が合わないところをスルーせずに、文章を論理的に考え、理屈に合わない箇所を調べると、嘘若しくは、虚実があると分かる。食料・燃料の薪を考慮すれば、人口が多すぎる。里が分かるとしながら日数で記載。

(イ)現代の道路や船旅の概念を捨てるべき。隣の国邑との国境の道は誰も整備しない。故に、船の利用をする。山中には、猛獣や盗賊がいる。

(ウ)季節は、6月末の梅雨時

(エ)陸行は、道が整備されていないので、10日で47㎞くらいしか進めない。又、狼や山犬が多く野宿は危険。土砂崩れ箇所がある。裸足で滑るなどの理由で、帯方郡の使者を伴った長距離歩行はしない。

誰も 裸足で橋も無い、蛇が居そうな畦道を自給自足の旅をしたくない。=簡単に山に入らない。

(オ)水行は、大変疲れるので、休憩・食事時間をたっぷりとる必要がある。又、渡海は目的地が見えないとしない。

(カ)陳寿の狙いは、実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。又、呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。

(キ)邪馬壱国の場所を特定するカギは、「何故、5千家の小国家 不彌國 に寄る必要があったのか。」 御笠川を上る為に不彌國に寄って葦船に乗り換えた とするしか説明のしようがない。

 

上記の全てを考慮すれば、

邪馬壱国(女王国)の場所は、北部九州だが、場所の特定は出来ない。

南方系民族で、生口文化があり 入れ墨民族のシャーマンである卑弥呼と 渡来人と弥生人の混血民族の大和朝廷は、継続性は無く 別の国家である。

 

船を漕いでくれた漁師の方々や現地の方々、荷物を運んでくれた奴婢の人達、私を食べなかった現地の方々 ありがとうございました。倭国で味わった珍味・酒 振舞って頂いた各国の王様 大変おいしゅうございました。ご案内くださった担当者様お疲れ様でした。(一緒にカラオケ歌ったおねえちゃん 又、いつか。)

 

 

案内人は、伊都国へ帰って一大卒から「大儀であった。褒美を取らす」など 一切無かったと思いますよ。

帯方郡からの使者の接客役を 無事に終わらせることが 重要だったとおもいます。知らんけど。

おわり

 

 

 

邪馬台国 一大卒の罠

一大卒の罠 別紙

2024年3月24日

 

 暇な年寄りTomyK

 

近畿説の矛盾

  • 九州北部上陸から細かく国名距離戸数を記載していながら瀬戸内海では記紀に出ているような大都市安芸(広島)吉備(岡山)の記載がない。目的がただの観光や金印授受等の形式儀礼ではなく 国力をさぐる偵察なら 人口が多く軍事力が強い国を書かないはずがない。国力を図るのに途中の瀬戸内海(挟み撃ちされる)を略して書か無いとは、斬首刑くらいの罪。行っていないので書けない。もし、近畿に邪馬壱国があるなら重要項目が抜けすぎている。

北部九州に比べ 近畿までの航路に城が無さすぎる。無防備過ぎる。

帯方郡からの使者を接待する伊都国から近畿までは遠すぎる。

奈良と一大卒がいる伊都国とのやり取りの記録が少ない。むしろ疎遠だった。

近畿説をとるなら、検閲場所(伊都国)の位置が1か所だけでは理屈に合わない。せめてもう1ヶ所山口県より東に作り 判断ができる者(例えば皇太子) を置かなければ緊急事態に対処できない。どんなに急いでも往復に2週間以上掛かってしまう。襲来などの緊急事態でも全て一大卒任せとなる。逆に言うと 邪馬壱国は一大卒次第となる。

伊都国から途中補給と休憩をして近畿まで行くとしたら、瀬戸内海航路なら潮が速い危険な関門海峡を書かない方が不思議。

奴国と不彌國(フウビ・フヤ)に寄る必要はない。奴国は、貿易港なので寄って土産や保存食を買うことは考えられるが、わざわざ奴国より東100里の小国 不彌國に寄る必要はない。

九州説では、不彌國は重要となる。次の投馬国に行くためには、不彌國で木船より軽い萱船を造り 乗り換えて、御笠川を上る必要がある。大宰府で600M引きずり宝満川を下る。

帯方郡の使者梯儁は、靴が汚れるから歩かない。(私は、投馬国は、大宰府だと考えています。不彌國から投馬国 間に水行二十日は 近すぎると思われますが、実距離10㎞でも 梅雨時の川を上るのに20日掛かると倭人の案内人が言った(行きたくなかったから)のです。土砂崩れの為、道が無いので水行のみの行程となります。)

当時の国を結ぶ幹線道路の整備はされていない【草木茂盛、行不見前人】 倭国内の隣国との交易は、基本は船を使う。内陸の場合だけ日田街道のように手入れされている(踏み固められている)

それに、梅雨時の為 土砂崩れがあっても そのままの状態。

当時は国邑の結びつきが弱い。統一国家が無く、卑弥呼を共立しただけで、国と国を結ぶ道を 整備しない。誰も困らないから修復しない。国同士の交易は馬がおらず、人手よりも多くを運べる船を利用する。

②水行20日や10日陸行1ヶ月 東を南と書き間違えた説;ここまで書いて2回(日本海に向かう説では1回)も続けて間違えるとは 思えない。【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できる】と書きながら、日数で書いた。この点を考えると、魏志倭人伝の一貫性・信憑性が崩れており、本当に行ったのかを疑うべき。行っていないので、言われたとおりに書いた。が素直に感じる。

倭国大乱跡が無いし、鉄器の出土が少ない。=ヤマト朝廷は戦をしたがらない。寧ろ、婚姻などの同盟で領土を広げていった。その為、纏向には、楼觀・城柵 などの防御跡が無い

10代崇神天皇(実在するなら3世紀後半から4世紀前半)は、吉備国の鉄製品と踏鞴(フイコ)製鉄の技術を獲得するために、吉備津彦を西海将軍として吉備国を攻めた。だから、この時までは、大和朝廷には、鉄の武器は無かった。それに やっと同盟国となった吉備国にも高温を出せる製鉄技術はなかった。

④近畿の古墳には 埴輪はあるが、狥葬がない。(第11代垂仁天皇の弟である倭日子(4世紀前半から中期に亡くなる)の陵墓は古事記によると、「始めて陵に人垣(狥葬)をたてた」 とある)

⑤九州北部から瀬戸内海・近畿地方を 支配している大国の邪馬壱国なのに、狗奴(クヌ)国の1国に攻められ それをわざわざ魏に報告して激励を貰う必要はない。

畿内説を唱える説では、狗奴(クヌ)国を紀伊半島内と唱える方も居られますが、卑弥呼が居る邪馬壱国は鉄の武器を持っているのに、銅の武器しか持たない紀伊半島の田舎部族など怖くない。筈なのに、卑弥呼の晩年は、狗奴国に苦戦をしている。当時 菊池・山鹿平野の部族が 狗奴国なら既に鉄の武器が造られていた証拠(高温製鉄炉跡出土)がある。鉄鏃発掘数から歴然。

卑弥呼の墓が、箸墓古墳などの纒向にあるとすれば、卑弥呼の弟や壹與の墓は何処になるのか。壹與の墓が有るなら卑弥呼と同じ規模のはず。

⑦陸行1ヶ月で下関~纏向まで いけるだろうか?橋も無い・崖崩れはしている。むしろ水行を続けるだろう。 大阪から船で川を上り 後を100里(10km)陸行が速い。

⑧近畿説の根拠は、大和朝廷がここにある、日本全国の陶器がここに集まる、農耕集落ではなく政治都市、副葬品が多い、当時とするなら最大の古墳がある、くらいでしょ。このような根拠で九州北部国家と近畿国家の両立が無いという方が、無理があります。朝鮮半島に渡る為に 松浦半島を通る必要がある。という事は、九州北部の海岸線は邪馬壱国の支配下でなければ理屈に合わない。

壹與は、晋に266年朝貢を行なった事 

280年 第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣 

第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

など 九州北部で戦ったことの辻褄が合わない。

記紀卑弥呼や女王国の記載が無いのはおかしい。当時の最大の箸墓古墳に祀られているのが卑弥呼しか考えられない とNHKで言うわりに 宮内庁は認めていない。宮内庁が認めていないという事は、天皇陛下も認めていないという事。

当時最大の古墳・豪華な副葬品を根拠に 主張を通すなら箸墓古墳は ツクヨミスサノオなどの神の墓の可能性がある。又、マグダラのマリアの墓やイエスの棺が納められている との主張も否定できない。壹與の墓の可能性も0ではない。だって、宮内庁が認めないのだから 発掘は出来ないから 否定もできないはず。

大和朝廷は、戦をしたがらないと書きましたが、周王朝 姫一族の建国伝説 周国始まりの王 古公亶父「争いを避けるため住み慣れた土地を離れ 周王朝をひらいた」そして、殷の王族と婚姻をしたと 記されています。〈まるで国譲り〉

大和朝廷には、姫一族の争いを避けるDNAが入っていると思います。

 

纏向遺跡より2千個以上の桃の種が出土して卑弥呼が祭祀に使った物では。と話になっていますが、当時の占い等には、割と桃の種は使っていたようですね。

桃は古代中国の神仙思想で邪気を払い、不老長寿を招くとされる。桃の種は弥生時代の遺跡でも広く出土するが、1カ所でこれほど大量に見つかった例はないという。古代祭祀の実像や纒向遺跡の中心とみられる大型建物の役割を探る重要な手掛かりになりそうだ。                                           

纏向に 今までにないような巨大な箸墓古墳があり、大和朝廷の神殿なら大量の桃の種が有ってもおかしくない。

【其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆】

卑弥呼は鬼術使いなので、呪い殺すなどの おどろおどろしい イメージがあります。

桃の種は神事の邪気払いの様で、卑弥呼や壹與の呪いに対抗したのでは と思います。

〔邪気使い=鬼〕卑弥呼・壹與 対 〔神の使い〕倭迹迹日百襲姫命 の戦い。これ、有りそうです。

まるで、鬼 対 陰陽師の戦いのようです。 映画化を期待します。      

 茶化してすみません。

 

故に、奈良地域のヤマト朝廷と九州北部の邪馬壱国は別の国家と思われる。

近畿説は、矛盾が多すぎるし、邪馬壱国が奈良にあって欲しいと思い過ぎ、理想の空論 卓上の理論。

ま 私も卓上ではあるが。

 

出雲上陸説&越前説の矛盾

伊都国に一大卒を置くなら出雲を管理できない。もし、出雲にも同等の管理者を置いていたら書くはず。卑弥呼の信頼できる者は、弟しかいない。(壹與は幼すぎる)

又、使者が帯方郡へ帰るのに わざわざ山陰を超えて陸行し日本海岸を海流に逆らい松浦半島まで行くことになる。瀬戸内海ルートで帰ると高価な船を置いていくことになる。

近畿に行くのに出雲を経由する必然性が無い。瀬戸内海を行き来した方が楽。銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を 手運びするのに 何故、山越えをする必要があるのか。

水行が速いか遅いかではなく、どちらが安全なのかが重要。

遭難した人々が住む地域が出雲・越(前・中・後)である。どうしても出雲に上陸する方が安易と考えるなら、元寇も出雲に攻め込んでいるはず。帰るにはどうしても九州に向かう必要がある。

白村江の戦も、渡海は九州から。秀吉の朝鮮出兵も九州から。

負け戦で 命からがら出雲や越に帰り着いたと 聞いたことがない。

一番の問題点は、山越え。 人が歩いた道とわかる程度で 大きな石がゴロゴロし、木の根が張り出し歩くのが大変な上に毒蛇や猛獣もいる。こんな険しい山道を進もうと考える方が摩訶不思議。軍隊のような大人数(人数が多いと食料調達が難しい)でなければ、野宿したらオオカミに襲われる危険が大きい。

裸足の民が山越えルートを選んだとは思えない。

鉄製の武器の出土が少ない。帯方郡からの使者が出雲に上陸したと したら、倭国は銅武器(少しは舶来の鉄武器はある)ばかりで鉄の武器が少なく銅鉾などを使っている後進国 と報告するはず。

鉄鏃・鉄鉾などの記述をどう説明されるのでしょうか。

戦争に使うだけの量が有ったのか。どこで造ったのか。高温フイコ窯が有ったのか。

 

朝鮮半島から出雲に直行する為、慶州を出発し 見えない東郷池は、どちらの方向へ向かうのでしょうか。海流に流されて確実に東郷池に着くのでしょうか。

海を渡る時、夜明けから日暮れまで死ぬ気で船を漕いで1,000里です。暗くなり海流に流されて 海の尽きる崖から落ちたら生きて帰れないからです。ともかく、目標の陸に向かって漕がなければなりません。

反対に 朝鮮半島に向かうには、西へ死ぬ気で漕ぎ続けて 海流の速さと人が漕ぐスピードの相関係数は、1日間75㎞(1,000里漕ぐ)―96㎞(海流4㎞×24時間)=▲21㎞。 目的地に向かって懸命に漕いでも前進しません。数日後には 良くて越前若しくは佐渡島です。

漕ぐスピードを1日1,000里としていますが、長里で表すと1里434Mで 1,000里とは434㎞になり、時速43㎞で10時間漕ぎ続ける事になります。人間が漕ぐスピードではありません。

狗邪韓國から尊馬國(対馬)まで1,000里=実際一番近い所で75㎞  

尊馬國(対馬)から南南東へ1,000里で一大国(壱岐)=実際一番近い所で72km

どう考えても 東郷池~慶州間の300㎞直行は無理です。間に島もありません。

倭国へ向かって渡海したのが、夏ですから南風ですので、帆を使かえません。冬の日本海は波が荒く航海できません。

幸運に恵まれて南東の風が吹けば到着するでしょう。しかし、途中で風向きが変われば助かりません。

帰りも同じです。倭国に半年近く居た((移動日+片道2ヵ月+滞在日)×往復)帰りは翌年です。

安全な航海を考えるなら 流れが緩やかな 海岸線に沿って九州に行き、所々の陸地で十分の補給・休憩・食事をしながら、壱岐対馬が見えたら漕ぐと思います。

出雲や越に大文化圏が在ったことは認めますが、頻繁に朝鮮と交流があったとは 思えません。朝鮮からの漂流者がもたらした文化・技術が蓄積されていった。とみるべきでしょう。

どの説も 松浦半島経由を取ると思います。=末盧国の領地=一大卒の権限内=通行税を払わなければ拿捕される。たとえ同じ邪馬壱国同盟であっても積荷の3割は貰うし、生口1人は欲しい。と交渉が始まると思います。「えー女の生口を積んでいないの?男なら固いので煮るのに時間が掛かるから要らない。その代わり 積荷の5割置いて行け」「嫌なら船が来なかった事にして沈めるぞ」。

入れ墨があり生口文化がある民族(多分 南方系民族)である事を忘れずに。

あくどい一大卒には誰も反抗できなかった。船の難破が多かったので、疑いようがない。高い通行税を払って通過し、上司にチクっても相手してくれない。〔戦争になって困るのはどちらか分かっているから〕

現代の王国でも外交を担当するのは、皇太子か直近の親族です。よっぽど信用していないと他人に外交をさせません。

 

海を渡る時 疲れ果て 暗くなり目標が見えない夜になる。海流は、時速4kmと云われています。

暗くなって夜が明け始めるまで8時間=不安な夜を32㎞流される。見えた陸地に懸命に必死に漕ぐ。=出雲に着く では。 夜漕ぐと岩礁があった場合 避けられず 沈没=魚の餌

 

出雲が邪馬壱国説も同じです。何故、出雲に南方系民族ですか?寧ろ、朝鮮系民族のはず。

越前説を唱える方の根拠として 稲作可能面積を挙げられます。

私も7万戸の平野を最初に探し始めました。筑紫平野ではと思い調べたら、すぐに昔は海だと分かりました。そういえば昔 祖母が、「先祖はこの干拓地にやって来た」と 云っていたのを思い出した。大牟田も瀬高・柳川・三潴・久留米も海でした。良くて干潟でした。今でも 牟田や潟の地名が多く残っています。

7万戸以上の人民を養える土地と考えるのは自然の事ですが、現在のウクライナと同じく、武力で米・財・人を奪おうと野盗国家が毎年襲ってきます。平和主義国家は、存続できないのです。又、越前に 顔に入れ墨をしている南方系民族が住む巨大国家が在ったとは思えません。そして、煮炊きや暖房用の薪はどうするのでしょうか。7万戸を養う食料はあっても、燃料がありません。1戸で3㎏の薪を使うとして7万戸では 毎日210トン。 冬になれば倍以上必要です。薪の争奪が激しく 諍いが絶えず 弱者は凍死するでしょう。人口が多くても2万戸が精一杯と思われます。ここでも鉄文化が必須になります。伐採の為、鉄製の斧でなければ生産性が悪く 多くの木が切れません。

縄文人は、入れ墨文化があったと云われています(土偶が有る)縄文人は狩人です。農耕弥生人との転換時期(混血時期)の可能性はありますが、倭人は、未だ縄文人系が多いのです。

【草木茂盛、行不見前人】【倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。】など、夏を思わせる記述はあります。越前は温暖ですか?冬でも生野菜を食べますか?越前に冬に居たなら豪雪地帯なのに雪の話が無いのは不思議です。中国や朝鮮でも越前のような豪雪は未経験のはず。又、越前まで行って帰るのに海流に逆らい、山陰を過ぎて九州松浦半島(末盧国)まで戻るしか方法はなく、一夏で済む訳がない。(水行20日+10日&陸行30日往復で4か月間+滞在期間=短くなる放射説を取ってもギリギリ 台風が来たらOUT)出雲・越説の最大の難問は、九州まで帰らなければ、朝鮮半島へはたどり着かない。トンデモ説で対馬海流に乗り北海道沖でリマン海流に乗って朝鮮半島に着く。との説を唱える方もおられますが、海流をよっぽど知っていないと発想ができないし、ほとんど遭難覚悟の説。当時の船で長期の航海では無理。水・食料とも足りないし、怖くてその説を唱える船で帰ろうとは思わないので 「あなただけでどうぞ」。そして私は「来年まで待って九州周りで帰ります」と言います。

偏西風を利用して租税の徴収が楽だとか。(卑弥呼は共立の為 租税収益はありません。租税があるのは国邑内だけです。この頃の倭国は、中央集権も封建国家の概念はありません。)帰りは海流が弱い海岸線沿いに逆走していくとしても、少し長旅になりそうですね。わざわざ越の邪馬壱国に租税を送る?必要ありますか。九州北部なら最新鋭の飛び道具 鉄鏃を大量に製造しているのですよ。私が一大卒なら「欲しければ取りに来い」と言って戦争します。勝つ自信があるし、帯方郡の使者を通じて 邪馬壱国で謀反が起きたと報告する。伊都国には、帯方郡よりの常駐役人が居ます。【郡使往來常所駐】一大卒の言葉を信じない理由が無い。

伊都国には、帯方郡の役人が常駐しています。邪馬壱国が伊都国に攻めてきても、朝鮮からの援軍が速いでしょう。又、援軍が来なくても、伊都国は通行税を沢山貯めていますので、大勢を雇うことも可能です。

(越からの出兵は無いはず。兵を積んで海流に逆らい進軍は膨大な戦費が掛かる)

外交や交易の窓口を押さえておかないと、国家の安泰は無い。故に、一大卒は、女王の親族かそれに近い者で押さえておく必要がある。(よほどの権限と報酬を与えておかないと 親族でも心配かも)

故に、私説では、一大卒は卑弥呼の弟の可能性が強い としています。

 

鉄鏃出土 

戦争には沢山の強力な武器を持っている方が絶対に有利です。信長は、鉄砲の数の多さで天下を取りました。数が多いから3段構えができました。ほとんどの戦闘は、弓です。時代劇にあるような刀で切り合いなどは 滅多にありません。昔TVで南方系民族の戦いの放送を見ましたが、弓や投槍でした。

(その時は、小さな諍いでしたので、一人怪我をしたことで戦闘は終わりました。)

鉄鏃は遠くまで飛ぶし、皮の鎧や盾も突き通します。すごく強力な武器です。白兵戦での剣と剣での戦いは誰でも怖いし、相打ちなども多く、互いに死傷者も多く出ます。出来るなら遠くから大量の弓を射かけて制圧戦法を選ぶと思います。

又、多くの人口を抱える国は農耕・伐採・開拓を必要とし、鉄製斧・鍬などの鉄製品が多くなければ作業の生産性は上がりません。

 県別に見た鉄器の出土数

鉄器は弥生時代を通じて圧倒的に北部九州に集中する。

3世紀はじめにヤマト王権が誕生しても いぜんこの傾向は変わらないが、東日本にも普及しはじめる。

この直後、3世紀後半以降の定型化した前方後円墳からの大量の鉄器副葬によって九州と近畿の鉄器量は逆転する。

つまり、弥生時代に北九州と畿内勢力が戦争した場合に、鉄を持つ北九州が勝利することは明らかである。

 

故に、出雲・越前に邪馬台壱国が存続できる可能性は無い。

 

四国説の矛盾

距離も方向もバラバラで水行20日&水行10日陸行1か月 のみを根拠にしている

大陸からの情報を一番早く受け取りやすく 鉄の鏃・鉾を使用する北部九州を通り越してわざわざ四国の端に大文化圏を作れるはずがない。

伊都国で検閲を受けるでしょうから、一大卒の権力が凄まじいものになります。遠い四国から支持するには遠すぎます。私が一大卒なら貿易船・朝貢船・渡来船 すべてから通行税を取り、鉄の武器で邪馬壱国から独立していたでしょう。倭王印も私が持ちます。多分皆さんも同じくするでしょう⤴。

四国を南とは書かない。奴国から北へ・東へ・南へ・東へ+500里北へ

正確には 300里北へ・300里東へ・3千里南へ・4千里東へ+500里北へ(1里=100Mとして)

弥生時代の製鉄技術は、北部九州と菊鹿平野しかなく、重要軍事機密である。=ヤマト朝廷でさえ鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。

【倭の地について問いて集めるに、海中洲島の上に遠く離れて存在し、あるいは絶え、あるいは連なり、一周は五千余里ばかりか。】の文章を取って四国はちょうど5千里。と言われますが、対馬から壱岐・松浦半島などは、倭国ではないのでしょうか。

帯方郡から徳島まで12,000里(グーグルアプリで調べた?)。衛星写真や地図がない弥生時代にどうやって分かるのでしょう。

渾天儀(コンテンギ)をわざわざ船で邪馬壱国持ってきて観測し、後漢書に記載してある会稽東治(かいけいとうち)の東 と 測るはずはない。

普通に考えれば 高価な渾天儀 を遭難の危険がある船で海を渡しません。

当時の技術でできる(可能な事)と実際にした事 では、まったく違いますし、渾天儀 を担いで奴国(福岡市)から築上郡 まで山道を50km歩くのは不可能です。グーグルマップの直線距離で見られていると思いますが、凄い山道です。10日やそこらで行ける距離ではありませんし、築上郡からの船も手配も大変です。歩けると強く主張されるのであれば、是非試してみてください。裸足で、食料無しで、無一文で、ヒッチハイクも無し ですよ。橋を渡るのもダメです。私なら、裸足と聞いただけでギブアップします。

何をしに倭国に来たのか、

240年梯儁が、詔書と金印紫綬印綬銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を持って来た。

247年に、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣さる。

天体観測や地理を調べに来たわけではなく、表向きは金印授受等の形式儀礼で来ていますが、実は国力を調べに来たのです。

普通に考えてほしい。莫大な下賜品 若しくは激励の黄色い旗と一緒に 渾天儀まで持ってきますか?もし持って行ったなら「ありがとう」と云われて 取られます。普通 他人の家に土産物と一緒に高価そうな 訳が分からない品を持って上がったら、どうなるか と考えてください。〔伴天連の神父が信長との接見に地球儀の他に羅針盤を持って行き、「いや、これは違います」と 言えますか?〕

一番の問題点は、何処から見た南かです。一大卒が居る伊都国からは四国は南とは言いません。      從伊都国至女王国、循海岸水行、奴国、不彌國、乍北乍東乍南乍東、到其東岸投馬国、二十日 くらい書かないと。

四国山岳説も同じです。寧ろ、突拍子もない説と言えます。焼山・溜池・四国の大きさ・30の国の名前に似た地名がある。などを根拠に上げられますが、たったのこれだけです。

陸稲は水稲と比べて干ばつに弱く、収穫量は降水量に左右される上に水稲の半分以下です。陸稲は畑で栽培され、連作障害に弱く、他の作物と輪作される

 焼山は日本全国どこにでもあります。焼山は、縄文時代に行われていた陸稲でしょう。溜池は、四国は大きな河川が無いので作った(堀・クリークは雨が少ない地方では多く存在します)。大きさでは、九州の北部地域のみで表現できます。30の国名に似た地名は全国にあります。   

 

茨木説の矛盾

出雲を末盧国とし、越を伊都国とし、長里ばかりを考え長野を通り 日本を横断し、東京から千葉を渡り茨城まで。

歩かずに、船を利用する方を考えなかったの?水行で松浦半島から関門海峡経由を渡り 瀬戸内海経由で海岸沿いを行った方が楽。

発想が長里に固執しすぎ。象徴の富士山の記述がないし、1年や2年では行けないし 帰れない。 これも 理屈に合わない。帯方郡からの使者をそこまで陸行させるの?着くころには隊員の半分は狼や熊の餌食になっていて、多くの財宝も捨て置かれただろう。

長里を基本に考えているため「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」

 帯方郡から狗邪韓国と書いているのに、わざわざ洛陽からと考える。

短里(67㎝~100㎝)なら帯方郡―狗邪国まで(630㎞)を7,000里なら割と正確。

九州説以外の方は、秦の始皇帝が決めた長里約400~435mを取られます。その為、【從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里】を倭に至るには、郡を通って

と洛陽からの距離をグーグルマップで調べたがります。洛陽からも朝鮮半島対馬も長里に合うように図ったのでしょう?壱岐までの距離が合わなくなると、一大国は壱岐ではない。や海流に流され緯度が5度ほど変わってくる。東が45度ずれている。無茶苦茶です。夏至の頃は地位軸の傾きで23.4度ちがうだけです。対馬でも壱岐でも帯方郡の使者は 毎日太陽の方角を確認しますので、海流で流されても緯度は傾きません。末盧国~伊都国までが500里なのです。皆さんは、自分が描いた邪馬壱国の場所に誘導したいだけです。

 

その他 各説に対する反対意見

魏志倭人伝の方角は90度傾いているとして、南をすべて東に読み替える説。

太陽は何時も東から上ります。夏至では、23.4度 東北東から上り、23.4度 西北西に沈みます。倭国内で使者が南を東と間違えるはずがない。左下の地図のようになっていると思ったのなら、南水行20日の段階ですぐわかるはず。

 

陳寿が、呉の背後に倭国があると、思わせたいなら【計其道里、當在會稽東治之東】だけで充分で、【自郡至女王國、萬二千餘里】を書く必要は無い。

呉が魏を襲うための中継基地を倭に求めることは無い。済州島で十分。

呉が倭国に鏡を送ったのではなく、呉の年号が入った鏡が 朝鮮半島を通じて 流通していた。

但し、倭国を 呉の監視下に置く為、スパイ等で情報収集はしたはず。

東北地方 女王国説

238年倭使、240年魏使、243年倭使、247年倭使・魏使・倭使 交流は頻繁に行われている。どうやって朝鮮半島まで行くのだろうか。松浦半島経由しかないはずですが。もしかすると、対馬海流に乗り北上し、北海道沖でリマン海流に乗り換える。ウラジオストックに着いたら拿捕されます。運よく朝鮮半島に着いたらラッキー。では、帰りは?狗邪韓國から(対馬壱岐は九州北部勢力圏内)運よく対馬海流に乗れて出雲・越の勢力に拿捕されなければ東北に着く。ほとんど運任せの旅となります。対馬と朝鮮の交易は頻繁にありますので、狗邪韓國で出航準備をしているだけで、送り狼や待ち伏せをするでしょう。

それだけ、遠方からの使者や朝貢は危険を伴います。

 

まとめ

もし、一大卒が、お飾りの官僚なら倭国は植民地となっていたであろう。

当時の北部九州の倭国は、鉄鏃・鉄鉾などを使う軍事国家で、いつも戦争をしているから 他国から来る使者を警戒した。そして、ライバル国(大和朝廷帯方郡朝貢していた事〈神功皇后は魏に朝貢している〉を知っていた)や朝鮮半島経由のスパイを警戒した。

【郡使往來常所駐】伊都国の一大卒は、無駄に 帯方郡の使いを泊めて接待している(ハニートラップ含む)のではない。朝鮮半島・中国大陸・大和朝廷の情報収集をしている。当時も他国の情報は必要不可欠。

 

帯方郡からの使者を(偶然の要素が強いが)欺く(錯覚させる)行動が奏し 間違った距離を魏に報告させた(邪馬壱国は広くて大きな支配地を有していたと思わせた)

倭国の位置も重要ですが、それより人口の多い事=兵力 が重要。

魏志倭人伝の記載で人口が書かれている国だけで、15万戸。その他の同盟国を合わせると倍近くになりそう。故に10万人くらいの招集兵力が見込まれる。

赤壁の戦いで、孫権軍3万+劉備1万+劉琦軍1万=5万

この呉連合軍の後ろに 兵力10万の海洋民族 倭国が存在していることが、脅威なのです。

 

邪馬台国は謎が多すぎる

特に【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できる】と書きながら日数で書いたか。この時点で この魏志倭人伝の一貫性・信憑性が崩れているのに、どの学者も そこを指摘しないのか?

魏志倭人伝を読んだ時に ほとんどの方が「あれ?」と感じたのではありませんか?

要するのに、嘘が有る。どこが嘘か、どこまでが真実なのかを見極める事が邪馬壱国究明に繋がる。と思います。 Liarは 誰だ。

PCの投稿で、魏志倭人伝を90度傾き説方や辺傍の国の場所を探されている方、古代中国語の発音まで研究されている方、1里の探究者、等々 もっと単純に 魏志倭人伝の記載には、田舎者の見栄張り、酔っぱらいの大風呂敷、どこまでが本当かな?と 温かい目(疑いの目)で見てみました。

 

私は ずぶの素人ですので、単純な発想で 謎解きをしていきたいと思います。

 

古今東西 紛争は、最初は 話し合いから始まり 最後に武力になります。日本内でも頼朝しかり、家康しかり。現代の どの紛争も同じような過程を経ています。途中までは何処の国家も調停を受け入れたりして戦争を避けますが、結果的には武力で決着する事になります。

通貨の流通が盛んになれば、金で 取り敢えずの 解決もありますが。

強い武器や軍事力を持っていたら、他国の財や人民・領土を略奪し、自分のイデオロギーを強いるのが、世の常です。

どんな綺麗ごとを言っても、物欲・権力欲・征服欲などの欲望を持つのが人間です。開拓という名の侵略、解放という名の侵攻 等々。

西部劇に出てくる大開拓時代、マゼラン・コロンブスなどの大航海時代、宗教の普及による救済。侵略者には、とっても耳障りの言い響きです。植民地にされ・殺され・奴隷にされ・侵された人々の嘆き悲しみの声をかき消す 素晴らしい言い訳。

 

科学力・豊富な知識・工業力をバックにした 強力な軍事力を持つ国家 その先進国が、その他の国邑・先住民を 侵略していきました。

人類の歴史は侵略の歴史でもある。1世紀単位で見ると 人類史上 話合いで決めるなどの弱腰外交が続き 栄えた験しはない。

畿内説や九州説など多くの学説がありますが、どの説も決定打がありません。

この地域は農地が広いとか、日本列島の中央であるとか、朝鮮半島に近いとか、多くの遺跡があるとか、副葬品が多いとか、大和朝廷が開花した場所だとか、思い入れのある地域とか。あまり重要ではありません。全てを奪い取れるが有ればよいのです。例えば、副葬品などは、武力が有れば 他の部族の先祖の宝を盗掘・強奪することも可能です。(この時代に それを妨げる信仰や宗教・道徳概念・平和主義はありません。ましてや国連も国際司法裁判所もマスコミも人権団体もありません。)武力こそ、力あっての王なのです。信長の力とカリスマ性を持った王(女王)なのです。当時の最新鋭の武器と言えば 皮の鎧を貫く 鉄鏃・鉄鉾なのです。

私は、武力を焦点に邪馬壱国の謎に迫っていきたい と思います。 

 

大和朝廷の初期は婚姻などの同盟〔記紀で書かれている〕で領土を広げていった。吉備・紀伊・吉野・尾張・京都など

鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣や 第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

北部九州の紫川近郊で 鉄の鋳造技術を得た(鉄の技術を持った渡来人を捕虜にした)ので、それ以降は武力統一となる。 神武東征で黒崎に寄った時ではありません。

弥生中期に北部九州では鉄鏃などの鍛造鉄器がいち早く普及し、高度な鍛冶技術を獲得して大形鉄器の製作を行うことができるようになった。 しかし、鉄器素材の流通・鉄器加工の技術情報を北部九州に独占隠匿された。それ以外の地域では大型で高品質の鉄器素材はもとより、高度な加工技術そのものも獲得できなかった。

北部九州と云っても 渡来人が多い邪馬壱国同盟の中でもごく少数の国だけが独占していた。例えば伊都国、奴国。

宗像や遠賀・聞・宇佐も同盟国ではあったが、軍事同盟ではなく 貿易同盟だけだった。

村上恭通氏らの研究によると弥生中期以降 北部九州では明瞭な掘形をもつ防湿構造のある鍛治炉がみられ、この高温を 保持ができる炉を得て、高度な高温鍛冶による大型鉄器が現れてくる。 しかし、その他の地域では 大多数の鍛冶炉が、防湿構造がなく 床面に直接火床がある鍛冶炉しかみられず、しかも 一部 不完全ながらも薄い掘り込みのある鍛冶炉も時代と共に床面を直に火床とする鍛冶炉に退歩する。 また、この北部九州の防湿構造のある鍛治炉さえもが、弥生時代が進むにつれ、退歩してゆく=ヤマト朝廷の傘下に入ったから製鉄技術の統制管理が厳しくなった。 掘形をもつ防湿構造のある火床・鞴を有する本格的な鍛治炉が広く現れてくるのは古墳時代になってからである。

その原因の一つには 鋳造鉄斧など鉄器の伝来は弥生時代の前期にまでさかのぼれるにしても、日本に鉄器が供給されるルー トは一部の中国・朝鮮半島からにかぎられ、鉄を造る技術「製鉄技術」や「大型鉄器なども作れる高度な鉄器加工技術」は 大陸側 そして北部九州で厳しく管理隠匿されていた。

 また、弥生時代の後期 中国・朝鮮半島は戦乱に巻き込まれた時代であり、日本への貿易がままならぬ時代であった。倭国も戦乱に見舞われ、輸入品の鉄器・鉄器素材の流通は 難しくなっていた。

YAMATOTOTOTOHIMOMOSOHIMENOMIKOTO=第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(未来が予言できたとされている)箸墓古墳に葬られる。

墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られた可能性あり、倭人伝の「石棺はあるが槨がない」に矛盾するし、大きすぎるし狥葬が無い(そのまま埋めたので 骨が解けてしまった可能性あり)。建造に時間が掛かるため権力の継承が必要。邪馬壱国が大和朝廷に引き継がれたなら可能性はあるが、鉄鏃・鉄鉾を武器にしている 入れ墨がある野蛮民族が どういう経路で政略結婚拡大路線に切り替え 武器を銅鉾などに退化させたのか?辻褄が合わない。

卑弥呼と未来が分かる巫女をごっちゃにした方が 面白いので近畿説の人にうけた。

箸墓古墳から出土した三角縁神獣鏡は 出土数が多すぎるので、国産品と思われる。

邪馬壱国 近畿説を唱える学者は 歓喜して喜んだだが、各地から330面以上発掘され 意気消沈。

理由;同笵鏡(同じ鋳型もしくは原型から作成された鏡)が多い。

畿内を中心に広い範囲から出土。主に古墳時代前期の古墳から出土。

早くから中国製という説が唱えられたが、中国に出土例がない。

 

箸墓古墳は典型的な前方後円墳=ヤマト朝廷のシンボル。卑弥呼の墓は、円墳若しくは方墳。

土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、邪馬台国卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)なので、邪馬壱国とヤマト朝廷は、別の国家である

卑弥呼の死後国が乱れ、壹與が新女王になるとあり その後が不明。近畿説では、どのように辻褄を合わせるのか?卑弥呼の死は248年とされ、

280年 第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣 時代が30年違う。

壹與の時代248年 女王になる(13歳) 

壹與は、晋に266年朝貢を行なった。(壹與は三十路近くなり 貫禄も出てきたころかな?)

謎の4世紀

その後 壹與の邪馬壱国と大和朝廷軍(後で 日本武尊率いる)の凄まじい戦闘が有ったと思われる。邪馬壱国は 帯方郡朝貢する暇も費用も無かったはず。又、大和朝廷帯方郡朝貢をするために戦闘地域を抜けて松浦半島から朝鮮に船を出す事も無い。はず。

大和朝廷が鉄の武器を持つようになり、壹與の邪馬壱国との戦いで、やがて邪馬壱国 滅亡。

邪馬壱国を大和朝廷が滅ぼした事を聞き、 安心して 伽耶(後の任那と改名)から都怒我阿羅等第 が、倭国へ来る。これが素直に時の流れが分かる。

第10代天皇 崇神天皇 の時 日本に来る

第11代天皇 垂仁天皇 の時 帰る

日本書紀では魏に朝貢した倭王神功皇后一人であると記載されている。ので、時代の流れを見ると、やはり違う国家

 

では何故、宮内庁は 箸墓古墳倭迹迹日百襲姫命の墓と称し続けるのでしょうか。

倭迹迹日百襲姫命卑弥呼では いけない訳。若しくは、絶対違うとの確信がありそうです。

当時では、最大の前方後古墳に何故、第7代孝霊天皇皇女の陵としたのでしょう。

第7代孝霊天皇の陵は、大きな山のようです。前方後円墳が始まったのが、この箸墓古墳のようです。

験しに造ったのかな?

 

陸行1日の距離は、4.7㎞です

唐の「大唐六典」の28.05㎞(中国の唐の時代は道路整備も進んでいます。平地が長く1日の軍行は28㎞進むかもしれない。それに中国の長安は 湿地帯はなく 小麦やトウモロコシが主食の 黄色く乾燥している大地です。山道でなければ割と早く歩ける。但し 土誇りがすごい。時速4㎞で7時間歩く。それも1ヶ月間)

中国時代劇に出てくるような食料を積んだ荷車はありません。当然 携帯食・弁当もありません。

日本の土地は河川も多いし橋も無い。 戦国時代でも1日軍行20kmしかない(現代の陸軍も同じ)ことをお忘れのようです。「1日の歩く平均距離が4.7㎞では短すぎる」との話が多くでますが、では考えてください。朝起きて一日の行程を占い(雨なら動かない)出発。14時ぐらいになれば 宿泊場所探し・野営設営・火起こし・食料調達を始めます。弥生時代の道の状況や労働環境・栄養状態を考慮すると1日10㎞未満かと思われます。梅雨時ですので、3日に1日は雨で動きません。ましてや、日本の険しい山河や獣を警戒して進むことを考えたなら、もっとゆっくり進むのではないでしょうか。中国の広い大地ではないのです。それに 人は病気や怪我もする。そんなに真面目に急いで歩き続ける理由がないし、軍事行動ではないのです。のんびり しているのです。陸行だけに限らず水行でも 食料確保や火起こし野営地設営など歩く以外の仕事も多いのです。雨が降ったら火起こしが大変です。ましてや、荷物や駕籠(さすがに急な山道は歩いた)を担いでの旅です。 普通に考えたら難しいと思いませんか。蛭(ヒル)がいる畦道やムカデが這っている山道を裸足で歩く。そして一番厄介なのが 野薔薇などの棘のある植物です。中国の軍隊行進と一緒にしないで欲しい。1日28㎞の発想は、裸足で田舎道を歩いたことが無い都会人の発想です。偽りだと思うなら、田舎の年寄りに聞くか、自分で試したらいい。田舎に行って(マムシ注意の看板がある)蛇が出てきそうな畦道を 裸足で何メートル進めますか?試したくもないでしょう?

末盧国の記述で【草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない】とあります。外国からの使者や交易人が通る道なのに 整備されていないのです。これが、当時の倭国の現状です。

 

1里を、短里として無理やり こじつけ たと、言われる方も居られますが、帯方郡から狗邪韓國までは、水行ですので、実測(歩測)できません。7,000里と云われている。程度でしょう。狗邪韓國から對馬國1,000里。對馬國から一大國も1,000里。一大國から末廬國まで千余里も違うではないか。と指摘をされますが、海ですから「やく」なのです。海上でギリギリ見える距離が1,000里なのですし、松浦半島から海岸沿いに唐津まで航海した距離が約千余里なのです。普通に考えればよいのです。陸行で唐津から糸島までが,帯方郡から連れてきた測量士の歩測した実数です。500里移動。=実際53km 。53km㎞割る500里で1里106mですなお、歩測ですので、正確ではありませんし、唐津のどこの海岸に着いたのか?や 伊都国のどの場所が到着地かも分かりません ので目安としてください。)

当時の測り方は2股を1歩とし135cmくらい×50歩=1里で計算するので、山道・ぬかるんだ道は、1里が短くなります。

里から日数になっているし、伊都国から奴国までの里の記載の仕方がおかしい。 距離は出鱈目だと言う方もおられます。しかし 末盧国から伊都国までの歩いた距離は約500里なのです。ぬかるんだ細い道を 荷物を背負いながら歩測したことをお忘れなく。

テレビで世界の秘境を旅する番組がありますが、レポーターの方達は 靴底が厚い登山靴(軍隊のような靴)を履いていますよ。

アマゾン・西表島インドネシアのジャングル若しくは、富士の樹海を裸足で歩くのを想像してください。ぞっとしますよ。

近畿説を取る方で、水行のスピードを静水の時 平均時速5.2㎞と言う人もおられますが、漁師が漕ぐような スピードで漕げるわけではありません。又、満潮引潮などで潮の流れが変わってきます。現地で集めた人にその国の中を漕がせ、次の国へ行ったら又人を集める作業から始めるのです。同じ人を使うと「帰れなくなる」と嫌がり漕ぎません。賃金を払うわけではないので諸役(苦役)なのですし、海が時化ている時もあるし 日が暮れたら魚介類は取れない(火起こしが出来ない日は 当然飯なし)し、陸地に上がって野営地を探し 雨をしのがなければいけません。弁当やコンビニはありません。

瀬戸内海を10日間で行けるはずはありません。奴婢を使ったとしたら なお漕ぎません。それとも ガレー船のように鞭打ちながら漕がせるのですか?陸に近づいたら飛び込んで逃げますよ。

そして、北部九州・安芸・吉備・近畿を支配地に持つ邪馬壱国(大和朝廷)と互角に戦争している狗奴国は何処の国ですか?鉄の武器を持って戦う狗奴国は、熊本の菊鹿平野の熊襲とわかっているはずです。紀伊半島の部族の可能性がゼロではない。程度でしょう。

 

倭国大乱を北部九州と吉備国が争い それを女王卑弥呼が共立されて乱が収まった。と云われる先生も居られますが、鉄器の武器と銅の武器では、一方的な結果が出るのは 分かるはずです。北部九州が、安芸・吉備を征服していたはずです。吉備には朝鮮からの輸入鉄器(鉄鏃)が少数あっただけです。倭国大乱とは、北部九州内の国々が権力争い(貿易の利権争い)をしていたのです。

近畿説の学者先生は、出土品の多さ・副葬品の豪華さばかり唱えて、武力には目を向けず、纒向に卑弥呼が居た。と云われますが、新井白石が唱えた初期の近畿説から進歩がほとんど見当たりません。織田信長が大量の鉄砲で天下を収めた。 西郷隆盛率いる薩摩と官軍との戦い 西南の役と同様に、何処の武力が強いのかを見極めるべきです。

近畿地方前方後円墳は、大和朝廷所縁の陵墓ですし、吉備などの遺跡・古墳(6世紀製造)も大和朝廷の陵墓を真似ただけです。大和朝廷が勢力を伸ばした時期に その墓を真似て前方後円墳が全国に広がってきます。

 

何度でも言いますが、近畿説の大きな矛盾点は大和民族が邪馬壱国のような入れ墨族ではない事です。記紀天皇が入れ墨をしている記述は一度もありません。又、記紀以外の古文書にもありません。日本書紀に登場される大王が顔に入れ墨をしていたとは、思われません。又、そのような絵を見たことがありません。

 

陳寿は何故、倭国の植物や動物まで詳しく書いたのか?

陳寿は、倭国旅行日記を書いたわけではない。まして、ミシュランガイドや観光ガイドは書かない。

倭国への侵攻をする場合の食料・荷駄・軍馬など調達のため細かく記載した。と見るのが、必然でしょう。

近畿に女王国があるなら 普通なら関門海峡安芸国吉備国・上陸地の浪花などの軍事重要地点は絶対書くはず。対馬壱岐の動植物まで書いておいて 不彌國からは 端折って書かない理由がない。

中国の文献には、途中から端折って書かない物もある。が、偵察行動で途中から書かない事は 書く必要がないか、妨害に有って書けない くらいしか想像できません。途中から端折る文献は 報告に値しない事柄のようです。

気候や動植物の変化が無かった。=南九州や東北地方に行かなかった。

(ア)魏志倭人伝の辻褄が合わないところをスルーせずに、文章を論理的に考え、理屈に合わない箇所を調べると、嘘若しくは、虚実があると分かる。食料・燃料の薪を考慮すれば、人口が多すぎる。里が分かるとしながら日数で記載。

(イ)現代の道路や船旅の概念を捨てるべき。隣の国邑との国境の道は誰も整備しない。故に、船の利用をする。山中には、猛獣や盗賊がいる。

(ウ)季節は、6月末の梅雨時

(エ)陸行は、道が整備されていないので、10日で47㎞くらいしか進めない。又、狼や山犬が多く野宿は危険。土砂崩れ箇所がある。裸足で滑るなどの理由で、帯方郡の使者を伴った長距離歩行はしない。

誰も 裸足で橋も無い、蛇が居そうな畦道を自給自足の旅をしたくない。=簡単に山に入らない。

(オ)水行は、大変疲れるので、休憩・食事時間をたっぷりとる必要がある。又、渡海は目的地が見えないとしない。

(カ)陳寿の狙いは、実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。又、呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。

(キ)邪馬壱国の場所を特定するカギは、「何故、5千家の小国家 不彌國 に寄る必要があったのか。」 御笠川を上る為に不彌國に寄って葦船に乗り換えた とするしか説明のしようがない。

 

上記の全てを考慮すれば、

邪馬壱国(女王国)の場所は、北部九州だが、場所の特定は出来ない。

 

まとめ

もし、一大卒が、お飾りの官僚なら倭国は植民地となっていたであろう。

当時の北部九州の倭国は、鉄鏃・鉄鉾などを使う軍事国家で、いつも戦争をしているから 他国から来る使者を警戒した。そして、ライバル国(大和朝廷帯方郡朝貢していた事〈神功皇后は魏に朝貢している〉を知っていた)や朝鮮半島経由のスパイを警戒した。

【郡使往來常所駐】伊都国の一大卒は、無駄に帯方郡の使いを泊めて接待している(ハニートラップ含む)のではない。朝鮮半島・中国大陸・大和朝廷の情報収集をしている。当時も他国の情報は必要不可欠。

 

帯方郡からの使者を(偶然の要素が強いが)欺く(錯覚させる)行動が奏し 間違った距離を魏に報告させた(邪馬壱国は広くて大きな支配地を有していたと思わせた)

倭国の位置も重要ですが、それより人口の多い事=兵力 が重要。

魏志倭人伝の記載で人口が書かれている国だけで、15万戸。その他の同盟国を合わせると倍近くになりそう。故に10万人くらいの招集兵力が見込まれる。

赤壁の戦いで、孫権軍3万+劉備1万+劉琦軍1万=5万

この呉連合軍の後ろに 兵力10万の海洋民族 倭国が存在していることが、脅威なのです。

 

大和朝廷誕生【神武東征】の謎

この中の文章で、私が気づかずに方言を使用した箇所が 多々あるかもしれません。又、しつこい言い回しや読みづらい箇所がございましたら ご容赦ください。又、現代には相応しくない記述があります。決して他の国家・宗教・民族・文化・個人を差別・中傷などをする意図は ございません。もし、不愉快な表現で 嫌な思いを抱かれたのであれば、年寄りの うだごつ と許してください。深くお詫び申し上げます。

 

はじめに

お金は無いが、時間なら たっぷり有る年寄りの 暇つぶし に最高なのがこの邪馬台国の 謎解きクイズ。 

新井白石本居宣長 以来300年間 偉い学者先生や民間の方々が 研究をしても分からないのだから 私ごときが解けるはずも無いが 所詮 暇つぶし。 現代では、旅もせず、金もかからず、図書館にも行かなくても 他人が調べた資料をPCで検索すればすぐに分かる便利な時代になりました。PCを開けば 出てくる事 出てくる事。見る度に なるほど と感心させられる説や どうしても納得できない説も多々あります。多分 近未来いや近日中には 生成AIが、「邪馬壱国の謎 究明」などと 論文を出すでしょうから、今のうちに ブログを書いておきます。

尚、参考にさせて頂いた ブログ文献等を勝手に使用したことをお詫び致します。

 

大和朝廷誕生【神武東征】の謎

仮説1.

中国からの争いの苦手な移民者 姫氏(周王朝・紀元前770年~紀元前221年)の末裔が、春秋戦国時代の動乱を避け、倭国へ移住。 最初は糸島の山岳地域に住んで先住民族に色々な技術を教えていたが、技術を独占しようとした一部の 先住民族(後の伊都国)に追われ 朝倉の地に そして 浮羽姉川の地へ 少しずつ南に追われて 住んでいた土地を日向と呼んだ。どんどん南へ追われていき日向神へて菊池平野に住む。 またもや そこへ玉名・山鹿・菊池平野先住民族(後の狗奴国)に攻められ鉄の高温鍛冶設備を取られ捕虜になる。一部の生き延びた姫氏は 東へ逃げ 阿蘇山南の山深い高千穂に逃げのび、土着し、ひっそりと暮らした。

北部九州と菊鹿平野に高温製鉄炉跡があるのは この影響。

狗奴に 製鉄炉技術を持つ者はすべて捕らえられ、高千穂に逃れた人達は その技術を持つ者はいなかった。 日向とは、中国から追われ「日に向かった」渡航の民の事。  〔私が付けた かっこいい説〕

行かれたら分かりますが、高千穂は、凄い山奥で 川沿いの狭い土地です。あえて 他人との交流を避けて住んでいるような里です。ここで文化が開花したとは とても思えない山郷です。

山を かなりの距離 東に降りていき海岸沿いの日向・延岡市近くになると少し平野もあります。(日向から神武東征が始まったとは、とても思えない) もっと南(かなり遠い)の宮崎市近くの 西都地方では広く 高千穂よりは暮らし易くなります。但し、火山灰の影響が残る。

高千穂から西都市を繋げるのは 幾つのも山越えで難しい。 宮崎県全部を日向と言うが、距離的にかなり遠い。

西都市に西都原古墳群があるが、4世紀初頭から7世紀前半にかけての築造とされることから、少し後の時代か?高千穂で暮らす一部の日向の民が延岡・日向の海岸から西都市に定住し、文化圏を造った。若しくは、大和朝廷が宮崎県日向を建国の里と唱えたので、その地に朝廷出身者の移住も増えた。

記紀卑弥呼や邪馬壱国の話が出てこずに、妙に似せたがっている。箸墓古墳に葬られる第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命が、卑弥呼だと云われる方のように。「未来が予言できたとされている」とは、卑弥呼に似せようとしたのでは。

 

ヤマトとは後の朝廷が付けた名称で、中国への朝貢でやって来た倭人をYAMATOの民 と言われたので大和と当て字した。

仮説2.

大和朝廷高天原王朝)が天孫降臨の高千穂から出兵したとき、【日向高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした】と古事記に書いてあります。では何故、日向を出発し筑紫へ向かったのでしょう。何故、田舎の日向から日本統一を目指せたのでしょうか?

福岡発祥説をとれば、

福岡の伊都国日向峠に住んでいた移民→朝倉日向郷→浮羽日向郷から日田を通り宇佐に向かうルートもありますが、日田街道で湯布院を経て別府(宇佐)を征服し 船を調達。そのようなルートを取るとは思えません。素直に博多湾で船を調達し 関門海峡をわたるでしょう。故に、却下。

 

何故、豊国の宇沙に拠り、筑紫国岡田宮で1年過ごて、安芸に向かったのか。まずは、筑紫を攻めようとして失敗したのです。北九州の黒崎に1年留まる(戦争をした)必要があるはずです。筑紫に攻め上がったが、武力で負けて一度南へ行き宇佐を攻める。それから近畿を目指しただけなのです。筑紫と宇佐が逆になっていますし、日向から出向も後からの辻褄合わせでしょう。8世紀の元明天皇の命により太安万侶が編集したとき 辻褄合わせに考案したのでしょう。

仮説3.

大和朝廷天孫降臨の高千穂から出兵したとき、【日向高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした】と古事記に書いてあります。

その降臨の記述には「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に天降りまさしめき。(中略)ここは韓国に向い、笠かさ沙さの御前(みさき)を真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」 伊都国の高祖山のそばにある山をクシフル山

伊都国のクシフル山の民(日向の民)が、先住民(伊都国)に追われ、一部は南へ仮説2、一部は東へ逃れ飯塚盆地へ。朝鮮半島からの漂着者が暮らす 遠賀川流域文化と合流しの田川の地へ。

高千穂=英彦山の麓  英彦山(日の巫女の山)から日が昇る東は宇佐です。

英彦山山頂から宇佐は見えたはずです。(確認していませんが)

宮崎日向から宇佐に向かうのは北です。東に向かうなら四国です。高千穂から海に出て延岡ここからなら四国が見えるはずです。何故、四国へ向かわなかったのか?日向は、宮崎では ないからです。

日向から宇佐に向かったのではなく、伊都国の日向で、占いをし 東へ向かう。英彦山(彦・ヒコ・王子の山)から 朝日に向かって宇佐まで行った。のです。 

記紀は 辻褄を合わせて書いた。特に日本書紀は 邪馬壱国から追われ 中国からの移民と共に東進したと 思われない様に宮崎日向と記載した。

田川→行橋→宇佐へ 山越えルートに 1隊

田川→直方→中間→聞(企救)→苅田→行橋ルートに本隊 平地が続き通り易いし、少しずつ領土を増やしていける+兵力を増やせる。又、苅田から行橋まで近いし、豊前→宇佐と陸行できます。

別動隊と合流。戦闘が苦手な渡来人を含む田川の民は、行程で農耕や灌漑を教えながら婚姻などの平和同盟を結びながら進む。邪馬壱国同盟下の宇佐を支配下に置く。又、今までの戦闘で犠牲になった者たちの霊を弔う。内陸育ちの田川の民は、造船技術を持たなかったので、海岸沿いに北上し苅田港あたりで 教えて貰いながら 船を造り始めた。その間 黒崎に行って「農耕や灌漑を教えるから同盟を結びたい」と申し出るが、朝鮮に近い黒崎には既に多くの渡来人が住んでいて交渉を断念この間1年。船が完成し安芸へ向かう。 

 

大和朝廷は、多分 北部九州に居た部族と中国から渡って来た移民(秦氏・姫氏)連合が 邪馬壱国に追われて できた国家と思います。

そして、近畿地方では政略結婚で同盟を結んで勢力を伸ばした。と書いてあります。記紀に書いてあります。戦闘が苦手な大和朝廷は、結婚による同盟を選択したのかもしれません。

 

私は、大和朝廷糸島市発祥説を取ります。辻褄が合います。野蛮な邪馬壱国から追われて 近畿に来たと云えませんので、日向(日に向かい)から東征したと した方が 聞こえが良いのです。天皇の近くには、秦氏出身の者も 多く「秦の国と間違えられる」事もあるはずです(随書倭人伝629年 秦の国)

宗像・遠賀・行橋などの海岸沿いは、貿易の利益が多いので 邪馬壱国同盟側と思われる。

天孫降臨で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、高天原に降臨された時に付き従った神々 とは、一緒に渡航した方々(大友氏・物部氏など)でしょう。

記紀古事記712年・日本書紀720年)に書かれているような国譲りは、「『出雲国造神賀詞』によれば、国譲りの話など、全く出てこない」ようですが、何らかの争いは当然あったでしょう。謀略・策略・賄賂・騙し討ち 有って当たり前です。業績優秀な企業で 今までの創設者一族の社長が いきなりMAされるのに 「はい分かりました」と言う方が 不思議です。社内幹部の裏切り・暗殺・脱税のタレコミ・社長へのセクハラ告発 等 力ずく も含めて何でも有の時代です。

天皇の性も 倭人名の鵜葺草葺(ウガヤフキ)や中国から渡来人の姫(ヒ)があるようです。長い旅の間に 姻戚が有ったり、離れたり、一つの血統ではない様に見受けられます。又、力を持った豪族たちが外戚により、王位継承時には、兄弟・親子・叔父・甥 熾烈な争いが有ったものと思われます。

 

熊襲成敗の際、阿蘇山奥に高千穂と言う集落が在り 住民が大和朝廷との血縁関係がありそうだと分かる。

当時の高千穂は小さな集落で 若者数名で山を下り日向(延岡)を征服できるとは思われない。ため、宮崎日向説は取らない。

大和朝廷は、中国からの移民国家と話が広がると婚姻による拡大政策に悪影響が出ると考え 高千穂から日向へ進出し、神武東征の出発点と創作をした。それに伴い、宮崎日向の地に大和の民を移住させて西都市などに文化圏をつくる。4世紀初頭ら7世紀前半にかけての築造した古墳などの遺跡がある。(卑弥呼の死が248年だから邪馬壱国との関係はなさそうだ。)西都市児湯郡 都萬神社 の創建は不詳ながら大和民の移住の際 創建されたと思われる。

 

天皇 移民族 説

これは結構面白い。メソポタミア起源の高度な青銅技術 楔形文字が甲骨文字、そして、漢字へ

紀元前1,800年~ シュメール人・アムル/アマ人・エラム人が、ハンムラビ国王による追放

⇒100年後(紀元前17世紀頃に建国)中国 商/殷を起こす

紀元前1,200年頃~アムル系ヤマァド人は、地中海の海洋民族に追われ 逃げる⇒(紀元前1,100~1,000)中国 周王朝や秦

シュメール人・アムル/アマ人・エラム人(商/殷)は 又ヤマァド人から追われ、倭国に渡る(紀元前1,000年~前900年頃) 倭は、Ur(ウル)が起源 

中国の周(Zhou)は、モーゼ生誕の地(Zarw)でアクエンアテン幼少期に過ごした都市名

周王朝 姫一族の建国伝説 周国始まりの王 古公亶父「争いを避けるため住み慣れた土地を離れ 周王朝をひらいた」そして、殷の王族と婚姻をしたと 記されています。〈まるで国譲り〉

農業の神【后稷 ゴウソク】伝説  とある王の娘(姜嫄・キョウゲン)が巨人の足跡を踏むと妊娠 馬小屋で出産し、何度も捨てられたが、不思議なことがおこり 奇跡的に育ち農業を教えるようになる。

姜嫄の姜とは遊牧民を表す。遊牧民の子が農業を教える?=東明伝説とそっくり 最初の方は后稷伝説と同じだが、後半は 王が国を取られる事を恐れ 東明を追う、川に差し掛かり持って来た弓で川を叩いたら、魚が列を作り渡してくれた。東明は逃れて夫余(プヨ)国を造る。まるで、モーゼ伝説。

姜嫄は 古代エジプト王家に 嫁いだ遊牧人族の女性を表し、その子が古代エジプトで農業を学んだ。

アクエンアテン=后稷では。

ちなみに夫余(プヨ)族は、百済の先祖→天皇家の先祖との伝説があります。

天皇家は「姫氏」を名乗っていた時期がある。天皇家は689年の飛鳥浄原令の発布以前まで「姫氏」を名乗っていた。正式には大王(おおきみ)の姓氏である。平安時代の講書(日本書紀天皇に講義した記録)に書かれている博士の質疑の一つに「わが国は姫氏と呼ばれているのは何ゆえか」とある。  姫氏とは、当然 中国古代 周王朝の国姓であり その末裔 と解釈すべきです。

又、神武の父の名は、「鵜葺草葺不合」(ウガヤフキアエズ)であり「鵜葺草葺(ウガヤフキ)」という姓を持っていた。これは、神武大王と大和朝廷の血筋が違う為と思われます。神武大王は倭人です。(熊襲出身説あり)

 

宇佐神宮卑弥呼の墓説もあります。

宇佐神宮は、崇峻天皇年間(588? - 592年?)に鷹居社(たかいしゃ)が建てられた。

2拝4拍手1拝。これをするのが出雲大社宇佐神宮のみで、滅ぼした大国に4(死)回拍手して、鎮魂する。亀山の大きさが100歩の135mに近いとか。道鏡「769年 宇佐八幡宮神託事件解決のため宇佐神宮に行った。など  

私は、伊都国日向発祥の田川朝廷(後のヤマト朝廷)が 宇佐を重視したと考えます。 もし、邪馬壱国の鎮魂のためなら 卑弥呼ではなく大和朝廷に殺された壹與の墓ではないでしょうか?卑弥呼の死因は老衰と思われます。少し時代が違います。大和朝廷に恨みを持つ 弥生時代最強のシャーマンは壹與です。大和朝廷の者からすると 一昔前 卑弥呼という凄いシャーマンが居たことは 知っていたと思いますが、実際に戦ったのは鬼術を使う 壹與です。箸墓古墳倭迹迹日百襲姫命(未来が予言できたとされている)ではありません。近畿説を唱えるなら 卑弥呼が祀られている墓に 道鏡宇佐八幡宮神託事件解決のため向くのは箸墓古墳ではないでしょうか。

故に、天皇家の今後を決める大事な御神託を受ける宮は 本当に霊力が強い壹與を祭る宇佐神宮だ 思います。

又、宮崎日向から神武東征が始まったのなら、何の関係も無い宇佐に寄る必要も無いし、ここに神社を建てる理屈が無い。この時 壹與が宇佐に逃げて来ていたと考えるには、時間軸が少し違う。

北九州市黒崎の岡田神宮も建立の意味不明の為、私説では、同盟を申し出た地としました。

大和朝廷は、狗奴国と共謀し 壹與の邪馬壱国を東北(海岸)と南からと攻めた。壮絶な戦闘の果て 邪馬壱国滅亡。

仲哀天皇の時代には恭順した崗県主熊鰐の案内によって、神功皇后が岡田宮の八所神を奉祭したとの記事が日本書紀に載る。故に、狗奴国が 戦闘の犠牲者供養のために創建した神社と思われる。

岡田宮の主祭神神武天皇と言うのも時間軸が違う。

 

俄かに、九州王朝説が真実味を帯びてくる。

 

勉強が足りない事は重々承知しています。

ご指摘の点がございましたら、ご教授ください。

邪馬台国 卑弥呼の弟は、一大卒だった

魏志倭人伝の疑問点

①何故 邪馬壱国へ行く必要があったのか。

軍事同盟に値する国なのか。豊かな国のようなので 占領して属国にしようか。

とりあえず、誰か行かせて調べさせようとした。

②水行1里は、何キロなのか

日が明るいうちに目的地のギリギリ見える陸地(対馬)に向かい 懸命に漕ぐ。着いたら数日休んで又、次の陸地へ向かう。暗くなって陸地を見失ったら流されてしまう。=遭難したら海の端から真っ逆さまに落ちて行き 二度と生きて帰れない。狗邪韓國~尊馬國 千里 実際75㎞。 尊馬國~一大国 千里=実際一番近い所で72km。

故に、水行1里75mとします。

〔水平線越しにギリギリ見える距離が1,000里としていた。季節が夏なので、夏至は太陽の昇る方角は真東から23.4度ほど違います(地軸の傾き)〕

③何故 末盧国から陸行したのか

何故、ここから陸行したのか。伊都国からの行程は 色々な説がありますが、末盧国から伊都国までは、間違いなく陸行しています。楽な船旅を止めて辛い陸行を選んだのは、倭国本土を調べたかった為と推測ができる。

陸行の成果;道が整備されていない。=侵略は海からのみに限定される。海産物の食料が豊富。末盧国から伊都国までを歩測した。500里である

④何故、5千家の小国家 不彌國(フウビ・フヤ)に寄ったのか。

奴国には、食料調達や情報収集の為 寄港した可能性がある。でも何故、東へ100里の5千家の小国 不彌國に寄ったのか?

不彌國から御笠川を上ろうとしたが、水流が強く上れなかった。その為、不彌國に水嵩が落ち着くまで逗留した。

5,000家の小国 不彌國に寄ったことが、近畿説などの九州北部説以外の否定の根拠となる。

他の説では ここに寄る必要がない。奴国と10㎞しかなく 近すぎる。

伊都国からは、大きな川が数本渡る必要あり。わざわざ陸行するとは考えづらい。水行したと考えるのが理屈に合う。

末盧国から伊都国まで陸行し、陸行の辛さを実感。次からなるべく陸行を避けるようになったと推察できる。

⑤何故 途中から里ではなく日数になったのか。

卑弥呼は 伊都国に住んでいた。 

伊都国では 一大卒だけが書かれている事や平原遺跡1号墓は 明らかに女性用と思われることから、卑弥呼の墓と思われる。そして、一大卒は 卑弥呼の弟と考える。

故に、千余戸しかない小国なのに権力が強い。

【南至邪馬壹國。女王之所都】  女王の都ではなく、女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所。と 書いてある。

不彌國(宇美)から先を 案内人が、行きたがらない様子。「雨で川が増水し 氾濫して崖崩れもしています。次の投馬国へ向かうのに陸路で行けません。 萱船を造り 南に水行20日位かかりそうだ。又、邪馬壱国へ向かうには 南に水行10日 陸行30日かけて行く事になります」と 言い出す。どうしても行くなら こんなにかかりますよ。と言われた。

一大卒は、案内人に途中で引き返してくるように指示していた。

使者は、帯方郡を出発して既に1ヶ月以上経っており、女王国に着くのに 後2ヵ月掛かると聞く。 帰りの渡海の頃には海が荒れる11月になっている事を懸念し、行くことを断念し伊都国に戻る

 

この説の方が、しっくりくる。投馬国や邪馬壱国がどこでもよい事になるし、いい加減な戸数も云っただけ だから。

卑弥呼の居住地をハッキリさせない事が、重要だったのでは。何故ならば、帯方郡大和朝廷からも朝貢を受けているので、完全には信用できない。その為、一大卒は自分が卑弥呼の弟だと言わなかった。

行かせたくなかったので、里を知らない案内人が こんなに掛かると 日数で言った。

 

⑥1里は、何キロなのか。

伊都国まで500里移動。=実際53km と書いているのだから、陸行1里は106mで計算します。

⑦【女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない】と記されているのに 何故 里で書かずに日数で書いたのか。この時点で この魏志倭人伝の一貫性・信憑性が崩れているのに、どの学者も そこを指摘しないのか?

記述が矛盾するため、帯方郡の使者が 途中から行ってないのが分かる。陳寿は気付いていながら そのまま書いた。(誰も行った事がない のだから梯儁の報告書を疑うものは誰もいない。陳寿は、報告書通りに書いた。)

川の水嵩が落ち着けば、 御笠川を更に上り、投馬国(大宰府)を経て600mくらい船を担いで(押して)宝満川に移し、10日間船で南下 +歩いて1ヶ月かけて邪馬壱国へ向かうはずだった。

 

寿が、倭国を植物や動物を詳しく書いたのに、途中から端折って書かなかった わけ。

書く必要がなかった。植物や動物が、行程上は変わらなかったから。故に、動植物が変わる地域には行っていない。=沖縄や東北地方には行っていない。

 

⑨【その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。】と何故、書いたか。

呉への牽制の為と思います。

この場所は種子島近くに当たり かなり南になっている。植物と地理が不一致。=虚実

 

⑩本当に7万戸の巨大国家 邪馬壱国があったのか。

無かった。

投馬国が大宰府or妻郡であっても せいぜい2万戸。邪馬壱国が山門なら5,000戸と言ったところか(今の瀬高市柳川市大牟田市は海中)

 

邪馬壱国の場所は、

朝倉から浮羽の一部+八女の一部にかけてが、邪馬壱国の最有力の説であるが、7万戸(35万人)のはずがない。筑紫平野全部が邪馬壱国なら可能性あるのだが 理由;35万人の人口を食べさす農地が狭い(今より海岸は内陸にあった)、漁業(魚や貝を食べつくす)、ましてや燃料(木材を切り倒し、禿山になってしまう)

実際には、投馬国は5万戸ではなく話半分以下の2万戸ぐらい。邪馬壱国は7万戸ではなく、2万戸以下かも。投馬国で5万戸と言ったので、女王の都はもっと広いと見栄をはった。

 

⑩【以婢千人自侍】 1,000人もの侍女は、本当にいたのか

嘘です。無駄に千人を食べさせる必要は無い。侍女1,000人が本当は100人未満。これでも多いと思います。(江戸時代幕末の大奥でも最も多い時で1,000人程いたとされるが、それ以前は300人程だとされている。)

 

⑪水行20日+10日 陸行30日は何里なのか

計算方法

倭人伝には、帯方郡~邪馬壱国12,000里と書いてある。

帯方郡~不彌國  10,700里

残りの1,300里

不彌國~投馬国 水行20日

投馬国~邪馬壱国 水行10日+陸行30日

皆さんには 分からないと思いますが、梯儁・(ていしゅん)には分かります

梯儁は、末盧国~伊都国 500里 を 陸行 が 何日かかったのか知っています。

伊都国~不彌國 200里 を 水行  も 何日かかったのか知っています。

残りの1,300里を計算すればよいのです。

陸行1日4.7㎞で 仮定し、渡海で疲れていたなどを考慮すると、

末盧国~伊都国 500里 を 陸行 15日掛かったとすれば  30日で1,000里

残り300里÷30日=10里/1日

水行10日=100里  水行20日=200里

です。12,000里から逆算しただけです けど。

エクセルで作ってみてください。梅雨時の500里をあなたが思う日数で歩いたと仮定したら、残りは簡単に算出されます。みたいに ただの数字遊びです。

ちなみに この計算でいくと、投馬国は、不彌國から南へ水行200里(200×75m)=15㎞

邪馬壱国は、投馬国から南へ水行10日+陸行30日(100里×75m+1,000里×106m=113.5㎞

の距離です。御笠川を上れば 投馬国は、大宰府周辺になります。そして600m移動し、宝満川を下って行き 邪馬壱国をこの距離で探せば、吉野ケ里も山門も日田も全て水行の方が速いし安全になります。ので、該当する地域はありません。〔当時の九州には、熊や狼がいたので陸路を避けるはず〕。

又、末盧国~伊都国 500里 を 陸行 12日以下で歩くことは計算が成り立たなくなります。

書いた合計の距離で、邪馬壱国の場所を探さないでください。

行っていないのだから、邪馬壱国の場所を探し当てようとすること自体 無理があるのです。

また、この計算方法は 寝ていて ふと 思いついただけですから。

 

卑弥呼を美化しすぎている。

卑弥呼はハッキリ言って、老衰で死にそうな年寄りで、滅多に人に会わず、生口を中国に献上する。人身売買の親玉。鬼道・奇術で人を迷わし、呪う事を生業にした。鬼・山姥です。

 

卑弥呼の墓の場所

最有力は、卑弥呼避難先の糸島の平原古墳 平原1号墓 

副葬品の多さ(内行花文鏡・方格規矩鏡など40面の銅鏡)鏡の大きさが八咫あることや「八頭花崎八葉形也」の図象が施されていると云われる八咫鏡の同じ物ではとの説あり。侵攻した大和朝廷が奪った可能性あり。ただし、ここでは狥葬が見つかっていない

案外 奴婢なので 甕棺に入れずに そのまま埋めたのかも。

尚、円筒形器台が発掘されたことから、狥葬者用との説あり。

当時 甕棺は、高価な棺だったので豪族親類縁者のみ使用ができた。

 

⑭ 100歩の墓は、誰が造ったのか。

2股で1歩と数える。現代では半歩(70㎝弱)を1歩と表現している。中国からの伝来の時 違ったかもしれない。

子がいないので 壹與しかいない。少女の壹與は、ちょっと小股で半歩100(普通に測れば40m弱)の墓を造り 体裁を整えた。侍女奴婢100人ちかくを狥葬して大々的に葬儀を行った。 威厳を保とうとして 度々朝貢を行ない 費用が嵩んで国力を消耗していく。壹與の時代には、卑弥呼直轄領の邪馬壱国の(筑紫平野の)土地は、狗奴国の占領地となっていった。その為 壹與を共立する国家は 伊都国・奴国などの 北部九州がだけとなった。九州東側の同盟国は、神武東征の時 征服されていった。

大和朝廷は、狗奴国と共謀し 壹與の邪馬壱国を東と南からと攻めた。壮絶な戦闘の末 邪馬壱国滅亡。

 

邪馬壱国場所の結論

邪馬壱国の場所は分からないが 答えです

直轄領としての邪馬壱国はあると思います。但し、卑弥呼の住んでいる女王国ではありません。

場所が分からないように、一大卒がしたのです。直轄領としての邪馬壱国は瀬高山門と思います。強い狗奴国に小国の卑弥呼が対等に戦っている事を評価され、女王に共立された。狗奴国から近く危険である事や大和朝廷対策などの外交の為 伊都国へ移り住んだと思われます。

1日の日照時間が一番長い夏至時の6月末の梅雨時に倭国へ来た。邪馬壱国謎のファクターです。

陸行は、10日で47㎞くらい しか進まない。大雨や長雨なら10日間でも1歩も進まない。

中央集権や封建国家の概念が無いので、租税を中央国家に送らない。(卑弥呼は共立された=おだて上げられた=租税の収益は無いが 伊都国には関税収益が有る)中国のように魏・呉・蜀のような大国が多数あるわけではなく、町や邑のような小国しかない倭国では、国と国を結ぶ道路は 当時は殆ど整備されていない。隣の国へ行くのは船です。

又、偉い 帯方郡からの使者を そんなに歩かせるとは思われない。

 

海で先の見えない方角へは向かわない。(15世紀半ばの大航海時代まで待つ必要あり)

白村江の戦の時、朝廷軍の航路でも、松浦半島→壱岐対馬済州島 ルートです。

敗戦で慌てて退却したのに、出雲には向かっていません。

 

魏志倭人伝の怪しい所は、里ではなく日数になってから、戸数が大きくなったこと。を 見ると誰かが邪馬壱国 ひいては倭国を 大きな国家と見せたかった事が伺えます。

陳寿は 使者が途中までしか行っていないことに気付きました。そして 戸数が 曖昧な数と 分かっていながら そのまま書いたのか、若しくは戸数をもっと多くしたか。です。

この方が簡単です。 多い戸数=多い人口=強大な武力 

 

魏志倭人伝を読み解く重要ポイント

辻褄が合わないところは何処なのか。

文章を論理的に考え、理屈に合わない箇所を調べる。

魏志倭人伝を初めから真実性が薄いと拒絶するのではなく、何処に嘘が有るか。若しくは、虚実があると見抜く。

水行や陸行の考え方

陸行は、危険(狼や山犬・蛇)が多いし、食料の調達の狩りが難しい。又、帯方郡の使者に長距離歩かせない。

水行は、毎日 千里漕げるはずも無く 十分な休憩時間が要る。渡海は目的地が見えないとしない。

陳寿の狙い

実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。

呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。

邪馬壱国の場所

何故、5千家の小国家 不彌國(フウビ・フヤ)に寄ったのか

季節は、6月末の梅雨時

 

では最後に、嘘をついたのは、一大卒の指示を受けた 案内人でした。

私は 案内人が人口を多めに言った嘘と思います。陳寿は、人口のところを少し多めに書いたかも? 

答えは単純でした。遠くまで行きたくない案内人と一大卒、陳寿の思惑が重なっただけ。

殆どの研究者の方が、日数の距離、多くの人口を抱える都市の2つで迷路に迷い込んでいます。

普通に考えれば、途中から距離を里から日数に変えた事とその時から人口が急に増えているのに気づくはずですが。何故、多くの研究者の方がそこを注視しないのでしょうか。この「暇つぶし」を初めて2ヵ月のド素人の疑問です。

距離の嘘に気がつけば、多くの説の根底が崩壊します。多くの人口を抱える国家の存在が 嘘とわかれば、邪馬壱国が小国家で、卑弥呼直轄領では?の可能性が浮かんできます。

 

本当に7万戸の巨大国家 邪馬壱国はあったのか。

邪馬壱国は7万戸(約35万人)ですよ。食料もですが、燃料の薪は どうしたのでしょうか?人口が少ないうちなら裏山に行けば 薪は手に入ります。人口が多くなれば、通貨が無ければ薪の取引ができません。後の時代の人々は、通貨があったから、薪や炭・藁を買えたのです。【國國有市】とあります。当時なら物々交換の市だったと推測されます。市にどれだけの薪が並んでいたのでしょうか。1戸が1日3㎏の薪を使うとして 毎日210トン必要です。物々交換で多くの燃料は手に入りません。数年で遠くの山も禿山です。コメを通貨代わりにしたと思われるなら かなり無理があります。昔のコメの収穫高は 思うほど多くはありません。勾玉を通貨代わりも無理です。薪の需要と供給のバランスが崩れ すぐにインフレになります。理詰めで考えれば 答えは簡単です。7万戸の国家は無かった。同様の理論で倭国内の 他の地域でも 農地で邪馬壱国を探すのは無理があります。多くの古代文明が滅んだ原因は、薪にするため森林伐採を行ない砂漠化してしまった事が 大きな原因と言われています。又、寒い東北地方ではどれだけの薪を必要としたでしょうか。そして、多くの雪が降る越地方はどのようにして長い冬を過ごしていたのでしょうか。薪を得るために 生きるか死ぬかの紛争が絶えなかったと思われますし、人々が生きるために生活拠点を分散していった事は想像できます。

 

結論

(ア)魏志倭人伝の辻褄が合わないところをスルーせずに、文章を論理的に考え、理屈に合わない箇所を調べると、嘘若しくは、虚実があると分かる。食料・燃料の薪を考慮すれば、人口が多すぎる。道里が分かるとしながら日数で記載。

(イ)現代の道路や船旅の概念を捨てるべき。隣の国邑との国境の道は誰も整備しない。故に、船の利用をする。山中には、猛獣や盗賊がいる。

(ウ)季節は、6月末の梅雨時

(エ)陸行は、道が整備されていないので、10日で47㎞くらいしか進めない。又、狼や山犬が多く野宿は危険。土砂崩れ箇所がある。裸足で滑るなどの理由で、帯方郡の使者を伴った長距離歩行はしない。

誰も 裸足で橋も無い、蛇が居そうな畦道を自給自足の旅をしたくない。=簡単に山に入らない。

(オ)水行は、大変疲れるので、休憩・食事時間をたっぷりとる必要がある。又、渡海は目的地が見えないとしない。

(カ)陳寿の狙いは、実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。又、呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。

(キ)邪馬壱国の場所を特定するカギは、「何故、5千家の小国家 不彌國 に寄る必要があったのか。」 御笠川を上る為に不彌國に寄って葦船に乗り換えた とするしか説明のしようがない。

 

上記の全てを考慮すれば、

邪馬壱国(女王国)の場所は、北部九州だが、場所の特定は出来ない。

南方系民族で、生口文化があり 入れ墨民族のシャーマンである卑弥呼と 渡来人と弥生人の混血民族の大和朝廷は、継続性は無く 別の国家である。